大洋ボート

谷崎潤一郎『春琴抄』(2)

 事件が起こるのは、そういう二人の暮らしぶりが安定して長くつづいたのちのことだ。春琴が三七歳のとき、彼女は宅に忍び入った賊に鉄瓶の熱湯をかけられて顔に重度の火傷を負う。作者は賊の正体を明かさない。というよりも、この小説は遺された春琴に関する小冊子を拠り所にするという体裁をとっているので、その本によっては犯人は明らかではないからだ。また犯人探しが作者谷崎の本作における目的でもない。ただ、疑うべき人物の何人かは挙げられている。春琴に言い寄ろうとした某商家の若旦那のことはやや詳しく書かれているが、これも断定的なあつかいではない。春琴が周囲の人々から怨みを買っていたことの説明で十分だとする。それよりも小説の先を急ぎたいがためで、二番目の大きな出来事を間髪を入れずに書かなければならないからだ。

 佐助はみずからの手で針を使って両目をつぶすのだ。ここは何度読んでも字面から眼をそむけられずにはいられない。作者はもんどり打つような痛みではないと記すが悲痛だ。火傷の後が無残にも顔に残ってしまった春琴の、顔を誰よりも身近にいる佐助に見られたくないという心情を痛々しいばかりに忖度したすえの自傷行為だ。佐助は今まで以上に春琴に近づきたかった。情熱の高まりそのものだがやけっぱちという印象はないし、後悔の跡も微塵もない。佐助のその行為を知ったときの春琴の反応とそれを間近で見る佐助の反応は感動的だ。

程経て春琴が起き出でた頃手さぐりしながら奥の間に行きお師匠様私はめしいになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額ずいて云った。佐助、それはほんとうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思していた佐助は此の世に生れてから後にも先にも此の沈黙の数分間程楽しい時を生きたことがなかった〔中略〕それにしても春琴が彼に求めたものは斯くの如きことであった乎(か)過日彼女が涙を流して訴えたのは、私がこんな災難に遭った以上お前も盲目になって欲しいと云う意であった乎そこまでは忖度し難いけれども、佐助それはほんとうかと云った短い一語が佐助の耳には喜びに慄えているように聞えた。そして無言で相対しつつある間に盲人のみが持つ第六感の働きが佐助の官能に芽生えてきて唯感謝の一念より外何物もない春琴の胸の中を自(おの)ずと会得することが出来た今迄肉体の交渉はありながら師弟の差別に隔てられていた心と心とが始めて犇(ひし)と抱き合い一つに流れて行くのを感じた(p65~66)註、句読点の省略は原文のまま


 谷崎潤一郎は佐助の感情に入りこんでいる。春琴の「沈黙の数分間」のなかに彼女のかぎりない感謝と喜びを佐助が見いだす瞬間は、まるで作者その人の感情であるかのように書かれている。そして読者もまたそこに入りこめる。私はこの場面では、身体を内部から硬直させていた何物かがふわっと溶けてしまうような解放感をえた。佐助も女の傍に仕えることができて肉体を抱くことができても、刻苦忍従の側面はついてまわっただろう。いたわられることは少なかった。そこへきての、どんづまりの「沈黙の数分間」だ。こんな「楽しいとき」はない。また、春琴も人間だ。ここまでされたらいくら傲慢で自己本位であっても、感動が起こらないはずはない。春琴自身、人に対して心底から感謝の念にとらえられるのはおそらく初めてにちがいない。身分差を越えてのめしい同士の対等の関係、セックス以上の男女の深いつながり、心と心がひとつになるという至福感、これは想像を超えているが読者はすでに想像させられていて撃たれるのだ。また、壮絶な行為の果てのあらたな結びつきなのだが、谷崎は興奮を自制して適度な冷静さを保って筆を進める。もうひとつ重要な反転があるのだ。

畢竟めしいの佐助は現実に眼を閉じ永劫不変の観念境へ飛躍したのである彼の視野には過去の記憶の世界だけがあるもし春琴が災禍のため性格を変えてしまったとしたらそう云う人間はもう春琴ではない彼は何処までも過去の驕慢な春琴を考えるそうでなければ今も彼が見ているところの美貌の春琴が破壊されるされば結婚を欲しなかった理由は春琴よりも佐助の方にあったと思われる。佐助は現実の春琴を以って観念の春琴を呼び起こす媒介としたのであるから対等の関係になることを避けて主従の礼儀を守った(p70)


 佐助がみずから眼をつぶしたのは、佐助自身がだれよりも顔に焼けど跡の残った春琴を見たくなかった、春琴が顔を佐助に見られたくないという心情を慮ったということよりもそちらの理由のほうがもっぱらではなかったか、私はそう読みたいのだ。現実の目の前の春金をみることによって美しかった頃の春琴の面影が消失することをおそれた。それを永続させるためにあえて眼をつぶしたのだと。驕慢な性格も美しかった春琴に分かちがたく付随するもので、そこからも春琴の美しさを偲ぶことができる。佐助は対等の関係を望んだのでもなければ、異常な行為によって春琴の感謝と感激を引き出したかったのでもない。それはそれでありがたかったのだが、もっと深い本能的欲求にもとづいて自傷行為は行なわれた。これは前に引用した部分の谷崎自身による修正にあたるのかもしれない。もっともうつくしい頃の女性像を焦がれて大事にする、見上げる姿勢を維持するために身分差をもあえて固定してそこに身を置く、いかにもこの作家らしいではないか。「観念」という言葉が黒々しく残る。もはや現実の春琴は盲目の佐助の観念境のなかのうつくしい春琴の材料になってしまった。だがやはり彼女には彼女らしくふるまってもらいたかったので、以前にもまして身を粉にして佐助は世話をしたのである。

 佐助の春琴に対する拝跪と愛は、宗教的信仰に似ていなくもない。信仰の対象を絶対視するという点において。しかし対象はすぐ目の前にあってはっきりした像を結んでいる。私は、信仰には理解がおよばないこともあるが、佐助の場合は、神(春琴)が不可視だったり可視だったりと揺れることはない。また佐助は神(春琴)をとおして世界全体を救出しようなどとは思わない、そういうことには興味を持たない。ただ春琴の傍にいつづけて世話を焼けば天にも上る心地がして満足できる。春琴が救われるかどうかは当面不明だとしても、それを目指して労苦に甘んじるとしても、佐助自身は即座に救われる境地に到達できるのではないか。また、うつくしい女は春琴ばかりではないだろうが、佐助はほかの女性には目もくれなかった。これは無理をしているはずなのだが、谷崎の巧妙な筆遣いのためその気配は読みとれない。これはやはり宗教的と呼んでも差し支えあるまい。

 谷崎が描いた佐助と春琴の世界は小さい。佐助の関心がひとりの女性にのみ向き合っていることとそれは吊り合っていて、小さいことに私は不満が残る。だが小さい世界でも、これほどの求心的な人間の行いを説得力を持って紡ぎだした創作物は多くはない。(了)

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