大洋ボート

メルヴィル『白鯨』(2)

白鯨 中白鯨 中
(2004/10)
ハーマン・メルヴィル八木 敏雄

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 死にいたるかもしれない危険な行為を持続させるには理由がなければならない。だがエイハブは確固とした理由を乗組員の立場に則して明示することができない。ただ戦いたい、ただ自分の力を白鯨との戦いのなかで出し切る、このことのみにみずからが利己的に吸引される。合理主義者である一等航海士スターバックに反抗され殺されそうにもなることは十分頷ける。スターバックによらずとも、捕鯨船は鯨油そのほかの財貨を積んで帰還することが目的である。陸地では乗組員の家族もいれば、ピークオッド号に投資をした多数の人たちも待っている。その人たちのもとへ帰り、また潤わすことがピークオッド号の使命にほかならない。モービー・ディックとの危険なたたかいは避けなければならないのだ。だがスターバック以下の乗組員全員がエイハブの方針に靡いてしまう。その乗組員の内心の変化の過程はあまりうまくは描かれていないが、結局はエイハブの神秘的なまでの旺盛な戦闘意欲に引き込まれるようである。また船長という立場に立脚したうえでの有無を言わさぬ支配力の強さでもある。隻脚で精力的に船上、そして洋上を動きまわるエイハブは目に見え、その姿に引き込まれても、乗員にはどうやらエイハブの内心までは見渡せない。またエイハブ自身も自分を明解に説明することができないようだ。読者にも後姿や影のようなものしかエイハブからは見えてこない気がしないでもない。だからエイハブみずからに語らせることで切り抜けようとする。そこが作者メルヴィルの苦心し、もっとも力を入れて書いたところでもあろうか。またイシュメイルの「鯨学」をはじめとする気宇壮大な語り口はまどろっこしくも、エイハブという人の人となりの外堀を埋めていくようでもある。「気宇壮大」さがエイハブの暗い闘争心を祭り上げる役割をする。イシュメイルによれば、というよりも彼の口を借りた作者メルヴィルによれば、またエイハブの独白によれば、エイハブは宗教論的に戦いを根拠づけようとする人である。

 エイハブは神が不在のままであるかもしれない自然界に挑戦する。その自然の代表格がエイハブにとってはモービー・ディックに他ならない。勝利すれば神の世界が顕現することになる。そこで世界は変わる。いわばエイハブは神の代理人をひそかに自任している。だからみずからに神がかり的な力技を想起する。だが想起以上のことはできない。何故ならモービー・ディックに対する彼の戦闘力は飛躍的に向上することはないからだ。人間の肉体の能力には当然限界がある。想起した彼と実際の彼との落差に懊悩せざるをえない。神に祈っても死ぬ可能性のほうが高い。死が必定ということではないが、ほんのわずか勝利の可能性が残されているにすぎない。また、そういうちっぽけともいえる自分の存在をエイハブはまた、神の代理人であるとともに人間界の代表としても自任するらしいのだ。単に乗組員の代表ということではない。だから自分たちの勝利は人間全体の勝利と見做される。エイハブはかかる志向を、論理づけを、長い年月における鯨との争闘のなかではぐくんできたようだ。妄執といえるものだが、たいへんな力強さを受けとれる。メルヴィル(イシュメイル)は、彼は幸福よりも悲しみに執着したと書く。幸福の何たるかを十分に知ってうえでそれを選んだのだと。

エイハブの考えによれば、この世の幸福には、その至上のものにおいてさえ、ある種の卑小さがひそんでいるのに対して、あらゆるこころの悲しみの根底には神秘的な意味がやどり、人によっては、それが大天使的な壮大さにまで成長する。それゆえ、悲しみの系譜を丹念にたどって行きつく先は自明であって、選択の余地はない。かかる荘厳なる人間の苦悶の系譜をたどり、ついに到達するのは神々の起源のない起源とも言うべき原点で、そこでわれわれが認めざるをえないのは、干し草をつくるのに余念のない歓喜の太陽や静かにシンバルをかなでる中秋の満月の存在にもかかわらず、神々もまたつねに歓喜のさなかにいるわけではないという認識である。人間の額に烙印された悲しみのあざは、同時にまた、それを烙印した神々の悲しみのしるしにほかならないのである。(下巻p161~162)



 エイハブにとって「幸福」とは、たぶん鯨採りの生活から足を洗って陸地で家族とともに暮らすことだろう。命がけともいえる船上生活からの退却であり、待っている人を選び安全を選ぶことだ。また「悲しみ」をうやむやにしてしまうことだ。だが「悲しみ」とは、白鯨に象徴される自然界の猛威とのたたかいのさなかで持続する激しさや、鯨に銛を打ち込むときの本能的な歓びや生の充実感を基盤にしている。たたかうことは、この「悲しみ」を正面突破しようとする試みであり、「悲しみ」それ自体のなかに自己否定の欲求を内包している。それが長く果しえないからこその「悲しみ」なのだ。悲しみは同時的に闘争心の喚起だ。そのなかで想起されるべき自己とは、神々が平和でもって満たしきれない自然界に対して、神の代理として挑みかかるに足る壮大な自己でなければならない。全精力をかたむけてこれからやろうとすることに対しては、傲慢さと想像力は否応なしに膨らむ。当たり前のように宗教的色彩を帯びてくる。

おお、汝、きらめく霊よ、正しき信仰が挑戦であることを、わしはいまにして知る。愛に対しても崇拝に対しても、汝はこころ動かされることなく、憎しみに対してとおなじく、死をもって応じるのみ。汝には、ただ殺戮の応報あるのみ。いまでは、どんな愚か者も汝に反抗しようとはせん。わしのなかにも、汝の言語を絶し、場所を絶した力がある。しかし、その力が無条件かつ全面的に支配することに対しては、わしは自分の、地震にも比すべき全エネルギーをふりしぼって抵抗してみせる。この人格化された非人格とも言うべき自然の脅威のもなかで、わしはひとつの人格として立つ。なるほどわしの存在は微々たる一点にすぎず、いずこよりきたり、いずこに行くかさえさだかではないが、それでも生あるかぎり、わしの内部には女王のごとき人格が君臨し、その王権を主張しているのを感じるのだ。(下巻p249~250)


 ここでいわれる「霊」とは神のことではない。落雷によってマストや帆桁が放電現象をおこして発する青白い炎を指している。怪異な自然の象徴である。

 エイハブのこのような宗教哲学論的探求は、無論みずからの鯨採りという実践を前提にしたものである。実際にやれるかどうかはともかく、私たちが困難な実践に想像力を向けることなく「論」だけをとりあげてあれこれと考えるのは間違いに通じやすいのかもしれない。逆に、無前提に実践に降りることによってエイハブと同じことをしたからといって、エイハブの哲学が体得できるということでもないだろう。またエイハブならずとも、いくら傲慢と想像力を膨張させても、その張りつめた精神が実践のなかで変化をこうむらないわけではない。実践は疲れさせ負傷をおわすもので恐怖をもたらすものだからだ。まさに「膂力」や「偏執」がそのさなかで、はげしく試される。だからといって強さにあこがれること、使命を担ったつもりになって戦いに赴くことが無意味かというと、そんなことはないのだ。人間が挑戦するということのなかには危うさが、愚かさが、多分に含まれている。と同時に誇りそのものでもあるのだ。安全や妥協よりも、ある場面では人間は無謀ともいえる困難な戦いを選びとってしまう。血の沸騰を体感することに魅了されてしまう。全体性をそこにこめてしまう。この小説が私たちを引き込む大きさはそこのところにあるのだろう。

 エイハブは信念につらぬかれて頑な一辺倒になっているのではない。やはり幸福や平和に未練があって揺れ動く。嵐のあと、えもいわれぬ澄み渡った空と海を目にしてエイハブは陶然とした気分になる。そして暫し頑なになった心を解きほぐして涙を流す場面がある。自然はうつくしくもあることを思い出したのだ。慰められたことへの感謝だ。あるいはエイハブの涙は、死の覚悟と、この世への訣別の挨拶として読みとることもできるのかもしれない。一等航海士スターバックは、エイハブのこの涙を見て、急激に彼に親近感を募らせていく。

 だがエイハブは内面はともかくも、モービー・ディック追跡に関しては頑なで冷酷である。ピークオッド号は洋上で何隻もの帆船と出会うが、日本沖で最後に出会った船はモービー・ディックを発見した直後だった。だがその船の船長は息子二人を行方不明になった捕鯨ボートに残してきて、その探索の真っ最中で、エイハブにも探索の協力を依頼する。人道上は依頼を受けるべきだろう。だがエイハブはにべもなく断って息せき切って白鯨追跡に舵を切る。もはや彼の心は燃えたぎっているのだ。
(了)

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