大洋ボート

メルヴィル『白鯨』(1)

白鯨 上白鯨 上
(2004/08/19)
ハーマン・メルヴィル八木 敏雄

商品詳細を見る

 この長い小説を読んでいる間、大海原の眺めをちらちらと思い浮かべた。磯の香りも。海洋が舞台の小説だから当然でもあるが、それ以上のたいした意味はない、むしろ異常に長い鯨に関する文献的資料の紹介やら、その徹底したこと細かい追及やらが退屈であって、そこから目をそらすためでもあったかもしれない。だが小説が終わろうとする直前になってこの大海原が目の前に飛び込んできた。つまり語り手であるイシュメイル一人を残して、帆船ピークオッド号は乗組員全員とともに海底に沈んでしまう。青々としているのか黒々としているのかはわからないが、海面が一瞬強い光をはなって私に訴えかけてきたのである。まるでそれまでの人間の営みなど一切合切なかったかのように。これはこわい。現実としての海はたしかに厳しさを有している。

 海へのあこがれは私のように安っぽい質でなくても、それ以前からある。船旅なら寄る港があり帰る港がはじめから予定されているが、そういうこととは別に、もっと遠くへどこまでも行ってみたい、あるいは世界の果てまで行って至上の地にたどり着きたい、そんな漠然とした思いを誰でもが一度は抱くのではないか。そう思わせる魅力を海自身が有しているのではないか。そして反面、現実としての海は峻厳そのもので、人や船をたちまち呑み込んでしまうのだが。もしかすると人類がアフリカを起源にして全世界に居住地をひろげていったのも、こうした海へのあこがれが突き動かす力として、人類の心の根底にやみがたくあったからではないかと空想したりする。太平洋の無数の小島に太古から人々は住んでいるではないか。無論、海のかなたへのあこがれといったものが動機のすべてではないにせよ。この小説は甘くはないが、そんな匂いがたちのぼってくる気がしたので記しておきたい。

 この小説は一八五一年に発表された。作者メルヴィルが三二歳のときである。当時のアメリカは新興国であったが、捕鯨についてはすでに世界一の船団の規模であったらしい。捕鯨といっても食料としての鯨肉が目的ではなく、灯火に使う油の採取が目的であった。石油がいまだ普及にいたらない時代であった。ほかにマッコウクジラの脳内からのみとれる「鯨脳油」と呼ばれる芳香をもつ高級油や高級香水の原料の竜涎香(リュウゼンコウ)、セミクジラの口腔内からとれる「鯨鬚」(ゲイシュ)と呼ばれるブラインド状の繊維質のものなどが採取の対象であった。最後のものは女性用のコルセットなどに用いられた。またマッコククジラの歯は工芸品の材料となる。肉として食されるのは尾鰭付近のみで、とくに好む船員だけがその機会をもったらしい。鯨の体表面をおおう脂肪分を大量にふくんだ部分以外の肉はそのまま海に捨てられる。これは冷凍施設がないのでいたしかたない。航海の期間は未定で、鯨油が満載の状態になればただちに帰還の途につくが、長くて三年もの間洋上にとどまることになる。

 主人公はピークオッド号の船長エイハブである。前回の航海でモービー・ディック(「白鯨」)と呼ばれる世界最大のマッコウクジラに片足を捥ぎとられてしまい、その怪物に再会して復讐を果すべく執念を炎と燃やす。鯨の骨でつくった義足をつけてまで不自由ながら捕鯨ボートにみずから乗り込んで格闘する。乗員には尊敬を受ける反面、煙たがられもする。孤独なことは勿論、「暗鬱」「偏執狂」という言葉が出てくるが、まさにそれらにぴったり当てはまる人物像だ。だがメルヴィルはエイハブをことさら特異な人物として描こうとするのではない。鯨採りのなかから鯨採りゆえの必然を持って出現した典型的なそれとして描こうとしている、ここは留意したい。つまりは鯨採りならエイハブ的心性を賛否はともかくとして、感覚的に少しは理解できる範囲にあるのだ。

 メルヴィルは新米乗組員でもあるイシュメイルをして古今の文献をまさに総動員しながら、鯨と人間の争闘の歴史を語らせる。また航海の逐一を微に入り細を穿つようにして語らせる。無秩序で、思いついたらその方向にどんどん話が展開されて尽きることがなく、過剰だ。だが海と鯨という範囲からは大きくはそれない。鯨がいかに巨体でおそろしい生き物=レヴィヤタンなのか、またあこがれを満たしてあまるほどの神秘を人類(またイシュメイル自身)にもたらしてくれるのか、実際的にもいかに貴重な財貨を陸地にとどけてくれるのか、まるで鯨の広報マンとしてイシュメイルは語る。メルヴィルは若い頃貨物船や捕鯨船に実際に乗り込んで長い航海をしたことがあるらしく、そのときの見聞が生かされることは勿論、やはり捕鯨と海に対する彼自身の人一倍のあこがれを、そしてうんちくをイシュメイルの口を借りて自信いっぱいに語りつくす。

 そして何よりも、長い航海に耐えて鯨に立ち向かって行く男たちの雄姿をこそ語るのだが、実は「鯨学」の記述があまりにぶ厚すぎて目立たないくらいにまでなっている。鯨採り(乗員)は鯨を発見したならばただちに捕鯨用ボートを下ろして立ち向かって行く。とくにマッコウクジラはわずかな数の銛が命中したくらいでは絶命はしない。暴れまわって小さなボートくらいは破砕してしまうので危険である。だが男たちは本能的に立ち向かっていく。その勇猛と冷静、さらに「凶暴」。とくに現に眼前でくりひろげられる鯨との格闘やその後の捕獲と解体作業にまでいたる一部始終の描写は生命力がある。ここまで我慢して読んできた甲斐があったなと思わせて喜びをもたらすことは必定だ。大海の果てであっても義務として仕事を、恐怖と興奮を秘めながら冷静にやりとげてしまう男たちには読んでいて脱帽する以外にない。一種たいへん奇妙な光景(巨体を帆船に横付けにして脂肪分の多い外側の肉を「オレンジの皮をらせん状にむくように」巻き取っていく。さらに体長の三分の一もあろうかという巨大な頭部を切り取ったあと、海水の浮力を利用して半分を沈ませる状態で切り口を上にして吊り下げて、ぬるぬるしたその切り口の部分に男一人が立って、柄杓で鯨脳油をすくいとっていく。)に私たちは感動を覚えるのだが、まさにこれは仕事であり文明の維持であり、その意味でははるか後方の陸地とつながっているし、無論読者ともつながっている。

 イシュメイルは言い訳のように、また照れのように、鯨の壮大さについて語れば語るほど気宇壮大になると自分について言う。蚤(ノミ)についていくら語っても壮大にはなれないとも言う。読者は長さに辟易となりながらも、同時に彼の語りについていきたい気にさせられる。少なくともイシュメイルが読者をしてそんな気分に引きあげてみたいという欲望が見えすぎるくらいなので、私たちもかえって煽られるのだ。鯨と海についての範囲の饒舌であっても、なにかしら地上をはなれて天にしだいに近づくような壮大さと爽快さを感じる。そして彼の壮大さの意図の中心にどっしり腰を下ろしているのがエイハブである。語り手イシュメイルのなかのあこがれとしてもエイハブはある、と私は思う。そしてエイハブ自身もまた、若い時代にはイシュメイルと同じ質のあこがれを鯨と海に向けて抱いたと勝手に想像してしまう。またメルヴィルにとってはエイハブは特定の人物像をモデルにしたのかもしれないが、そうであるよりも、鯨採りのなかから必然的に生まれ出たカリスマ的人物像として苦心惨憺して彫琢したがっているように読める。

 鯨を追う航海が爽快であるならば、また鯨の捕獲と曲芸のような解体が、いったん築き上げた文明を雄雄しく維持して陸地に富を授けてくれる、そういう意味で爽快でたのもしくあるならば、難攻不落といわれるモービー・ディックにのみ執着するエイハブは、そういう爽快な気分や、また安全を願う乗組員にとっては危険でまるでどす黒く、後退する印象を初めはもたらす。エイハブの胸中にあるものは文明や仕事ではない。たとえそうであっても、それはモービー・ディックにたどり着くための、乗員に手助けしてもらうための手段であり口実だ。つまりは彼は闘争者なのだ。エイハブは六十歳に達するという。四〇年あまりの歳月をほとんどを鯨との戦いのために船上で暮らさねばならなかった。その長きにわたって肉体と精神を鍛えあげてきた。死や負傷の恐怖と拮抗しうる「偏執」と「膂力」を築きあげるにいたったのかもしれない。だが彼は同時に戦いが常住の場所だという自覚と「不幸」を背負い込んでしまった。それが彼自身の運命であるとの自覚にたどり着いてしまったのだ。だからモービー・ディックに片足を捥ぎとられたからにわかに復讐の亡者になったのではない。モービー・ディックとの再戦を望む心のなかには復讐心はあっても、それよりも大きく彼の人生の永遠の課題である戦いを継続させたいという切実な欲求がある。
 
 鯨採り、とりわけマッコウクジラ採りはきわめて危険な仕事であり、殺伐さ、凶暴さを捕獲者ひとりひとりに刻印せずには置かない。この凶暴さをじつはエイハブと乗組員は共有していて、乗組員もそれは知っている。ただ乗組員はエイハブのように凶暴さをさらに高めよう、死と負傷の恐怖に対抗しよう、などとはことさら意図しないのだ。同じ行動をする者どうしが知りうる同じ部分を孤独な老人!が拡大し戦おうとするとき、老人の周りの人はそれを目の当たりにしてどう思うのか。危険に巻き込まれるという危機意識や忌々しさと同時に、やはり親近感がひそかに芽生えるのだろう。

 イシュメイルは比較的安全なセミクジラ専門に追う鯨採りを軽蔑するようであり、その気分はピークオッド号の主要な乗員にも共通するらしく読める。(セミクジラばかりを追う方針の船に洋上で出会うカ所がある)彼らはマッコウクジラ採りに誇りを持っている。モービー・ディックはさすがに敬遠するが、気概をふりしぼってまで挑戦しようとするエイハブの心情がわからなくはないのだ。潮吹きを洋上に発見し、ただちにボートを下ろすときの、さらにその巨体に銛を打ち込むときの血湧き肉踊るというべき興奮は、恐怖を忘れさせるほどの本能的なものらしい。

関連記事
スポンサーサイト
    00:49 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
Comment







(編集・削除用)


管理者にだけ表示を許可
Trackback
http://oceanic.blog70.fc2.com/tb.php/232-ff4bb7ea
プロフィール

seha

Author:seha
FC2ブログへようこそ!

カレンダー(月別)
06 ≪│2017/07│≫ 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
最新の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
月別アーカイブ
全ての記事を表示する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
ブロとも申請フォーム
ブロとも一覧
ブログ内検索
RSSフィード
リンク