大洋ボート

ミラーナ・テルローヴァ『廃墟の上でダンス』(4)

 選別収容所と呼ばれる地獄の施設がある。チェチェンに数十ヶ所あるとミラーナは書いているが、ミラーナの気の重さが伝わってくる。ロシア軍が一つの村なら村に掃討作戦をかけた際、従順な態度をとらなかったり挙動不審に見えたりする人物を、有無を言わさず連行してぶちこむところだ。拷問は日常茶飯事で、殺される場合もある。女性ならレイプされる。また例によって賄賂の横行するロシア社会だから家族が大金を積めば釈放してくれることもある。死体も金を積めば返してくれる。また臓器売買も行われているという。何年か前に、アメリカ軍のイラク人捕虜収容所における虐待問題がクローズアップされたが、この「選別収容所」はそれを上まわる非人道性がある。というよりもロシア軍は、と言い換えたほうがいい。

 ミラーナの友人のムーサもここに入れられた。二〇〇〇年二四歳のときだ。「通路」と呼ばれる暴行を最初に受ける。二列に並んだロシア兵の間を歩かされ、両側から棍棒が雨あられと降ってくる。手でかばっても無防備になったところを撃つので打撃は防げない。そして倒れたら即刻殺される(そう告げられたのか?)ので、歯を食いしばって通り抜けなければならない。通り抜けるとほっとするのだが、これは最初の「ウォーミングアップ」にしか過ぎない。五人一組の監房に入れられて、「日課」としてその中の一人が拷問の対象者として選ばれるのを待たなければならない。誰を指名するのかはロシア兵の恣意か、ともかく事前には知らされないようだ。しかも「通路」によって既にほとんど全員が大きいダメージを受けている。 

 それから毎日兵隊がやってきて、日課の拷問のためにぼくらのうちの一人を連れ出す。連中はドアを開けると、まず数分のあいだぼくらをながめまわすのさ。そのときの薄ら笑いが忘れられない。あれこそ最悪の瞬間かもしれないな。だって、そのあいだずっとほかの誰かが選ばれますようにって願わざるをえないわけだから。隣に寝そべってる若いやつを見て、こいつはどうせ死にそうだから、代わりに犠牲になってくれないかなってね。そして実際にそうなると、安堵のため息のあとから吐き気がしそうな自己嫌悪が襲ってくる。(p149~150)



 詳しくは書かれていないが、ムーサもまた独立派で第一次戦争のときは戦った人らしい。自己犠牲的精神を発揮した人が、本能的なエゴをどうすることもできずに震えている。誰しもが自分だけは助かりたいという思いを消滅させることはできない。だが「吐き気がしそうな自己嫌悪」とは、これは体験者でなければわからないことかもしれないが、とにかく切り立つような倫理的な感情だ。他の人ならもっと愚鈍になりうるのだろうか。私には何とも言えない。そして拷問部屋からは連日すさまじい声が聞こえてくる。耳をふさいでも頭蓋骨に響いてくる。「どんな声かなんてとても説明できないね。聞いた者でなきゃわからないよ。」

 私は映画『麦の穂を揺らす風』の一場面を思い出した。北アイルランド紛争を描いた作品だが、収容所でメンバーの一人が指の爪を剥がされる拷問を受ける。別の部屋に閉じ込められたほかの多くのメンバーにその悲痛な声が届く。その際励ましのために彼らは抵抗歌を合唱して当のメンバーに聞かせるのだが、見ていてつらかった。歌の励ましよりも痛覚のほうがなまなましく伝わってきた。映画は視覚と聴覚に直接に響いてくる。書物の場合は言葉がフィルターとなるので、映像は喚起されるものの生(なま)の刺激は減殺される性質がある。だから映画よりも残酷さが上まわることがあっても耐えられるようだ。この本の今書いているような場面は、もし映画が丹念に描写したならとても正視できないだろう。
 
 書物も映画も想像を刺激し、また考えさせられる。すべての日本人がそうとはかぎらないが、私は少なくとも平和な環境に取り巻かれていて、些細なことで収容所にぶちこまれて地獄を刻印されるチェチェンの人々とはその生はまるでちがう。この落差には目を瞠らなければならないだろう。別に私が自分の平穏さに後ろめたい気持ちを持つことはない。またチェチェン人への同情をことさら増幅させなければならないのでもないとは思うのだが。

 さて当のムーサだが、いくつもの種類の拷問を受けた。記すのもいやだが、電気、手の串刺し、ヤスリによる歯の切削、タバコの火の押し付け、指・あばら骨の折損等。だが彼は覚悟を決めていたにもかかわらず、幸いなことにロシア人将校と交換されて釈放されたのだった。ほかにも例を出しておこう。従兄のイルヤースという人も助かった一人。ロシア兵の一人がたまたま彼と生まれ故郷が同じだったことを知って、家族に連絡してくれて、家族が金を出して釈放された。だがなんと他の四人の仲間は、静脈にガソリンを注射されて殺されてしまった。(他の例では、複数人がロシア兵にロープで一緒に縛られて手榴弾で全員殺されたという、なんともむごたらしいやり方も紹介されている)

 「22、サラウディの伝説」では選別収容所から果敢に脱走した男が取り上げられている。二度と出られない、つまり全員が殺される運命にあるといわれるハンカラという場所の選別収容所に当のサラウディは入れられた。そして先ほどのムーサ以上の拷問を受けてぼろぼろになった。だがサラウディは彼をいたぶろうとして監房に一人で入ってきたロシア兵を殺し、制服と武器を奪って身につけて、怪しまれることなくハンカラを脱走することに成功した。曲折は省略するが、彼は家族のもとにたどり着くことができた。家族はFSB(ロシアの諜報機関)と交渉し「莫大な身代金」を払って見逃してもらった。何しろロシア兵殺害犯だから金額はつりあがるのだろう。サラウディの実話は村の伝説となった。だがサラウディ本人はそのあと平穏に暮らすことはできなかった。悲痛だ。

 でも、サラウディも「ハンカラに入ったら二度と出られない」というジンクスから逃れることはできなかった。家族のもとに戻ってきたサラウディは、もはや以前のサラウディではなかったのだ。麻薬におぼれ、家族や友人を罵りまくり、麻薬を手に入れるために相手かまわず盗みを繰り返すようになった。そして半年後に弟と大喧嘩をして、力の余った弟に押された拍子に階段からころがり落ちて死んだ。ハンカラから奇跡的に脱出したサラウディは、こうして弟によって――故意ではないとしても――殺されたのだ。(p155~156)


 好奇心や慢心によって麻薬に手を出したとはとても思えない。死に、顔をこすりつけられるほどの暴力をこうむった人は、とてもその記憶の生々しさから逃れることはできないのではないか。逃れようとしても追ってきて全身を捕捉される。恐怖と幻覚に支配されてとてもうち勝てない。生理と精神が破綻してしまったのだ。またはげしい暴力を受けたことによる肉体的後遺症の問題もある。薬による幻覚にすがるしかないのかもしれない。ミラーナ・テルローヴァはこのあたり何も分析していない。記すべき事実を最低限追うだけだ。生半可を書くことを慎むのかもしれない。しかし私は書物にボールを投げ返してみたくて生半可を書いている。ボールがとどくかどうかはわからないが……。この物語にはつづきがある。母はショックによって二週間後に死亡。さらに弟は兄と同じように麻薬漬けになってしまった。現在は親ロシア系チェチェン大統領の私兵組織(カディロフツィと呼ばれる)に属している。サラウディばかりか、家族も滅びてしまった。

 ミラーナ・テルローヴァは戦った人にやさしい。このサラウディはじめムーサや前回紹介したアリなどの、戦った人がほとんど必然にみえる弱さの露呈に対して包みこむようである。ミラーナは彼等を忘れまいとする。彼等はミラーナとチェチェン人にとっては同志だ。しかも決して狭量な意味でつかわれる言葉としてではなく「同志」なのだ。将来にわたって彼女は語り継ぐだろう。戦った、また戦いつづける人々について、またチェチェンの困難な状況について。

 本書はすぐれた手記である。少女から大人の女性に成長する過程をとおして、自分や家族、友人をそしてチェチェンという「国」の十年の歩みを気負いなく綴っている。めげそうなりながらも生来の明るさで希望を捨てない。また「狂気と絶望」に陥らないように自他をいましめる姿勢も立派だ。ミラーナのような人がいるかぎりチェチェンは滅びない。楽観はとてもできないが、廃墟のなかで彼女(たち)は柔軟にしなやかに戦術を練りあげて独立への道のりを既に歩みはじめている。私の取りあげ方は暗い面にのみ傾いてしまった。だが明るいエピソードも豊富にちりばめられている。たとえば、空襲と砲撃を避けるため村の人々が地下室に退避している。そのときミラーナの親戚のおばさんがパンを焼いて持ってきてくれる。全員が分けて食べるのだが、そのときの味覚とあたりに広がる香ばしさは、凝縮された幸福感があって人々をうっとりさせる。たいへん印象的だ。
(了)
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