大洋ボート

ミラーナ・テルローヴァ『廃墟の上でダンス』(3)

 何ヶ月か前に見た映画『告発のとき』は衝撃的だった。イラク戦争に参加した若い兵士が、いわゆる心的外傷後ストレス症候群を深くわずらって殺し合いに巻き込まれるという話だったが、兵士のなかにこの症状が広範囲に浸透している印象を受けた。大きい暴力を目の当たりにしてその恐怖と幻影に悩まされる。平常心をうしない、あげくは浸みこんだ性癖として、自らも弱者に対して暴力をふるってしまう。暴力依存症とでもいうべきものの蔓延……。それを、特異な個人の異常な行為としてではなく、戦争参加者なら誰でもが陥ってしまいそうな病として描いていた。私はすこし反省を強いられた。それまでの戦争映画は、おおざっぱに言って、反戦であろうが好戦であろうが屈強な個人、つまりヒーローの目線で作られてきた。逆に弱者や病者としてあつかわれる人は『ディア・ハンター』のクリトファー・ウォーケンが好例であるように「特異な個人」であった。だが戦争とはそんな見方ではおさまらない、「心的外傷」をとってみても、もっと広範囲に浸透するのではないか、これまでの戦争映画は、そういうものを排除してきたのではないか。戦争映画、というよりも戦争に対する見方を変えなくてはならない。今さらながらそんな風に反省を迫られた。

 この本にも、戦争によって日常的な心のバランスをあっけなく壊されてしまってのたうちまわる青年のことが記されている。ひとつは、ナショナリズムという戦意と義務意識が日常意識を壊す。さらにはそのナショナリズムでさえ支えきれない、はげしい暴力を蒙ったあとの心の喪失がある。しかし、彼らを弱者と呼ぶことに私はためらいを覚える。今の私の意識では彼らの「愚行」は否定すべきだと自らに言い聞かせる以外にはないが、それにもまして奥底では深い共感を呼ぶ。共感といっては変だが、心がとても届きそうにはないが届かせてみたいという欲望に駆られる。同時に無力感も抱えこまされる。勿論、可哀想だなあ、と思わずにはいられない。その一方では、屈強な青年も多くいて、奮戦して見事な最後を遂げた姿も記されている。先にも書いたが、著者ミラーナ・テルローヴァはすぐれた聞き手であり記録者だ。

 「8、セダの消えた太陽」という項目がある。一九九五年、ミラーナがグローズヌイの一地区で避難していた頃である。新たにできた何人かの友達のなかにセダという女性がいた。たぶんミラーナと同じくらいの年頃と思われるので、一五,六歳だろうか。幼馴染でボーイフレンドのアリという男性(一七歳)がゲリラ部隊に入隊したのちに別れの手紙をよこした。彼の兄がロシア兵に殺されたからだ。父も兄の後を追うようにして死んだ。(死因は書かれていない)アリはセダにそれまでのつき合いを感謝するとともに、自分はもはや「憎しみと恨みしか」ない「抜け殻」状態である、セダにはふさわしい人間ではなくなった、愛はあるがとても一緒になってくれとはいえない、という内容だ。セダに頼まれてミラーナがアリの手紙を音読するのだが、セダが途中で口を挟む。

「アリは変わったどころじゃなくて、死んだようなものだったわ。復讐を口にするようになって、だんだんとそれが妄想みたいになっていったの。もうアリじゃないみたいだった。挑発的になって、戦わない人を罵るようにもなったし、前はいつも私の目をのぞき込んでたのに、あるときから視線を避けるようになってね。
(略)
 最後に会ったとき、もう私のアリはここにはいないんだってはっきり思った。だって、アリの目は空っぽだったもの。憎しみさえもない。何もないのよ。あのときアリは、私の姿を脳裏に焼きつけてどこかに持っていこうとしているような、そんな目で私を見たわ。私のほうは、以前のアリを見つけようと一生懸命になるのに疲れちゃってね。このまま行かせたら二度と会えないってわかってたけど、でも引きとめることもできなかった……何もできなかった……」(p61~62)

 兄を殺され父が死んだことによってアリの日常性は一挙に破壊された。同時に意識も壊されたのだ。セダの言葉は、手紙を受け取る以前にアリと最後に会ったときのことだろう。このときアリは別れを明確には口にしていない。だがセダにはわかりすぎるくらいにその内心がわかる。恋人同士の逢瀬では何かを隠そうとしても、隠そうとすること自体がまずわかってしまう。そして決定的に相手が変わってしまったことが否応なしにわかる。「あのときアリは、私の姿を脳裏に焼きつけてどこかに持っていこうとしているような、そんな目で私を見たわ。」恋人同士でしか踏みこめない痛みをともなう認識をさせられる。認識しようとしてするのではなく、直感がそうさせるのだ。だがショックだからといって投げ出そうとはしない。こらえつつセダは可能なかぎりアリに近づこうとする、陶酔もこめて、かつての楽しかった日々をそこに見出そうとする。「私のほうは、以前のアリを見つけようと一生懸命になるのに疲れちゃってね。」最後の逢瀬になりそうなことがわかっていながらも、どうすることもできない。それほどの厚い壁が現前する。このつらい別れによってセダの日常もまた破壊されてしまう。

 手紙の朗読が再会される。アリは復讐感情にがんじがらめにされている。ゲリラのほかのメンバーは独立とか伝統とか村を守るためとか、立派な志をもって戦っている。「でもぼくはちがう。セダ、ぼくはちがうんだよ。ぼくはただ家族がひどい目にあったからここにいるだけだ。殺すか殺されるか、ぼくにはそれしかない。」そしてつぎに、セダには「どうしても言えなかったこと」を打ち明ける。捕虜の無抵抗のロシア人を殺してしまうのだ。セダが兄の敵(かたき)をとりたがっていることを知っていて仲間がそのロシア人(兄を殺した男ではない、ただロシア人というだけ)を連れてくる。チェチェン・レジスタンスの捕虜の人道的扱いをあえて破ってもかまわないということだ。

ぼくはそのロシア兵めがけて、弾倉が空になるまで撃ちまくった。その弾と一緒に自分の憎しみも撃ちつくした。そうしたら、ぼく自身が空になってしまった。もう何もない。何も残っていない。その捕虜は、死にたくない、撃たないでくれと女みたいに泣いていた。それを撃ったんだ。これじゃロシア野郎と同じだよ。そいつは弾丸を浴びてからも数秒のあいだ動いていた。あの数秒が忘れられない……。こんな状態ではもう生きていけない。だからゲリラ部隊に入った。母もきみも捨てて。(p63)


 わかったような口を利くつもりはないが、アリは自己統制と欲望のせめぎあいにくたくたになってしまったのだろうか。そして殺すことによって自己統制も欲望も消失してしまい「抜け殻」になったのか。人間は弱い、弱いことにおいて人間だ。戦争や暴力という未知の領域に踏みこまずにはいられないことにおいて弱いし、間違う。救いがあるとするならば、「抜け殻」という言い方に自責がこめられていると見えることだろうか。それはまた自殺願望もこめた戦いへの参加につながるようだ。このアリとセダの物語にはまだ続きがある。セダは一年も経たないうちに通学途中に死んでしまう。だが、自殺か、事故死かは特定できないようだ。ミラーナは「不条理」だと書く。死因をはじめ、セダの死についてもっと書いて欲しいと読者は欲をもつが、何故か「これ以上のことは書きたくない。」とミラーナはしめくくる。

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