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ミラーナ・テルローヴァ『廃墟の上でダンス』(1)

廃墟の上でダンス―チェチェンの戦火を生き抜いた少女廃墟の上でダンス―チェチェンの戦火を生き抜いた少女
(2008/03)
ミラーナ・テルローヴァ

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 チェチェンはロシア連邦に属するカフカーズ地方の小さな地域である。現在、紛争がクローズアップされたグルジアとも近接する。独自の文化と言語を持ち、また独立志向が旺盛で、古くはロシア帝国の時代から果敢に抵抗運動をつづけてきた。だがロシア側も旧帝国や旧ソ連の時代から現在のロシアに至るまで一貫してチェチェンの独立を拒否し、軍事的支配を解こうとはしない。豊富な石油資源がその地域に埋蔵されているからでもあるが、やはり各地域で領土、分離・独立問題を抱えるロシアという国の成り立ちを根底から揺るがしかねないからでもある。そんなチェチェンだから、同じように固有の文化と言語をもちながらいまだ祖国を持たないクルド民族の運命ときわめて似ている。クルドほど人口や地域の広がりはないが、独自にリーダー(大統領)を選んで独立宣言をしたことも全く同じ。だがそれを欧米はじめ主要国が承認しないかぎりは真に独立を果たしたことにはならない。

 巻末の略年表(著者作成)によると、一九九一年大統領に選出されたジョハール・ドゥダーエフは十一月一日に独立を宣言した。しかしモスクワはこれを違法とし十一月八日非常事態宣言を発令。その後も両者の対立はチェチェンが独自の憲法を制定するなどして尖鋭化し、一九九四年十二月ロシア軍はついにチェチェンに侵攻した。これが第一次チェチェン戦争の始まり。一九九六年八月和平合意が成立し、第一次戦争は終結。この間死者八万人。だが小康状態は束の間だった。ロシア各地でチェチェン人の手によるとされる連続爆破事件が起こり、ロシア軍は再び軍事侵攻。一九九九年十月以降のことであり、第二次チェチェン戦争の始まりだ。二〇〇〇年二月には首都グローズヌイがロシア軍によって制圧される。六月にはロシア大統領ウラジーミル・プーチンがチェチェンを大統領直轄統治領とした。二〇〇七年には親ロシア側のラムザン・カディーロフがチェチェン共和国大統領に就任し、以降チェチェンはロシアとカディーロフによる占領状態がつづいている。物量にまさるロシア側が独立派を表立ってはほぼ駆逐したということだろう。それまでの間、血なまぐさい戦争状態がつづくが、ゲリラ化、テロリスト化した独立派勢力はモスクワ劇場占拠事件、北オセチアでの小学校占拠事件など大惨事を引き起こしたことも忘れてはならない。またドゥダーエフはじめチェチェン抵抗勢力の主だった政治指導者のほとんどが戦死、殺害されている。著者はチェチェン戦争の死亡者は二十万人を超えたというが、この数字はロシア側もふくむものかどうかは不明である。

 前置きが長くなった。著者のミラーナ・テルローヴァはチェチェンに生まれ育ち、のちにはフランス留学を果たし、さらに祖国へもどって現在は国際交流センター設立に尽力する女性である。生粋のチェチェン人だから当然のごとく祖国の独立を支持し、その抵抗運動を心から応援しないわけにはいかない。だからロシア軍の残虐非道や政治的強圧をことあるごとに非難する。怨みは根強いと窺われる。だがそれは彼女がチェチェンで生まれてからその環境の下で少女から大人となる時代を生活してきた結果である。独立への志向は多くのチェチェン人同様、ごく自然で腰の据わったもので、戦闘的であっても偏狭ではない。また過激派の立場でもない。

 著者とその家族は、戦争が勃発してから生まれ故郷のオレホヴォ村を追われ、別の小さな村やグローズヌイや、隣国のイングーシなど戦火から逃れるため移住生活を余儀なくされる。ロシアによる強制隔離もある。故郷の家には帰ることができたり、また避難したりの繰り返し。やがて故郷に落ち着くことができたのは、皮肉なことにロシアの勝利によって戦火が収まったからである。チェチェンの同国人同士の結びつきは強い。親戚をあてにして寄宿をたのむと既に他の親戚が避難してきていてすし詰め状態だが、それでも受けいれてくれる。また当然そんな風に著者の家族が親戚を受けいれる場合もある。

 この手記は、そんな戦争と混乱のなかから生まれた。自分の目の前で起こったことや友人から打ち明けられたことを素直に書きとめたものである。新聞等の報道は報道として区別する。政治的プロパガンダやそれに類する絶叫型の書きぶりではない。そういう要素もふくみながらも一歩抜きんでている。起こったことと聞いたこととそれに対する自分の印象を実に平明に綴るのだ。考えたことは、正確と冷静を旨として書きとめる。「狂気と残虐」に陥らないためだ。そして、非難よりもまず、悲しみとやりきれなさが空気として広がる。数ページに一回は親戚や仲間や同国人の戦死もふくんだ死のことが出てきて痛々しいが、ミラーナ・テルローヴァの間近にいて一緒に事態を見守るかのような透明感がもたらされる。手記として成功している証左だが、それだけではなく、やはり戦争というものの現実になまなましく立ち会わされ考えさせられ、緊張を強いられる。

 私にはこの著者が強くまた豊かに見える。それは彼女が平和の楽しさ、明るさを身をもって知っているからだ。本の書き出しは一九九四年十二月で、学校で催されるダンスパーティの準備のため鏡を前にしながらおしゃれをしている場面である。だがその直前の時期に第一次チェチェン紛争がすでに始まっていて、ダンスパーティは結局は開かれなかった。ミラーナが一四歳のときだ。だからそれまでは平穏無事に彼女もチェチェン人も暮らすことができた。だから平和に暮らすことの楽しさと幸福を十分に知っている。このことは重要だ。平和で健康であっても幸福感をもつことができない人が実に多いことを私たちは、身の回りをみて知っているからだ。(私もそのはしくれかもしれない)その点で、ミラーナは最適の人だ。友達と西側の映画やファッションへのあこがれを共有できる。いっしょに食事をして楽しむすべを知っているし、国の未来についても語り合うことができる。自分の意見を述べながらも聞き上手である。相手が打ち明けたい欲にかられたときはじっくりつきあう。そこから貴重な人生の一端を聞きだすのだ。また、理解不可能なことや怖ろしいことは飾らずにそのとおり表現する。当然、頭脳明晰だ。そして自分自身をよく知っていて、「平和の記憶」を忘れてはならないと説く。「戦争の記憶」を忘れてはならないとは、私たちが夏が来るたびに耳にする言葉だが、チェチェンにおいてはそれは身の回りにごろごろしている。そればかりでは平衡感覚が喪われる、とでもいうように。

 

毎日何百人という学生がキャンパスにやってきて、勉強し、議論し、寒くて薄暗いカフェテリアで延々とおしゃべりをする。それは、議論を戦わせたり、女子学生を口説いたり、笑ったりして幻の日常性を保たないと、絶望や狂気に引きずり込まれてしまうからだ。はたから見ると、戦場の子どもたちは日常生活や普通の喜びや悲しみを忘れてしまうだろうと思うかもしれないが、実際はその反対だ。みな執拗に、貪欲に、あらゆる努力を払い、神聖視するほどに「普通の生活」を追い求める。戦争によって普通の生活が奪われるからこそ、それがあまりにも貴重なものに思えて、どうしてもそれが欲しくなる。(p172)



「平和の記憶」は義務という以前に、内部からつきうごかす欲望であることがよくわかる。それも一人のものではなく、チェチェン人ほとんどに共有するものだ。それとここにも記されている「絶望と狂気」だが、すぐあとの記述で検問所や検問官(兵士)に触れられていることに直結する。大学は独立派の拠点として見做されるからでもあるが、身分証明書のたぐいをたえず提示させられて、なにかと難癖をつけられて(単に「いけすかない」というだけで)男子学生の場合連行されることも多いという。検問はチェチェンのいたるところで実施されるようで、検問以外にも、探索によって証拠がなくても不審者とされて連行、拉致されることもよくあることで、腹立たしさを通り越してしまいそうな感情に駆られることもあるのだろう。そこをふんばるのだが、つらいことにちがいない。

 逆に「平和ごっこ」ばかりやっても満ち足りない、疲れるとミラーナはいう。そんなときには孤独になって死と向き合う時間を作ることが必要不可欠だと説く。平和を忘れないことも大切だが、それ以上に目の前の現実である戦争と死を避けてとおることをミラーナは潔しとはしない。自分を偽ることを怖れるからだし、自分とは何か、自分と死はどういう関係にあるのかを問い詰めたいのだ。真実の像を立ち上がらせることによって重心をえたいのだ。

 母は私の絵を嫌っていた。たしかに見て楽しい絵ではない。どうしても死をテーマにしたものになるからだ。母はグローズヌイに戻ってくるたびに私の留守を見はからって絵をはずしてしまう。そんなわけだから、私にとっては余計に一人でいられる時間が大事だった。普段は母も私も絶望に呑み込まれまいとそれぞれ仮面で武装している。でも一人になれば、その仮面をはずし、自分を解放して思うがままに想像をめぐらせることができる。チェチェン人は自分を抑えて万事順調を装うのが癖になっているのかもしれない。そうせざるをえないからでもあるけれど、でもいつでもそれでは疲れてしまう。(p165)


 グローズヌイで一家が借りたアパートは壁が崩れかけていて、裸電球一つの薄暗さだ。だがミラーナは勉強をし、読書をし空想にふけり、絵を描く。それもまた楽しいのだ。「死をテーマ」にした絵がどんなものか、具体的にはわからないが、おそらく死を明示したり暗示したりする内容であることは文面から想像がつく。死をもっと自分に近づけたいのか、それとも死を示しながら死のない世界を模索するのか、わからない。残念ながら絵に関してはこれだけの記述しかなく、もっと突っこんで書いてもらいたい気もする。
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