大洋ボート

森恒夫『銃撃戦と粛清』(7)

 森に不幸があったとすれば、森を諌める存在がメンバーのなかにいなかったことだろう。革命左派のリーダーの永田洋子は森への最大の追随者であった。彼等よりもヒエラルキーのうえで上級に属するとされる指導者は、当時すべて逮捕されていた。彼等二人が、警察幹部によって「二流の指導者」という烙印を押されたのも無理はない。それに山岳ベースが彼等にとってみれば密室と化してしまったことも大きい。六〇年代末期の大学内のバリケードですら大学内はもとより一般社会との間に風穴が通じていたと思う。活動家が自宅との間を行き来することもごく自然にできていた。だが密室になってしまうと、殺人などへの倫理的歯止めがかからなくなる。まるで別世界の感覚に陥ってしまい、指導者が全能感を錯覚することに容易に道がひらかれる気がする。永田洋子の手記『十六の墓標』によると、一月になってからだったと思うが、岩田平治というメンバーが森らに用事を言いつけられて下山した後帰ってこなかった、つまり逃亡第一号となった人のことが記されてあるが、それを知ったときの森と永田が〈ものすごいショック〉を受けたという記述があった。かなり前に読んだが、ここは覚えている。それだけ彼等二人は懸命でもあっただろうが、有頂天になっていて、ごく当たり前の感覚を喪失させていたのだろう。チャンスがあれば逃げるのは当たり前だ。たしかに彼等が「二流の指導者」でなければ、総括死という馬鹿げた理論による十二人もの死者の頻出は防げた可能性は大いにある。だからといって「一流の指導者」であれば平和裡に事が推し進められたかどうかは断言できない。あさま山荘銃撃戦よりももっと大規模な銃撃戦を敢行して、別の悲劇を生み出したのかもしれない。現にその後、過激派諸派によって引き起こされる「内ゲバ」は「一流の指導者」による、下手人がほとんど逮捕されない巧妙かつ大規模な殺人の連続劇であった。

 連合赤軍参加者にとっても山岳ベースが密室と化したことの意味は大きい。逃げられなくなったということが最大である。私も含めてだが、あの頃の活動家は行けるところまで行ってやろう、ただ目先の面白さに、人生にとって社会にとって意義あることに関わってやろうというような好奇心が大いにあった。もっと悪く言えば物見遊山的気分があった。無論、生真面目な部分もあったのであるが、生死をかけてまで戦うという腹積もりは固まっていなかった。不屈の戦士像へのあこがれは抱いていたが、外見をどう取り繕ったかは別にして未だそこには自分は辿りついてはいないという感覚が正直なところであった。どこか隙間があった。あの隙間感は今ふりかえってみると貴重だ。当時は「隙間」に対して苛立ったり恥ずかしかったりしたもので、それをみずからぎゅうぎゅう詰めていってかえって疲れてしまい、私の場合は逃亡、裏切りに至ったのだが……。将来ずっと活動家として生きようとは漠然とではあるが考えていたが、それほどはっきりした見通しではなく、楽観的でおおざっぱな気分が大半であった。目の前で仲間がやり私もやっているということ自体の面白さに目がくらんでいた。念を押せば、連赤参加者は私がやっていたときのようには自由に逃亡ができなかった。

 もうひとつはほとんどの人が指導者に歯向かわなかったという特徴があるが、これもあの頃の運動の性質として共通するものである。とにかく参加し、言われるままに行動することが重要であった。組織の扉をあけて閉め、そこに居つづけることそのものが楽しくもあるが、たいへんな意思を要請される気がした。そして一旦はそれを決断してしまったのである。私ならば、私という個をどうにか成長させ変身させてやりたいという欲求が、組織に属すると同時に芽生えた。考えることの重要さには気づいていたつもりだったが、激しい街頭デモなどで肉体的エネルギーを濫費させる類の行動をひとつひとつやり遂げることで「変身」をより実感できた。肉体的消耗にもかかわらず、「革命」や「反戦」を掲げつづけられるかという自己内部の皮肉な眼差しに打ち勝つことでもあった。特定の行動を繰りかえすことによって肉体は鍛えられ思想的立場はより頑固になっていった。理論武装などといっても、そういう行動への幻想を事前により掻き立てることがもっぱらの目的ではなかったか。考える力が培われていなかったといえばそれまでだが、考えるということから派生する孤独や停滞をおぼろげに怖れたし、考えるという立場を満足に想像することができなかった。だから、そんな風に行動を重視するならば、その機会を豊富に与えてくれるのが過激派党派であった。個の成長は組織に依存していたし、「成長した個」は組織の要請する行動の中でのみ生かされた。だが個の成長をより重視して、そのために組織を利用するという視点は、私の場合、はっきりとは持てなかった。組織が絶対であるとしたほうが簡便であったし、勢いがついた。組織が要請してくる無理難題にも丸呑みの姿勢にごく自然になってしまうというものだ。大学生の指導者が次回のデモに五十人連れて来いと指令を出すと、生真面目にそれを受けて、回りの高校生に声をかけてまわった。私の従前の力では要請を実現できるはずもなかったが。

 こういう姿勢は力量の限界を自己認識させられるか、肉体的疲労がピークを迎えるか、逮捕、長期拘留や負傷などの内外の激変に見舞われないかぎりは変わる機会がない。「境界」にふれなければならないのだが、それでも変わらない屈強な人も多い。つまりは、同質の困難事をどこまで長くやりつづけることができるかという問題で、個々人によって当然ばらつきがでてくる。党派的な立場からすれば個人における耐性の有り無しということに尽きてしまいそうだが、個人も党派的立場にべったりである場合がほとんどなので、自身における耐性の希薄さ、弱さをうしろめたく考えてしまうのだ。組織批判も視野に置くことの可能なほんとうの自己変革を獲得するためには、まずはこういう組織への盲従を基調とした姿勢と心性をいったんは解除しなければならない。だがいかんせん、組織活動とともに形成されて「成長した個」には、それは自発的には気づきにくい世界なのかもしれない。その意味では、連合赤軍参加者にとって「総括死」はまさしく「境界」に触れることであったし、同時にいきなり自己の直近の未来の死に触れることでもあった。恐怖に金縛りになることでもあっただろうか。だが参加者にとっては時間は待ってくれなかった、切迫しながらどんどん近づき、事態は追い越していった。

 組織批判も視野にくりいれられる個は、六〇年代後半以降の党派活動によって「成長した個」が、同じ個人のそれ以前の個もふくめてよほど節操堅固でないかぎりは、即座にその場で、生まれ出るはずもなかった。残念ながら当時の私も例外ではなかったし、連合赤軍参加者の全員もあの無残な結果からして例外ではなかった。彼らはたしかに死の恐怖にたじろいだのだろうが、指導部の方針と指図を丸呑みするという、その場所で力を発揮するという従来の方式を捨てることなく、しがみついた。そこに逃げこんだ。それまでやってきたことの艱難辛苦の積み上げが、みずから手を下すことによって御破算になってしまうことを、何処まで自覚したのかはともかく怖れたのかもしれない。「総括援助」によって被総括者を暴力的に葬ることと、決死の覚悟で森や永田に反抗することと、部外者からみればどちらも同じ無理難題に映ってしまうのかもしれないが、彼等は指導者の指図を丸呑みするという手慣れたほうの無理難題を、前者を選択するしかなかった。あるいは選択という心理的余地もなかったか。「革命戦士になりきる」「仲間を革命戦士になりきらす」という森の贋理論にしがみついたこともあっただろう。無理難題を背負いこんで、時間が過ぎたときの峠を越えたような感覚に期待したのか、なんとかなるさと、それまでの活動と同じように思いこみたかったか。先細りでも何らかの未来の幻想が彼等にあったのか。

 一九七二年一月一日の尾崎充男死亡(享年二一)につづいて進藤隆三郎が総括にかけられ、激しい暴力によって何とその日のうちに死亡している。さらに同日小嶋和子死亡。享年二二。翌日の一月二日には遠山美枝子、行方正時が総括にかけられる。四日、加藤能敬死亡、享年二二。七日遠山美枝子死亡、享年二五。九日、行方正時死亡、享年二二。十二月二七日にはじまった総括要求=リンチは十日あまりの期間に六人もの大量の犠牲者を出した。

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