大洋ボート

森恒夫『銃撃戦と粛清』(4)

(前略)しかし、結果的には「彼女の総括が為される迄、彼女を山から下ろさない事、その総括期間は短期である事」という旧革命左派のメンバーからだされた要求を容認した。
 私はこの要求の全てを間違いだとは今でも考えてはいない。だが、「山から下ろさない」事が旧革命左派の二名の同志の山岳ベースからの逃走―組織的処刑を事実上の前提として(何故なら、この当時この二名の組織的処刑は正しいことと考えられていた)だされた事、極力早く総括を為し遂げようという個人と同志達の自発的な努力を越えて‶短期″という設定がされた事は、この要求の積極的な意義を自ら破壊する大きな危険性をもっていたし、実際上、討論の詰問的展開の中にそれが露わにされていた事こそ決定的に誤りであったのである。その後の事実経過からして、私をはじめとする旧赤軍派のメンバーはこの要求の積極的な意義をくみとろうとしたし、一程(ママ)程度そうできたと思っている。
 しかし、もし短期に総括できなかったら、かつ山を下ろさないとしたら、文字通り彼女を兵士として不適格であるという理由で組織的に処刑しなければならないという、この要求のもつ危険な最後通牒的側面に対して、私は当時全く闘うことをせず、むしろそれすら容認した上で、何とか組織全体で解決しようとしたのである。(p13)


 どうもおかしい。遠山への批判が詰問調になったことへの悔いだが、髪型や指輪という個人の服装を問題化して介入すること自体、すでに詰問調を内包してしまうのではないか。批判を引っ込めたり、妥協しないかぎりは詰問調になることは必然ではないのか。この問題に関するかぎりは、節度ある批判なんて私には考えられない。その一方で森は革左の二名の処刑を「正しいことと考えられていた」と、まるでその判断に自身が参加しなかったような口ぶりであっさりと肯定してしまっている。自身の責任の範囲外という意識からか、本書でのこの問題への森の言及は驚くほど少なく、しかも淡白である。「正しいことと考えられていた」のは直接的には永田洋子ら革左の判断を指すが、森もその判断の最終局面に追認という形式で参加したのではなかったのか。そうだとすれば、その判断を覆すチャンスは森に十分にあったのだ。永田にうちあけられて森は初めて二名の処刑を知ったようだが、過失を糾すことはしなかった。批判しなかった。貸しをつくるという姿勢ならまだしも、まるで革左に借りをつくるような姿勢に陥ってしまった。ついでに遠山批判も受けいれてしまった。それほどまでに意識の上で譲歩して、森は革左との合流を優先したかったのか。革命運動なるものをどうしてもやりたかった?逆に言うと清算するという発想が浮かばなかった。そして処刑や死を、間近なものとしてはじめて実感するに至った。総括要求の危険性に対して「全く闘うことを」しなかったのであるから、おそらくはこの時点あたりから同志殺しを透視していたとしても不思議ではない。「むしろそれすら容認した上で、何とか組織全体で解決しようとしたのである。」堕落してしまった意識がかなりの部分を占めるなかで、遠山批判の部分的正当性などと言われても首をかしげる。遠山批判については獄外の左翼への迎合のつもりだろうか。しかし森が革左の二名の処刑を無批判に受けいれてしまったことは、十二名惨殺にやがて行き着くこの事件においてきわめて大きい意味をもつ。それに比べると、遠山の化粧うんぬんなどまるでちっちゃな話ではないか。森のなかでふたつの問題意識が同居しうることへの違和感をうち消せない。

 いやもっと大きい意味が、森におけるこの二名の処刑と遠山批判の承認には隠されていることに私は気づかなければならない。そうでないと甘い批判にとどまってしまう。引用文の経過をたどることによって森は永田との結びつきを不動にものにしたうえで、連合赤軍内において永田をも牛耳ってしまえるほどの絶対権力をもつに至ったのだ、ということを見逃してはならない。遠山の総括は短期でなしとげねばならない、それまでは山を下ろさない、という革左(たぶん永田の意見)の要求を森は人質にとるように逆用して、永田らの反対をあらかじめ封じ込めてしまったのだ。勿論、暴力的総括路線は森が率先したのであり、永田ら革左も度外れた暴力行使にはためらいがあったようだが、すでに処刑者を出してしまった永田らには今さらそれを正面きって反対できるものでもなかったであろう。森は孤立から免れた、そして永田を巻き込んだ形で絶大な権力を手にしてしまったのだ。このことは、おそらくは坂口、坂東らの幹部もすぐには察知できなかったのではないか。

 革左の二名の処刑は七一年八月に行われており、このときにはすでに行動の統一の全面性はともかくも、連合赤軍は結成されていた。森はこのとき深く関われなかったことを悔いる意味のことを少し書いている。赤軍派で処刑問題が惹起されたとき、かろうじて実行せずに済んでほっとしたことも記している。ともに処刑を問題視するかのようだが、突っ込み不足もはなはだしい。不徹底で曖昧だ。それに、左翼運動全般における仲間殺し=処刑問題への言及も、レーニン、スターリン、毛沢東などを独特の難解さで論じているにもかかわらず正面切っては論じていない。やはり反革命的行為、たとえばスパイなどは死刑にすべしと考えているようだが。森が処刑(私刑)反対という明確な倫理観を有していたならば、この一連の仲間殺しは防げたのだ。

 遠山批判をいったん是認してしまうと、累は当然のように他のメンバーにも及ぶ。目に付く「問題」はごろごろと転がっているからだ。ベースと呼ばれる手製のせまい山小屋に二〇人を越える人数が寝食を共にするのだから、森のような指導部にしてみれば、息苦しさの空気のなかから腹立たしさも自然に形成されるのだろう。これは私にも連想させる体験がある。高校時代に、おろかにも校長室を暴力的に占拠してしまったことがあるが、そのときは私なりに闘争心がみなぎった状態であったから、ただぼんやりとたたずんでいるかに見える仲間が視界に飛びこんでくると、本能であるかのように無性に腹立たしい思いに駆られたことがある。ただそれだけのことで暴力に及ぶことはなかったのであるが、自分が想像しうる自分の範囲を超えての憎悪であったから、驚いたし、たじろいだ。仲間には何の落ち度もなく、それどころか生意気盛りの私たちに義理堅くついてきてくれた人だった。それこれの理由で、鮮明に記憶にのこっている。この事件が明るみになってから、私はこのときの記憶をさらに思い返さずにはいられなかったのだが……。私とちがって森はすでに遠山批判という〈絶好の武器〉を手に入れていた。

 ある資料によると、加藤能敬と小島和子が暴力的な総括要求に引きずり出されたのは一九七一年十二月二七日、この二人が最初であり、ついで二九日には尾崎充男が標的にされる。加藤は女性関係のルーズさが槍玉にあげられた。闘争中に(ベースに来てからのことも含むのかもしれない)複数の女性にキスをしたり手を握ったりしたという。またのちには逮捕されたときに重要事項は黙秘したものの、刑事と雑談したことが批判の対象になった。小島は革左時代に一度ベースから逃亡しようとしたこと、車の運転中に交通事故を起こしたこと、自己中心的に見えるお喋りや態度などが批判された。尾崎は銃砲店から強奪した武器を「合法メンバー」に預けたこと、交番襲撃闘争時に日和見主義に走り参加しなかったことが批判された。加藤、小島は森の指令によって参加者全員から殴打を浴びせられたのちにベース内の柱に縄で括りつけられた。尾崎は巡査阿部(交番所襲撃時の革左メンバーを虐殺したとされる)に見立てられた坂口弘(本書では「某君」とされている)との格闘を命じられた。尾崎はやりたくない格闘をそれこそ真面目に遂行したが、体格と体力に勝る坂口には歯が立たず、そののちやはりメンバー全員による殴打を受け、加藤、小島と同じく柱に縛りつけられた。

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