大洋ボート

森恒夫『銃撃戦と粛清』(3)

 森恒夫は十二人の仲間殺しを主導したあと、ベース移動中に妙義山付近で永田洋子とともに逮捕された。一九七二年二月十七日のことである。そして翌年の一九七三年一月一日に東京拘置所内で自殺した。本書に収められた文章は逮捕後、東京拘置所に移送されてから自殺するまでの期間に書かれたものの大半である。「自己批判書」(原稿用紙換算約六〇〇枚・高沢皓司「解説」による)をはじめ、日付は七二年四月十三日から七月二〇日までの期間となっており、事件に関する詳細な事実経過の記述と理論的背景、根拠、反省点が記されている。なお『銃撃戦と粛清』という題名は出版社がつけたものだ。「粛清」という言葉は森自身はつかっていない。

 仲間殺しの全貌がほぼ明らかになったであろう時点で、つまりこの本のもっとも早い日付の四月十三日の文の冒頭部で森は「私の行った行為が日本革命史上かってない残虐な非プロレタリア的行為であった事」とみずからの非を全面的に認めて、断罪している。二ヶ月足らずでこうもあっさりと主張を全面転換してしまうのは疑問を抱かないではないが、後の記述によると、森はすでに連合赤軍の最末期において十二人殺害や逃亡者続出によっての組織の解体の危機を直感していたというから、つまりは「大失態」を自己認識せずにはいられなかったであろうから、素直な吐露といえるだろうか。さらに森は自己の死(人民裁判による死刑)を決意していて、その正確な理由づけのために、自己の罪過を洗いざらいぶちまけるべく自己批判書を書き急いだのでもある。

 この一二月初旬から二月初旬にかけての全過程をふり返って云える事は、革命戦争の党建設の闘いのなかで、当然問われる軍の共産主義化―党化の飛躍が、誤った我々の指導の為にプロレタリア革命の魂をも流し去ってしまう悲劇を迎えた事である。確かに、日本革命戦争の本格的な開始を準備するには、自らの生命を省みずに殲滅戦に前進し得る革命戦士の創出が不可避であり、かつその為には個々人の今迄の生に対する内在的な総括とそれをバネとする自己の共産主義的変革の過程が要求されるし、こうした闘いは決して容易なものではない。だが、それ故こうした闘いはその隅々迄プロレタリア的な人間愛に貫かれたものとして展開されなければならない。我々の指導の誤りは、個々人の階級闘争に対する関わりの中で形成されてきた政治的、組織的、思想的な諸傾向を批判しても、それを真に高次な矛盾として、実践的に開示させ止揚させる道を提起せずに、暴力で閉鎖的な空間に閉じ込め圧殺した事である。(99p)


 逮捕されてから二ヶ月の時点で書かれているので、森はまだまだ革命を捨てていない。それどころか確信は再建されてより強固になっている感さえする。そのことによってしか森は自身を裁けないという思い込みがあるのか。やったことの意図や前提は正しかった、山岳ベース作りも軍事訓練も正しかった、だがやったことのあとの半分は、つまりは仲間を死に追いやったことは間違っていたということだろう。だが個々人の「諸傾向」への批判については暴力的方法を排除したうえでのことだが、その内容面で何処までが正しいのか、この文ではわからない。そこが肝心でこの連合赤軍問題の大きな出発点をなすかもしれないのだ。他の部分で、森はどうやら初期の批判は肯定的にとらえかえしている。

 すぐに目に飛びこんでくるのは、遠山美枝子に対する旧革命左派から提起された批判だ。特に革命左派の女性は遠山の服装、化粧、態度などが気に入らなかったようだ。髪が長い、指輪をしている、化粧をしている、女性として男性に頼ったり甘えたりする、という点があげられた。この遠山問題は重要だ。何故なら彼女は五番目の犠牲者だが、最初に批判を受けた人だからで、そのあとを追うように「総括要求」が他のメンバーに次々に拡大していったからである。想像するに、遠山という女性は他の女性メンバーに比べて相対的に美人で派手で、少し軟弱であり、とりあげられた外見的な点を含めて目立つ存在だった。それに永田洋子などが闘争心を中心に据えているとはいえ、虫酸が走ったのだ。悪しき平等主義、まるで中学生の風紀委員がクラスメイトの服装をチェックするような意地悪さを受けとってしまう。小さな差異しか目に入らない輩は何処にでもいるものだ。このような遠山に「命を省みずに殲滅戦を担う革命戦士」になど、いきなり成れようはずもないのだ。時間をかけても成れないのかもしれない。あるいはもしかすると、逆にあっさりと成りきってしまえるのかもしれない。「銃による殲滅戦」という結果を出すことだけを基準にすれば……。同じ政治的主張をし、同じ闘争形態をとる組織体にも、それこそ千差万別の人々が集まってくるものだ。それも善意を抱いて。だからその人の個性にあった持ち場を提供してやればよいのだが。

 森は何故、革左の遠山批判を受けいれたのか。同じ旧赤軍派の遠山を何故庇ってやれなかったのか。永田らにきつい口調で迫られて迎合したのか、あまりにもあっさりと落とし穴にはまってしまった情けなさ、不甲斐無さを感じてしまう。もっとも、重要な事実があることはあった。革命左派がすでに二名を処刑していて森もそれを肯定的に受けいれていた。全員を「山から下ろさない」という方針も固まりつつあったようだ。暗部をそっくり引き受けねばならないといったお人よし的な弱点(無理難題を無計画に背負い込んでしまうという「積極性」の裏返し)も、森に対して私には見えないではない。それでもやはり腑に落ちない点は残る。くどいが、この部分を繰りかえす。

 森は革左の遠山批判を認めつつも「より同志的な広がりと深さをもって慎重に展開されるべき批判であったが、実際にはきわめて性急な一挙的な自己変革を要求する詰問的批判が為された事は大きな誤りであった。」(p12)とする。私は気をつけなければならないと思う。森は本書のいたるところで、このようにみずからの誤りへの断罪を乱発するのだが、獄中や獄外の仲間から圧倒的な非難を浴びつつある身としては「誤り」をあっさりと認めてしまったほうが楽であることは確かだろう。それがすべてではないにせよ……。逮捕される直前まで総括要求はなされていたし、逮捕がもっと後日であったならもっと犠牲者も出たことも考えられる。また逮捕以前には「誤り」を口にしたことはない男であるから、この逮捕後の誤りの認知を心底からしぼりだされた言葉として受けとることには警戒を解いてはならない。御都合主義的な二枚舌であることも大いにありうるのだ。話を元にもどして、森は革左から出された遠山批判を赤軍派全体への批判として受け止め、それを組織的に責任を持って解決していくこと、とくに遠山自身が率先して解決に当たらねばならないと考えていたという。つづいての文。
                       (つづく)



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