大洋ボート

森恒夫『銃撃戦と粛清』(2)

 人はとんでもないことを考えたり、行動に移したりするものだが、私はそういう一般論以上に何が言えるのだろうか。どんな小さな党派でもいったんそこに入って組織活動を一定期間やりおおせてしまえると、誰でもが達成感をもてる。またメンバー同士の親密感も自然に醸成されてくる。滔滔と政治理論を語る人もいるし、果敢に機動隊に立ち向かって行く人も見ることもできる。(ことにその最中を映したテレビ映像は刺激し、確信を高める)また錯覚かもしれないが自分個人が組織やそこにいる人たちに大事にされている、すくなくとも戦力として見なされているという実感もある。さらには自分が動けば自分の周囲も少しはそれにつれて動く、闘争にプラスになるという感覚も生まれてくる。今ではわかるようになったつもりだが、そういうもろもろが実質以上に過大評価されてたいへん貴重に映るものだ。学生時代にそういう空気を吸った者は、それを通じて自分が成長しつつある、発展しつつあると思わずにいられない。外部に対する拒否反応もある。たしかに外部は親などの反対者、政治的反対勢力、マスコミ的反対意見、警察権力として周囲のほとんどが全体として侵入してくる、場合によってはパクられることもある、内ゲバで負傷することもあるだろう。だが屈強な人はそれら外部を撥ねかえす。また同じことをやりつづけるのだから倦んだり、心身が疲労に蝕まれたりするが、それをも撥ねかえすのが屈強な人だと言っておこう。私個人は、ちょっとばかりの度胸と好奇心と正義感が支えであったが、決して屈強ではなかった。疲れが頂点に達したとき、たまらなく休息が欲しくなってそのまま逃げてしまった。党派の行動と思想にケツをまくったのではなかった。また当たり前だが、学生時代には生活というものへの無知もある。そこに基盤を据えて考えるという習慣は形成されようがない。私の場合、それが自然に身につくのに随分とながい時間を要したと思う。ただ、私は活動を辞めてからは以前ほどの「政治的関心」を保持しえなくなったものの、述べたような屈強者がふりまく人間像へのあこがれは、しぶとく生き残った。政治的活動への未練が消しがたかったからでもある。

書いたようなそういう屈強さまた真面目さは、反面、おおいに馬鹿でもあるのだ。革命などやれないのにやれると言う。いったんふりあげた拳は、かかげた看板はよほどのことがないかぎりは降ろさない。壮大なスローガンであればあるほどそうなる。政治的夢想によって引っぱられ引きあげられて、そこでしか躍動できなくなった肉体であり、やる気なのだ。この「やる気」は政治的自由が保障されるかぎりは、つまりは組織的微温や資金や時間があってゆるされるかぎりは容易には衰えない。逆に言うと、連合赤軍のような大失敗が起きて組織員が根こそぎ逮捕されるような状況にならないかぎり衰えることはない。また大失敗を当事者が自覚しないかぎりは、「やる気」はつづく。主観的意図に入れあげてしまって、逆の結果が出はしないかと同じ失敗をあえて繰り返すという愚挙に打って出ることにもなる。

  「プロレタリア革命」といっても、プロレタリアートが生活実感として、窮乏にあえぐなかから革命を欲求しないかぎりは政治運動として大きなうねりは生まれない。だが幸いなことに、あるいは革命家にとっては不幸なことに一九六〇年代は、プロレタリアートが窮乏から脱出しつつあった時代であった。高度成長期で、家庭では電化製品がそろい、給料も上昇していった。持ち家比率も上がり、預貯金も増え、ということで、労働力としての肉体以外には売るものがないという「プロレタリアート」と呼ばれる存在は、社会の中心部から次第に姿を消しつつあった。ただ一方では、世界的に学生層の抵抗運動が高揚した時期でもあった。ベトナム戦争が激化の一途をたどり、中国では毛沢東語録をたずさえた若い紅衛兵らによる文化大革命が最盛期だった。また私はよく知らないが、学問分野でもマルクス・レーニン主義は依然としてその権威を保ったままで、その系統の評論家や大学教授も多く存在したし、なかには資本主義はその「自己矛盾」によって没落を余儀なくされ、戦争に活路を見出そうと打って出ると説く人もいたという。それによって国情のちがう日本などの先進諸国とベトナム、中国などが情勢的にやがて合流するという主張だろう。そういう世界的な環境のもと、学生運動を支えた理念もやはり多くはマルクス・レーニン主義であり、プロレタリアートの窮乏化によってではなく、ベトナム戦争への日本のいっそうの加担、参戦を危惧する思いなどによって(大学内の学生管理問題もあった)六〇年代後半に学生運動は最盛期を迎えたのである。連合赤軍に参加した人たちもほとんど全員が、六〇年代のその高揚を身をもって通過してきたのだ。私の高校時代が、ちょうど六七年から六九年にあたり、正直なところわけがわからなかったが、テレビに映し出される学生の抵抗運動にはまぶしいものを感じた。

 今ふりかえると、六〇年代後半の抵抗運動の高揚はマルクス・レーニン主義の最後の花火でもあったが、七〇年代の過激派残存勢力はそうはとらず、逆に高度成長こそが資本主義の徒花と決めつけた。またあの頃の高揚をもう一度と当然考えただろうし、高揚期をくぐりぬけた結果、過激派組織としてもそのなかの個人としても屈強なエネルギーが醸成された。社会全体を客観的かつ公平にとらえるというよりも、それを真になすことによる夢とエネルギーの消失と退化をおそれ、彼らは「革命」を強弁したのである。また、赤軍派という党派は諸派のなかでいちばんむこうみずであり、いわば派手好みであった。新聞記事になるような一歩先をゆく過激な方式をとった。東京戦争と称して火炎瓶で交番所を襲撃したり、また、七〇年には「国際根拠地作り」と称して日航機よど号をハイジャックし、北朝鮮に移住してしまった。新聞記事になりうる、警察権力を見かけ上右往左往させることが重要視されたからで、北朝鮮に行って政治活動などできるはずもないことくらいは中学生にでもわかりそうなものだが、彼らは思いついたらやらずにはいられなかったのである。階級闘争の「自然発生性」は全世界的に存在するという彼らの理論に馬鹿に忠実だからだったのか。たしかに中核派など大量動員を重視する派に対抗し注目を集めるには過激度をいたずらに増幅させるしかなかったという考え方は自然であるが。ところがやはり無謀だと悟ったのか、ハイジャックによる北朝鮮行きは二度と行われなかった。(仲間の釈放要求のためという別の目的によるハイジャックは、連合赤軍以後の日本赤軍によって行われたが)ハイジャックは重大な失策であり、そのことへの反省的批判があったようにも思うが、組織基盤を揺るがすほどのものではなく、あくまで彼らは次の闘争方針を立てて向かっていったのである。まだまだやれる、という意気込みだろう。前述したM作戦であり、爆弾闘争であり、連合赤軍結成による「銃による殲滅戦」だ。

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