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森恒夫『銃撃戦と粛清』(1)

銃撃戦と粛清―森恒夫自己批判書全文 (資料連合赤軍問題 1)銃撃戦と粛清―森恒夫自己批判書全文 (資料連合赤軍問題 1)
(1984/01)
森 恒夫

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 この本を本棚の奥からひっぱり出してきた。買った当時読んだのだが、読みきれなかった感覚が残ったので、いつか再読するつもりだった。それでも長い間放置していたのだが、映画『実録・連合赤軍』を見て刺激を与えられて読むことになった。

 あれから三六年もの歳月が経ってしまった。それより数年前の高校生時代に学生運動なるものにかなりの程度のめりこんだだけに、まさか仲間同士で殺しあう事態にまで発展するとは、最初はほんとうに信じられない思いだった。新聞記事によってつぎつぎに死者数が増大していく過程を、ちぢこまる思いで見守るしかなかった。新聞紙面の奥から死臭がただよってくる気がした。まだ骸は腐敗がすすまずに、誰のものとも知れないまま土にまみれて白い皮膚をにぶく輝かせている、そこに血と骨が無秩序に混じってかたまりになって悲鳴を上げ、訴えかけてきた。私はそこに、底なし沼に引きこまれるような空恐ろしさを本能的に嗅ぎ取ってしまい、蓋をしめるようにして遠ざかることしかできなかった。夢魔のようなその幻像にどう応えていいのか皆目見当がつかなかったし、私自身が死の世界に呑み込まれる気がしたからだ。また、恐ろしさであるとともにたまらなく不快な出来事であり、事実としてできることなら受けいれたくはなかった。それでもやはり事実は事実としてとうてい動かしがたかった。及び腰ながら、もし私が現場にいたらどうであったろうか、ということも考えさせられた。私よりも同い年か、何歳か年上の青年や女性全員が事態の忌まわしい進展を誰一人止められなかったという事実がこれまたのしかかってきた。死の予感の恐ろしさを食い破ることがはたして私にできたのか、森恒夫に正面から抵抗できたのか、自信ある想像はできなかった。死をおそれて加害者側にまわるか、精根尽き果てて弱音を吐いてしまって総括要求に引っぱりだされるか、隙をねらってチャンスがあれば逃亡するか、リアルに思い浮かべられるのはそんな映像しかなかった。いちはやく逃亡して警察に駆け込む者がいたら、もっと死者数は減ったかもしれないなどとも、横道にそれて空想もした。たぶん現場にいたメンバー全員が事態の進展を信じられず、たじろぐしかなかったのだろう、私もその思いだけは共有できるのだ。事件を知ったあのころも今も。情けなさもあって、簡単に認めたくはないのだが。

 死の理由がまた信じられなかった。新聞が第一報、第二報の記事を載せるころは、異なる二つの党派が合同して結成された党派だから、どうしても折り合いがつかず、理論上、政治方針上の対立が一挙に尖鋭化したのではないか、と私はごく自然に推測してしまったし、新聞記事にも同じ推測が書かれていた。だが事実はまったく推測に反していた。死の真相はそんな「立派」なものではなかったのである。やがて明らかになっていったのだが、それは総括要求と呼ばれる個人に対する集団リンチが大部分だった。(森の主導によって行われた十二名の殺人のうち総括要求による死が十名、残りの二名が「処刑」、さらに最後になって明らかになるが、永田洋子をリーダーとする革命左派においても連合赤軍合流以前に二名が「処刑」されていた)。典型的な例が遠山美枝子で、髪を長く伸ばしている、指輪をしている、女を武器にする(女としての魅力を意識し、つかって男性活動家に接するということだろう)というようなささいな事柄があげつらわれた。「革命戦士」としてふさわしくないということらしいが、まるで子供同士のいじめの世界で、とても嫌な気分になった。顔を顰めてしまった。それが暴行の主たる理由だった。そんなことどうでもいいから遠山に武器を持たせて戦わせればいいじゃないか、くらいのことを私は疑問とともに思ったのではないか、求めているのがそういう結果なら、さっさと結果を出させれば文句のつけようはないだろうに。身だしなみを重箱の隅をほじくるように言い立てるのもどうかしているが、ゆずってそれを是としても、暴行を加えずとも森ら指導者の「絶対命令」として服従させる道はあったのではないか、さらにゆずって暴行を加えたとしても死に突き落とすほどまでにやることはなかったのではないか。私の疑念はつのった。総括要求とは何なのか。指導者が個人の戦いの姿勢をただしたのなら、ただされた者は過去から現在にいたる活動内容を整理して話し、自己と来るべき戦いに向けての観点からそれを反省し評価する。落ち度があったのならそれも正直に話す。そんな対応が誰でもが浮かべるし、そうするだろう。だが連合赤軍においては最後まで総括をやらせてもらえない。そんなことではだめだと罵倒されて暴行を受けるしかないのだ。総括という言葉を受けとる際のごく普通の了解を、森恒夫はすぐさまひっくりかえしてしまう。たぶん山岳ベースと呼ばれる手製の山小屋の現場では、「総括」は既にちがう意味を帯びていたのだが、私が言葉として、それだけとりだしてみるとどうしても不可解さに陥ってしまう。

 森ら赤軍派は六十年代末期以降の当時の現代世界を「過渡期世界」ととらえた。世界全体が資本主義から社会主義の体制へ移行しつつあるというのだろう。それを推進するためには「世界同時革命」としての革命的行動が必要であることはいうまでもなく、くわえて連合赤軍結成の前後には、必須の闘争方針として「銃による殲滅戦」が選びとられた。そこから過去の闘争形式が批判される。六十年代後半からはじまった学生運動の過激化は、機動隊との角材や投石による対決が最初はもっぱらだったが、年月が経るにしたがって火炎瓶や手製爆弾が登場した。しかしそれらは権力との本格的対決をとおしての勝利には結びつかず、革命の萌芽形態を示すにとどまった。そこで、革命党は正規戦としての「銃による殲滅戦」を担わなければならず、また、それを組織員として実践しうる「革命戦士」の統一体でなければならない。雲隠れ的に爆弾を投擲して逃げるのではなく、正面を切って革命の党として登場して銃を使おう、権力と本格的に対決しようということだ。組織的には、軍事は党の軍事委員会等の下部組織ではなく、党の直轄組織でなければならず、それ以上に党そのものが軍でなければならない。軍もまた党内の最高機関でなければならない。これを森は「党の軍化・軍の党化」「建軍建党」などと呼んだ。さらにこれにくわえて組織員個々の「共産主義化」が急務として要請された。組織員相互の討論や批判をとおして理論的一致を勝ちとること、「死をも怖れぬ」どころか「死をも撥ねかえす」(後に触れる)に十分な革命的気概を個々において煮詰め、確固たるものにすること。それが「共産主義化」であり、森はその推進役であり、指導者、教育係としてみずからを認めていた。

 あの当時は、革命が可能などとは誰も思わなかったし、過激派の動員力も六九年が頂点であり、その後は各派とも思うようには人を集められなくなっていた。赤軍派は特にこの傾向が顕著で、議長の塩見孝也の逮捕はじめ、大菩薩峠事件での大量逮捕、よど号ハイジャック事件における実行犯の北朝鮮移動等によってかなりの数の指導者や組織員が娑婆から姿を消していた。それにもかかわらず赤軍派の残存メンバーは爆弾闘争をやったり、「M作戦」として資金獲得のため銀行強盗を繰りかえしたりしていたのである。そして銃砲店から銃と実弾を強奪した革命左派と結びついて連合赤軍結成となり「銃による殲滅戦」を目指した。つまりは自分の将来の生活のことなどいっこうにかまわず遮二無二に活動に没入する、ある意味屈強な人達がのこって携わったのだ。

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