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森恒夫『銃撃戦と粛清』ノート

銃撃戦と粛清―森恒夫自己批判書全文 (資料連合赤軍問題 1)銃撃戦と粛清―森恒夫自己批判書全文 (資料連合赤軍問題 1)
(1984/01)
森 恒夫

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1、当時を「過渡期社会」として捉えた。資本主義から社会主義への移行期ということで、革命は近い、ないしは革命期ということだろう。赤軍派の主張で森も同派の有力メンバーとして当然同じ考えを持った。赤軍派ばかりでなく中核派も「戦後世界体制の根底的動揺」「革命の現実性」などと当時の世界を規定した。今からふりかえるとこれらの捉え方は明らかに虚偽である。私はといえば、本気でそういう言葉を信じていた面と、胡散臭さを感じた部分と半分ずつくらいが混在していた。革命運動にとっての景気づけであったろうし、あのころの運動を担ったほとんどの過激党派が革命近しという主張だった。参加した以上、私も動機を人に聞かれれば、党派的な主張を繰り返したのだから、胡散臭さの感覚は個人内のものにとどまっていた。

2、赤軍派は「銃による殲滅戦」を本格的に実行しようとしていた。角材や火炎瓶による機動隊との激突という形態から、それに飽き足らなく思う激しい党派的部分では爆弾が散発的に用いられ始めたが、赤軍派はさらにその上を志向した。そういう激しい戦いを遂行するためには組織員個々の質的向上・飛躍が必須条件としてなければならず、それは「党の軍化・軍の党化」という言葉で規定された。銃を持って権力と十二分に戦うにたる主体性の構築を人の「共産主義化」とも「革命戦士化」とも呼んだ。森恒夫は山岳ベースに呼び寄せたメンバー全員を革命戦士化しようとしていたらしい。そのために森は、森から見てメンバー個々の過去における失策や、好ましくない傾向を重箱の隅をほじくるようにあげつらっては叱責したのである。これが総括要求である。私からすれば革命戦士化するのはこれからであるから、過ぎ去ったことを執拗に責めるのは違うのではないかと思うが、森にとっての総括要求はとにかくもそういうものだった。

3、森は共産主義化をあまりにも短期的にもとめたことと暴力をもちいたことを悔いているが、後者はともかくも前者は既定方針だったのではないか。その場合、共産主義化が達成されなかったときにどうするのかという対応策があらかじめ用意されていなかった。ここが致命的である。そう見做されたメンバーは森によって放置された。まさか死ぬとは考えていなかったらしいが、厳寒のなか十分な手当てもせずに、単に侮蔑したのである。

4、死や恐怖をつきつければ覚醒するだろうと、森は被総括者にそれこそ渾身の力で迫った。自分たちがこれだけやっているのにわからないのか、ということだ。「総括援助」という暴行をくわえる者にとっても、それは戦いであるという自覚があるから力が入る。殴打に力が入っていないことも見咎められる。暴行を受けた者は痛みが大部分を占めるだけの世界だ。ただ弱弱しくなって相手の主張を受けいれるしかない、それが精一杯。だが森はその弱さが承知できないのだ。たんに口を割らせるためではない、自己批判書を書かせるためではない、それならば目的を達成すれば暴行はその時点で打ち切られる可能性がある。だが森は革命戦士としての誕生をその場で時間を置くことなく、その目で確かめたかったのである。そして革命的気概でもって死をも乗り越えられるという観念的妄信があった。死ねばそれがなかったと見做され「敗北死」とされたのだ。総括要求とは、結果的には死を突きつけることによって革命的気概のあるなしを確かめることであった。それをメンバー個々のなかに短期にではあっても育て創生させていこうとする姿勢はなかった。

5、どうやって総括すれば生き延びることができるのか、これが事件を知ったときの私の大いなる疑問であった。心のそこから『俺は革命戦士になるんだ』と絶叫すればよかったのか。しかし大部分痛みに支配されている心身においてそれが可能なのか、向上心をもつことさえできないのではないか、芝居をしたとしてもたちまち見抜かれてしまいそうだ。殴打を連続的に食らったことの絶望の大きさに支配される以外、それを受け止める以外に何ができたのか。だが森恒夫は、暴行を受けながらも革命戦士化が可能だと見なした。総括援助をしたメンバーも森のその見方に加担した。不可能を可能にするという夢の世界だったのか、その夢に森をはじめとするメンバーは溺れたのか。それは不可能な革命を可能にしようという「革命の夢」に無残にも見事に対応しているように見えてならない。

6、夢をふくらませること、夢を現実に少しでも実現させようとするならば、その方法と見做された行動を執るしかない。また夢の第一義性を頑固に信奉し抜くことだ。自分の存在そのものが夢に直結していると思うことだ。考えるという営為よりも行動における力の行使が夢を実現させつつあるという実感を与える。夢に距離があったり背反すると見える現実は排斥される。そして現実のなかには人がいる。森にとっては「人」なるものは、人の心の世界は、夢の素材に過ぎない。それがどんな風に形成されて推移するのか、どんな風に外の世界が映るのか、まったく想像しようとはしなかったのである。想像する、慮る、ということがまったく不得手な人間だった。想像するということは夢に腰を吸えた姿勢を一旦は解除して対象に乗り移ることだが、これは対象そのものを容認する、正しいものと受けいれる第一歩でもある。だがあくまで第一歩であって想像することが即時的に容認へ繋がることはないのだが、それすら森は怖れた、嫌忌した。想像することはまた行動的「力」の一旦の解除をも要請するが、それもまた森は怖れてしなかった。森は人を想像するよりも嫌悪したのだ。

7、森恒夫について考えることは、私の過去について、またそれを未だ未処理のままで引きずっていることから形成されている現在について考えることと重なる部分が多い。だが過去の問題であることはたしかで、過去における私のこの問題へのおそれと怠慢が作用するのか、本腰が入らない部分がある。事件を初めて知ったとき以来の数年の実感を忘れてしまっている。あの頃、実感なるものをもう少し掘り下げてみるべきだったと、今さらながら思う。

8.実感にはいろいろな思いが混じりあっている。(未完)

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