大洋ボート

ドストエフスキー『罪と罰』

 主人公の元大学生ラスコーリニコフの老婆殺しには、二つの動機と背景がある。一つは彼独自の理論によるものだ。もう一つは19世紀後半のロシアで流行した社会主義や無政府主義の思想と、それに寄り添うような彼の義侠心の強さと、同じことだが金持ち階級への憎しみだ。

 ラスコーリニコフに言わせれば、人類史においては少数の「非凡な人間」と大多数の平凡な人間の群がいて、改革期においては前者が法律を変え、戦争を起こして何千、何万という人間を殺戮する。そうして敵対する者たちを一掃する。ナポレオンのような英雄であり、政治的指導者を指すのだが、彼らは法律によって罰されるどころか、平凡な大多数の人たちから賞賛を浴びて止むことがない。何故なら彼らは「非凡」であり、そういう境遇を甘受することがはじめから天によって決定づけられているからだ。特別扱いだ。そしてそういう理論構築のうえでさらに、ラスコーリニコ自身みずからを「非凡な人間」だと断定してしまうのである。だがこんな馬鹿なことはない。自分を「非凡」だと思いこむのは勝手だが、少なくとも英雄と呼ばれる人は仲間を次第に増やしていって信頼を得て、ついには指導者として御輿にかつがれるまでに至るのだ。英雄になりたいからといって自分一人で成れるものではない。頭脳鋭敏な青年と作者ドストエフスキーによって呼ばれる彼がそんな簡単なことがわからないはずがない。彼は傲慢で人づきあいが悪く孤独だ。その上自尊心が人一倍高い。また自信家だ。そういう彼の気質が当然「非凡理論」を生み出す素地としてある。また、粗末で狭苦しい下宿に押し込められてこつこつ勉強をつづけることに耐えられない。母子家庭の彼の妹ドーチャは、彼への仕送り資金の捻出に寄与させようとして、好きでもない男との結婚話を母とともにすすめるありさまだ。そういう、彼のプライドから言っても容認しがたい情けない境遇からの脱出願望、あるいは破壊願望が、自分は「非凡」だ、だから何をしても許されるべき存在ではないか、という誇大妄想を呼び寄せるのである。元より、世間や法律が彼を「非凡な人間」として認めてくれるわけではない。それは彼自身よく知っている。

 書いたように、彼は人づきあいが悪く、傲慢で自信家だ。「頭脳明晰」でもある。こういう資質は自身を「平凡」だとは思わせないように容易に働くのだろう。だが平凡でないからといって言うところの「非凡」(英雄)だとはかぎらない。二者択一の性質の問題ではない。別の言い方をすれば非凡であっても英雄だとはかぎらないのだ。実際には、平凡にも非凡にもかぎりない段差がある。また個性と呼ばれるものもある。そういうことを青年は、往々にして理解できない。とくにラスコーリニコフのような青年は1か0か、生か死か、という問題の立て方をしてしまう。「平凡」を無価値としてしか見ない。平凡な生はつまらないところがあるのかもしれないが、そうでない部分もある。また、つまらないからと言って生を投げ出すわけにもいかない。また英雄の生にも「つまらない平凡さ」がつきまとうのかもしれない。まったく、そういうことが彼の問題意識には上ってこない。考えること自体がつまらなく見えるのだろう。長い時間枠としての未来が俎上にのぼらずに、彼の未来はせいぜい数ヶ月の範囲でしかない。未来を短くし、難問をたった一つにすることで、青年は全力を投入できるかのように思えてしまう。そして彼はみずからが非凡であることの自己証明のために、老婆殺しという行為の橋を渡ってしまう。行為のみが、彼の理論を生かし、情緒の出口を見つけさせるのだ。その決意を固めさせるまでには、勿論彼なりの懊悩が、衰弱があるのだが……。

 ラスコーリニコフの老婆殺害の動機と背景の二番目について。一九世紀後半のロシアでの社会主義や無政府主義思想の流行だが、これはロシア革命の実現の日まで絶えることがなかったらしい。また、一番目の「非凡理論」とも無関係ではない。レーニンの前衛主義を間にはさめば両者は合体可能だ。無論、生年の隔たりでドストエフスキーはレーニンを知らないが。彼の義侠心の強さは、困窮者への同情と金持ちへの先鋭な憎しみの感情としてあらわれる。彼の凶行の餌食となる老婆アリョーナ・イワノーヴナは高利貸しで貧しい人々から絞り取っている。もし老婆の金を強奪して困っている人々にばらまいたなら、何百人という人が救われる、こういう声をラスコーリニコフは偶然町で耳にしたことによって計画の実行は早まったのだ。つまり「金持ち憎し」の思いは大衆的な広がりがあるらしく、その思いを共有しようとしている点では彼は孤独ではない、彼の「英雄」思想はここで少しは安らぐ。だから彼の犯罪に対する世間の同情も計算に入っているのだろう。犯罪以外の場面でも、彼は金にものをいわせたり、ちらつかせたりする人物を憎む。妹ドゥーチャ(ドゥーネチカ)の婚約者のルージンやら、ドゥーチャがかつて家庭教師を務めたことのある一家の主人スヴィドリガイロフなどだ。とりわけ後者は作者によって淫蕩と呼ばれていて、ドゥーチャに手を出そうとして妻を自殺させたり、殺人を犯しながらも金でうまく切り抜けたりと、悪党として描かれる。そのスヴィドリガイロフがまたドゥーチャを追いかけてくる。困窮者への同情では、飲んだくれで身をくずしたマルメラードフやその妻のカテリーナ・イワノーヴナ、のちにラスコーリニコフの恋人となる彼等の長女(カテリーナからは義理にあたる)のソーニャ(ソーネチカ)などが対象となる。凶行から逮捕されるまでの短い時間、夢うつつの中で彼等のために行動し身銭を与えたりもする。結果、ラスコーリニコフは善意の青年として彼等に受け入れられる。

 ドストエフスキーは主人公ラスコーリニコフに対して随分甘いところがある。とりわけソーニャの愛は、私には彼にとってあまりにも好都合に運ぶように思えてしまう。渡りに船だ。一家の困窮のために彼女は十代後半で娼婦に身を落としてしまうが、敬虔なクリスチャンで「死からの復活」を信じ込む。それは彼女自身の身分の堕落における光明になぞらえられるし、ラスコーリニコフにとっても、彼女の信仰が凶悪犯罪者の孤独と衰弱を慰めてくれるように見えるのだ。ついに彼はソーニャに殺人をうち明ける。だがソーニャは彼を見放さない。先の先まで書いてしまえば、シベリアの流刑地までついていって、彼女はラスコーリニコフの身の回りの世話を焼く。だが、そんな彼女の一途さが何処から発するのか、ドストエフスキーは親切には描いてくれない。とにかく彼女が読者にとって理想の女性であり、ラスコーリニコフに献身的に安寧を付与すること、そういう外的な進行のみが伝わってくる。彼を取り調べるポルフィーリー予審判事を別格としても、彼の周りの人物は善悪があまりにもはっきりしすぎているし、ドストエフスキーは善なる彼等をしてラスコーリニコフに同情を与えすぎるのではないか、と私は思う。その代表格がソーニャだが、彼女もふくめて彼に対して峻厳な批判者にあたる人はいない。

 社会への敵視と自己顕示欲とをラスコーリニコフは、殺人という一回切りの行為に凝集する。そうしてその行為に拝跪する。衰弱した心身をそこへ転げ込ませることで立て直そうとする。宗教めいている。だからこの犯罪はひとりの人間の閉ざされた内部から発生する。彼は、外套の懐に盗んだ斧を忍ばせて老婆の住まいを訪れる。老婆とは借金の最中なので顔見知りだ。「銀のシガレットケース」と称して贋の質草を見せる。頑丈な梱包を解こうとする老婆の隙を狙いすまして、斧で頭部を真上からふり下ろす。即死だ。そこへ留守のはずの老婆の義理の妹リザヴェータがやってくる。彼女が当日留守だという情報を耳にはさんだことが凶行の実行を促した理由の一つだが、彼は何らためらうことなくリザヴェータをも斧で殺してしまう。暴力行使の一気呵成の凄まじさに読者は圧倒される。ためらいを捨て去った後には行為しか残らない。行為が意識を真空状態にする。ラスコーリニコフは行為と一体化することにのみ全意識を集中させるが、同時にその行為の結果をただひとり目の当たりにする者である。そのわずかな時間差が物凄い。圧倒されて言葉がないのは、彼であるとともに読者でもある。はげしい嫌悪感を抱きながら彼は彼女の金品を強奪し、完全犯罪を目指して、血のついた斧や手をバケツの水で洗うという工作をする。……

 ラスコーリニコフには、人間二人を殺めてしまったことに対して後悔の念があまり見あたらない。犯行直後からシベリア流刑の時期に至るまで、そうだ。老婆を死後も「ウジ虫」だったか、そういう呼び方で罵倒するし、リザヴェータに対しても詫びる気持が表出されない。絶望があるとすれば、犯行を冷静沈着裡に進められなかった、自己嫌悪と恐怖にまみれてしまった、強奪した金品を貧乏人に分けることもできなかった、それらのことから、自分は決して「非凡な人間」ではないことを悟らされた、という点にある。彼は憔悴する、夢うつつになる。自首も自殺も思い浮かべる。だがいっそう重要なことは、自尊心だけは捨てられないことだ。愛することが不可能な自分を何としてでも愛し続けたい、という強い願いだ。その方途が見いだせないから、ぼんやりしつづけるのだ。ソーニャに「ロシアの大地に接吻して、懺悔して謝りなさい」とすすめられて街へ出て群衆が見守る中、それをなすのだが、不承不承ではないにしても、ソーニャのすすめに反抗する積極的な理由がないからではないのか。単に一区切りつけたいからではないのか。

 スヴィドリガイロフはラスコーリニコフとは当然別人格だが、彼が殺人犯であることを犯行直後から知っていることを彼に告げて、ラスコーリニコフを驚かせる。彼にとってはそれが彼自身の内面から立ち上ってきた声のように聞こえてしまう。分身的な存在なのだろう。スヴィドリガイロフは、われわれ二人は欲望の奴隷だ、欲望にそして人間に下賤も高貴もない、という意味合いのことをラスコーリニコフに囁く。女たらしの欲望があなたにもある、とも。私はそう読んだ。このときに限って彼は激怒する。スヴィドリガイロフの意見を認めてしまうと、彼に自尊心も未来もついえ去ってしまうからだ。   
 この長編小説には、真の意味での対話がほとんどない。長演説のような一方的なお喋りが随所に見られるが、相手の反論をいっさい許さない風の勢いだ。自分の正当性を、つきつめれば自尊心をありったけの言葉で語り尽くそうとする。語り合って、お互いに真実なり事実なりを発見して共有していこう、という姿勢ではない。とりわけ夫マルメラードフの葬儀を有り金をはたいて盛大に実行してしまうカテリーナの印象が強い。夫への愛を、ソーニャを娼婦に転落させてしまたにもかかわらずなおありつづける気高さを世間に知らしめんがためだが、私にはニヒリズムに溺れかかっているラスコーリニコフへの応援歌にも聴える。彼の自尊心に対する。

           新潮文庫(上・下)工藤精一郎訳

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