大洋ボート

イーユン・リー「ネブラスカの姫君」

 女性主人公の心理の移ろいを微妙にえがきだす好短編。中国から留学のため単身渡ってきた主人公の、アメリカという国への生活者としての希望も浮かびあがる。舞台はシカゴのミシガン・アベニューというところで、ちょうどクリスマス・パレードの日で、若いカップルや子供を連れた家族でにぎわう。この様子に対して主人公は最初は無縁の風景として見過ごそうとするが、しだいにそれは、主人公が人生に対して前向きの姿勢へと変わっていく触媒の役目を、目立たないが担うことになる。じわじわと効く薬のように。また、北京での数ヶ月前に終わってしまった恋愛劇のいきさつがふりかえられる。

 薩沙(サーシャ)は渡米の直前に陽(ヤン)という青年と関係を持ち、のちに妊娠したことを知った。薩沙は陽にアメリカへともに行くことを誘ったが断られた。薩沙からの国際電話で彼も妊娠の事実を知るが、まもなく彼は連絡を絶ってしまう。陽は元京劇の男旦(ナンダン)と呼ばれる女性専門に演じる将来性豊かな役者だったが、ゲイの行いがばれてクビになってしまった男。並外れた美青年で、薩沙には陽が「まわりの泥に触れたことのない、白い蓮の花のよう」に映った。彼女は陽のことをあきらめて中絶を決意するのだが、それをなんとか思いとどまらせようとするのが伯深(ポーシェン)という男。三十八歳の医師で、彼もゲイの傾向で、役者をクビになった陽を買春してかこったのである。伯深はまたゲイの擁護やエイズの調査などの人権活動に熱心だったため秘密警察から目をつけられ、その活動も制限された。彼は陽の「浮気相手」の女性が陽の子を身篭ったこと、その女性薩沙が渡米したことを陽から告げられる。彼も陽に二人してのアメリカ行きを持ちかけるが断られ、陽はほどなく彼の前からも姿を消す。そうして彼伯深もレズビアンの女友達と偽装結婚して渡米して、薩沙のもとに駆けつけてくるのである。彼が陽の忘れ形見を育てようとするのは、彼が陽の京劇復帰を実現するという約束を果たせなかったからで、そのせめてもの償いの意味がある。また陽に対する愛情の胎児への反映でもあるだろう。

 二人の共通点は、このように陽と関係を持ったという以外にはない。薩沙は彼にとっての初めての女性で、ごく普通の恋愛をさせてあげたという面で誇りを持っている。だがきっぱりと忘れようとしている。反対に伯深のほうは、未練たっぷり。陽の復帰のため、アメリカへ来てからも在米の京劇の権威に働きかけることを考えたりする。だが陽のようなとびきりの美青年は、いくらでも相手がいるものだ。自分の地位向上のためにより役立ちそうな人間を物色することは不可能ではないのだ。薩沙にとってすでに陽は、思い出の領域に入ろうとする人だ。だが伯深は陽の子を育てることで、陽との関係を持続させたいと考えるのではないか。そして子供をめぐって向き合う二人。陽の相手であるからさぞかし見目麗しい姿ではないかとの想像を両者とも抱いていたが、お互いに裏切られてしまう。女から見て男は平凡で、真面目すぎて面白みがない、男から見て女はちっとも美人ではない。またそれ以前に胎児をどう扱うかは妊婦である薩沙が主体的に決断すべきものであるのに、そこへ見知らぬ男として伯深が割って入ってきたのだから、薩沙としてはしっくりいかないのも当然だろう。そうこうするうちにも子供はどんどん大きくなる。今しもお腹のなかで動いて知らせる。

 マクドナルドで軽い食事を二人がとるところからこの短編ははじまるが、男がすすめたフィッシュサンドを女がつき返して、男のチキンサンドをえらびとる。ここが映像的で印象に残る。これだけで二人の関係の冷たさがわかろうというもの。二人は断続的に話しながら、外へ出て、クリスマス・パレードを見物することになる。薩沙はにぎわう人々が素直にうらやましい。父親の肩車に乗せられた子供。ポップコーン売りに行列を作って並ぶ人々。夕刻ともなればイルミネーションにいっせいに明かりがともる。ディズニーのフロートがやってきてミッキーマウスが乗っている。アメリカの人たちは「生まれつき自然体のままでいられる。天真らんまんで、しかもそれを幸いと思っている。」同時に薩沙が思い出さずにはいられないのが、みずからが生まれた環境と母親のことだ。母は若いときに文化大革命のあおりを受けて、懲罰的処置として都市からモンゴルへ移住させられた。そこで現地のモンゴル人男性と結婚させられて、薩沙ともう一人の子供を生んだ。文革が済んで離婚することはできたが、母はいまだにモンゴルから離れることができない身分でいる。子供だけがようやく脱け出せた。このように子の母への痛切な同情をずっと薩沙は引きずっているのだ。そのことを思い浮かべると、アメリカ人とその地が倍化して輝いてくる。
 

 伯深が肩に腕を回したとき、薩沙は逃げなかった。知らない人から見れば、二人はごく普通の夫婦に見えるだろう。喧嘩してへそを曲げた妻を、夫が心配してなだめているというふうに。あるいはおたがい愛想づかしをした夫婦でもいい。夫はお腹の赤ん坊だけを気にかけていて、妻は胎児のこともふくめ、何に対しても心が動かなくなっている。


 
 だが同時に赤ん坊がお腹のなかで動く。引用した部分は何気ないようでそうではない。自分たち二人が周りからどんな風に見られているか、と単に気を回すのではない。女性主人公が出産へとようやくのように心が傾きはじめた瞬間をとらえているのだと思う。肩に回した男の腕から逃げなかったのは、別に伯深に異性として好ましい感情をにわかに抱いたからではない。胎児を気にかけてくれる伯深のやさしさを受けいれたのだろう。彼は同志的存在なのかもしれない。そして薩沙は今もモンゴルに住む母を思い浮かべる。母が経験したであろう子に対する「どこまでも落下していく」「底なしの愛」を薩沙自身もまた見据えるのだ。薩沙は、母は出産を後悔しなかったことを知っている。

 三十頁あまりの短編だが、主人公を取り巻く人物群、後にしてきた故国、住まおうとする新しい国、故国のなかの古さと新しさ、等々、重層的な環境が不足なく描かれている。そのなかで前向きに生きようとする薩沙の姿が胸を打つ。

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