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イーユン・リー『千年の祈り』

千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS)千年の祈り (Shinchosha CREST BOOKS)
(2007/07)
イーユン・リー

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  作者イーユン・リーの描く中国には新しさと古さが同居している。前者は開放政策のはじまってから今日にいたるまでの中国であり、停滞しあるいは衰退する国有企業を尻目に私企業が勃興しはじめた。その結果、人目につくに足りる富裕層が出現し、人々がそのおこぼれにあずかる機会もできた。また、アメリカや日本などの商品の優秀さが認知され、言論の自由が保障される社会体制も知られることになって、それら外国へのあこがれがかきたてられるとともに、それまでの自国の社会主義体制への幻滅の感情もあらわになった。また個人が目指す道を、よりいっそう自分自身の思いを中心にして決めるという傾向も強まった。日陰の存在である異端者、たとえばこの短編集にも描かれるゲイ、レズビアン、未婚者のような人たちにも少しではあるが、希望がきざしはじめるように思えるようになった。

一方、古さも岩盤のように依然としてある。言論や信教の自由はまったく保障されないままだし、それは単に窮屈さという次元にはとどまらない。たとえば、革命時代から文革期にかけてほんのささいな言動が元になって極刑にまでいたる仕打ちを受けた人たちが数千万の単位で存在し、その爪あとはその家族の子供(現在の成人)にまで深く刻まれている。処罰的処置によって都会から遠方の地方に飛ばされた人々も多数存在する。独裁体制であることは変わりはないが、その過酷さは文革期まではもっとひどかったということだ。文革期を過ぎてもなお天安門事件のような一大流血事件もあった。そういう政治的絶望は、古さのなかの最も大きな要素で、現代にも大きく立ちはだかっている。古さといえばほかにもある。この短編集にも登場するが、「京劇」のような伝統ある芸能の制度、小さな町に代々つたわる英雄伝説、あるいは言い伝え、ことわざのたぐい、そんなものにまで浸み込んでいる。だから、現在においてすべてが「新しさ」と入れ替わったのではない。また、庶民の中で長い年月にわたって形成された多数意見というものも堅固に存在しつづけ、人々の生き方そのものになっている。これも「古さ」と言えないことはない。先に異端者のことに触れたが、これらの人々は依然として少数派であり、「多数派」から罪悪視されてもまだまだ当たり前の社会なのだ。

さらにもっと人々に接近してみれば、同じような境遇で同じ多数派に属すると外側からみられても、深刻な意見の対立は、場合によってやはり存在する。「黄昏」では、周囲の反対にもかかわらず熱烈な恋愛結婚で結ばれたいとこ同士の夫婦がいる。(この結婚の経緯だけとりだせば、彼ら二人は少数派である)彼らのさずかった第一子の女の子は重度の脳性麻痺を背負っていた。回復する見込みはなく、一生二親が介護しなければ生きられない運命にある。二人ともよく奮闘して面倒をみる。妻は嘲られることをきらって周囲から子供のことを隠そうとする。客を家に招くこともなく、子のうなり声も漏れないように窓やカーテンを開けることがない。妻のほうがより一心不乱に子に向き合うように描かれる。だからいっそ子が死んでくれたらと強く強迫感情にさらされるのも妻のほうだ。そんな気配も察知するのか、夫は妻が息苦しい。第二子をつくろうと夫は提案する。勿論正常な子が生まれてくることが前提で、そうなれば家庭の中もいくらかは明るくなる、妻も障害児ばかりに向き合わずにすむ、気が晴れるのではないか、という目論見だった。障害児の女の子をやたら周囲から隠すことにも夫は反対だ。だが妻は反対する。健康な第二子がさずかっても長女が消えるわけでもない。その負担が軽くなるでもない、むしろ第二子の誕生によってより育児の負担がのしかかる、その分、長女への面倒見がおろそかになると。

こういう意見対立は普遍的に存在するもので、別に新旧の対立という括り方にこだわる必要はない。しいていえば妻のほうが、「恥」や「母性」における考えと構えが古めかしいといえないことはない。また、張りつめている。夫のほうがやや長女から距離を置いて、開明的といえるのだろうか。そして作者はどちらが正しいか、などと無粋な選択をしないし、読者にそれを迫りもしない。中立ということではなく、どちらにも感情移入できる仕組みをつくったうえで書いている。複眼的なのだ、ここが重要だ。読者は小説の登場人物に対しては第三者的ではあるが、ひょんな運命でどちらかの立場に立ってもおかしくはないと思わされる。どちらも自分のことのように思える。さらに作者の複眼はひろがりを持つ。

やがて第二子の男の子が五体満足で生まれ、二十年以上たつと、その子は自立して出て行く。夫は職を定年で辞して、その興味を株式投資に見出して毎日のように株屋に出かけていく。彼はそこに清新な時代の匂いを嗅ぐ。おしゃべりに興じるおばさんたちや、やがて夫の友人となる元マルクス主義者。その友人は彼の妻の服役中(国有企業の幹部であったときに汚職を摘発されて)若い愛人をつくる。友人の妻は早期に出所して、彼の浮気を嗅ぎつけて敵愾心をめらめら燃やし、その騒動は主役の夫妻にも及んでくる……。「株」「愛人」などがここでは中国の「新しさ」である。そしてこの「黄昏」のもつひろがりである。主人公の夫はそんな新しさの空気を少しでも妻に浴びてもらいたいのだが、妻の姿勢は微塵も変わらず、苦しそうな顔つきで障害児につきっきりで介護すること以外は眼中に入らない。第二子の誕生もほとんど妻に変化をもたらさなかった。

人は基本的には利己心や興味で動く。だが思ったほどうまくはいかない。安住できる群れがそうやすやすと転がっているのでもない。人に良かれと思って実現させたことも反発を食らう場合もしばしばで、その結果は引き受けなければならない。人は行動する。それによって社会に流通する「新しさ」「古さ」を自然に身につけてしまう。だが、それらは最初の意志や自分にとっては部分でしかない、ともいえる。和解しがたい夫婦であっても、人はそのもとでさらに生きなければ、行動しなければならない。孤独ということだが、傍には縁ある人が常在する、あるいは近い過去にいた、ということである。この「関係性」は勿論中国にかぎらずどんな社会にでもある。そしてある同じ固有の「関係性」はそこに対峙する人のちがいによって、固有の感情を抱きながらちがってみえる。イーユン・リーはこの同じ「関係性」がメンバー個々によってどう見えるのかを並列的に描いていき、結局は客観的にはそれはどんな風に見えてくるのかを読者に問いかけてくる。

イーユン・リーは一九七二年北京生まれで、北京大学卒業後一九九六年渡米して以来、大学教授の職について現在もアメリカ在住だという。複眼的、俯瞰的な展望を中国や中国人に向けられるのは、その地理的な距離感がいいほうに作用するのか。これからこのすぐれた短編集のいくつかをとりあげていきたい。


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