大洋ボート

ジョン・バンヴィル『海に帰る日』(2)

 そこでマックスは、少年時の無意識にも多くおおわれていたであろう心性を現在の言葉で再構成する。クロエは彼にとってのはじめての「現実的存在」となった、というのだ。それまでは、ぼんやりとした広がりを持つ「世界」のなかの自分は一部分だと思っていた。クロエに恋してみて彼は、「世界」に属しているという「内在性」の意識から解き放たれた。世界から突き放され、それが敵対化することによって、クロエは彼に近しい存在、世界から是が非でも守らなければならない存在と化した、というのだ。初恋をとおして大人の自覚に芽生えたということか。映画館や食堂でデートし、キスもするようになって二人は恋人としての自覚を持つ。幸せな時間だ。

クロエと過ごしたあの数週間は、わたしにとっては、多かれ少なかれ恍惚とした屈辱の連続だった。彼女はわたしを女神の前にひれ伏す僕(しもべ)として、こちらが当惑するほど満足げに受けいれた。上の空の気分のときには、わたしが存在することすらほとんど意識していなかったし、まともに注意を向けているときでさえ、彼女の心にはかならずちょっとした隙間があって、なにか別のものに気をとられたり、放心したりしていた。その自分勝手な曖昧さがわたしを苦しめ、憤激させたが、それよりもっと悪かったのは、それが故意ではなさそうなことだった。彼女がわたしを軽蔑することに決めたのなら、わたしはそれを受けいれられたし、それを歓迎して、ひそかに快感を味わうこともできただろう。だが、彼女の視線のなかでわたしがただ蒸発してしまう瞬間があるのだとすれば、そんなことには耐えられなかった。(p157)



 彼の目にはクロエが壊れやすいガラス細工のように見えたので、守ってやらなければという意識にせかされた。マックスの言い様によれば、クロエの目から彼女自身の「欠点」をマックスができるかぎり隠すことが、クロエを輝かすことになる。クロエの自己評価が下がれば、マックスの彼女に対する評価も下がるというのだ。クロエを愛する前に母のコニーの肉体に強く惹かれたこと、それを告げれば彼女は自分を「二番手」として意識するのかもしれない。クロエの歯がかすかに緑色がかかっていること、これは同年代の少年が悪口でいったことだ。また体が古いビスケットの匂いがすること、これはマックス自身は気に入っていたクロエの特徴だったが、クロエは気を悪くするかもしれない。まして「恐ろしい真実」など告げても、他人の口から告げられてもならない。

 それにしてもだ。「恍惚とした屈辱の連続」「僕」というような言い方は、やはり大人が子供の世界をかろうじて翻訳してみせたに過ぎないのではないか。同じ言葉を大人の恋愛世界に適用すればまるっきりちがう風景になるのではないか、と思う。つまりは子供独自の「ごっこ」の世界だ。容易に「僕」にもなれるし「屈辱」があっても甘酸っぱいのだ。それに大人の定義に耐えられるほどの強固さももちえないのかもしれない。曖昧模糊な面があるし、いい意味で柔らかいのだろう。

 そんな風にせっかく再構成された少年の心性だが、少年の彼自身がそれを裏切ってしまう。繰り返しになるが、少年とは子供とはそういうものかもしれない。「秘密の共有」としてクロエに家庭教師ローズに関する目撃談を話してしまった。ローズと父がいい仲だということを。もっとも直接その現場を見たのではなく、ローズとコニーがそういう内容の話をしていたのを主人公が聞いてしまったということだ。マックスは軽い気持ちだったのだろう。それを話すことが親密さの証と思ったのか。だがそれがクロエに深刻な動揺を与える。死には直接のつながりはないが、遠因になったことは疑いない。自己評価を下げるどころではなかった。

 病と事故によるふたつの死。失策をしてしまった、あるいはもっと他にやりようがなかったのか、という痛恨の思いが響きあう。そして主人公の行動。最初に書いたが、それは思い出の地を訪れただけではなかったのである。最後に少し苦言を呈するならばはっとするような指摘、分析が随所に発見できるが、前後の文が余計に感じられ、長所が薄まるようにも思えた。文章の過剰、小説とはそんなものかもしれないが。
                                    (了)

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