大洋ボート

ジョン・バンヴィル『海に帰る日』(1)

海に帰る日 (Shinchosha CREST BOOKS)海に帰る日 (Shinchosha CREST BOOKS)
(2007/08)
ジョン・バンヴィル

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 小説は最後まで読まないとわからないものだな、と思わされた。結末が少し意外で、腑に落ちない感覚が残ってしまった。主人公がそれほどまで憔悴し、やるせない気持ちにとらえられたとは読みとれなかった。彼がみずからを意識する以上にその気持ちは強固だったのだろう。その無意識が彼を少し無謀な行動に走らせてしまった、と見るしかないのだろうか。私には、作家が主人公の口を借りてする分析がたいへん理性的で冷静に見えて、憔悴がしだいにつのっていく様子をそれほどまでとは読みとれなかった。だが作者は裏でストーリー展開を用意していた。私の読み方が悪かったのかもしれないが。

 マックスは六十歳を過ぎた頃か。妻アンナを癌で亡くし、その悲しみを抱えたまま海に面した村を訪れる。そこは五十年前の夏、彼が一家とともに避暑のために滞在したことのある村だった。そこで彼は初恋を経験した。同じく避暑にやってきたグレース一家の長女クロエが相手で、彼女はマックスと同じ年頃。父カーロ、肉体美を誇る母コンスタンス(コニー)双子の兄弟でやや知恵遅れで言葉を話さないマイケルがグレース一家、それに彼ら二人の家庭教師のローズ(十代後半)も同伴していた。マックスが五十年ぶりに訪れて滞在することになるのは、グレース一家が宿泊していた貸し別荘である。マックスたちは経済上の理由から別の、もっと粗末な貸し別荘を利用せざるをえなかった。そういう一家へのあこがれもあってマックスは彼らに近づいたのだ。読みすすむにつれて予想できるので書いてもいいと思うが、クロエは帰らぬ人となってしまう。その直前に彼らの恋が成就したにもかかわらず。

 心の整理ということではない。妻の死という大きすぎる事実。直近の過去だが、過去ともいえない現在そのものとしてマックスの体にのしかかってきて蝕みさえする事実、その大きさ。一方では五十年前とはいえ忘れかけている過去ではない、当初から謎そのものとして引きずってきて、今だ痛手から解放されることのない幼い恋人の死。このふたつの死、そして生とにマックスはゆっくりと向き合う。このふたつの「死と生」は別々ではない。一方への問いかけと答えが他方へ、かすかに響きわたるように感じ取れる。死は大きすぎてどうしようもないが、それに対する憤懣が呼び寄せるのだろうか、妻に対しては、かつて二人がともに暮らした時間やら生活への疑念につながっていく。もっと別のやり方があったのではないかと。妻に対する不満ではなく、マックス自身のやりかたが間違っていたとも思えない。一生懸命だったし、これがベストだろうという選択をしてきた。喧嘩をしたりストレスが溜まったこともあったが、それが問題ではない。

 

わたしたちは、アンナと私は、できるだけのことをした。わたしたちは自分たちがならなかったものについて、たがいを許した。この苦悩と涙の谷間で、それ以上の何ができたというのか? 〈そんなに心配そうな顔をしないで〉とアンナは言った。〈私だってあなたを憎んだことがあるのよ、少しくらいは。なんといっても、わたしたちは人間だったんだから〉だが、そういうすべてにもかかわらず、わたしたちにはなにかが欠けていた、自分にはなにかが欠けていたという想いを振り払うことができない。それが何だったのかはわからないが。(p208)



 引用した部分は、全体の中ではめずらしく主人公が取りみだす場面だ。対話が死によって強引に中断されたことへの怒り、くやしさだろう、それらがこういう言葉を吐かせるのだろうか。いや、それ以上に貪欲なものを受けとることができそうだ。「それが何だったのかはわからないが。」妻アンナはマックスにとっては好都合な生活をおくらせてくれた人だった。美術評論家としての彼の仕事に理解があった。アンナも結婚以前は写真家志望だったからだ。また彼女の父はプチブルともいえる境遇の人で、少なくはない貯金を持っていて、彼らの結婚後まもなく亡くなった。それらの条件は、彼の貧しい境遇からの脱出願望や、現実に「歯向かう」のではなくたえず「避難所」をもとめてきたという彼の人生に対する姿勢には好都合だったのだ。だがアンナにとってはどうだっただろうか。それをマックスは考えたことがあっただろうか。たとえば彼女は、医師から死亡宣告をくだされてののちの入院生活の最中に、急にカメラをもちだしてきて病院の患者たちを精力的に撮影しはじめる。乳癌の手術の跡がなまなましい女性の微笑むポーズなどがおさめられる。死に臨んで思い残すことのないようにとの決意だろうか。こういう行為はマックスを狼狽させる。妻にとって結婚生活は幸福だったのだろうか。マックスはそうだったと思いたい。自分は幸せだった。また精一杯やってきた。だが最後のところでどうしても悔いが残る。

妻への回想は病の顕在から死に至るまでが中心で、強烈な断片のつみかさねの観を呈する。平穏に過ぎたであろう幸福な長い時間は省略されている。これに対して、クロエへの回想は出会いから、水泳を中心にした遊びの楽しさ、一家の人々との交流からクロエの死に至るまで順番に追っていく。短い期間のことだからそうなるのだろう。また夏休みだから開放的な雰囲気が満ちていて、アンナへの回想とは対照的だ。

彼女の手。彼女の目。いつも噛んでいた指の爪。わたしはすべてを覚えている。強烈に覚えている。だが、記憶はすべてばらばらで、ひとつにまとまることができない。たとえそうしようとしても、あえてそうしようとしても、たとえば彼女の母親や、マイルスや、あの原っぱ(ザ・フィールド=ふりがな)の耳の突き出たジョーを思い出すようには、彼女を思い浮かべられない。要するに、わたしには彼女の姿が見えない。彼女は私の記憶の目の前方に、ある一定の距離をあけて、焦点の合う一歩向こうで揺らめいていて、わたしが前に進むと、ちょうどそれと同じだけ後退する。わたしがそのなかに前進しようとしているものが急速に縮まりかけているのに、なぜわたしは彼女に追いつけないのだろう?(p133)



 初恋の女性の死という強烈な体験を主人公は、その女性を中心にして体験以上に精緻に、よりいっそう相手に接近しつつ繰り返そうとするのではないか。そのときの恋焦がれ、崇め奉っていたであろう少年の心性にも則って。対象の少女の映像そのものには感情はない。感情は少女を見る少年の目の側にある。また五十年を経た男にもある。それを分離せずに義務のように引きずるからこそ、少女クロエの記憶の像はあっさりしたものにはならない。体験の中心には謎がある。いくら周囲を埋めていってもそこだけが埋まらずに空白が残る。死んでしまったこともあって、そのうつくしさにはついに到達できないのだ。そして彼女の死の直前の心性が奥深くまではわからないことも、未到達感の大きな理由だろう。

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