大洋ボート

フォークナー『八月の光』(1)

八月の光 八月の光
フォークナー、加島 祥造 他 (1967/08)
新潮社

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 ジョー・クリスマスの短い生涯に衝撃を受けた。最後の数年間、同居していたジョアナ・バーデンという女性を殺害してしまったことで彼の人生は三十五年という期間で閉じられた。だがそれは彼にとっては必然的であった。彼は彼自身から内発する欲望を起点にして、人生の方針を独力でうちたてた。彼は彼自身に忠実であり、妥協することがなかった。逃亡や安全をいざというときには優先しながら、一方ではへりくだって他人との融和をはかるという私たちの人生にありがちな処理の仕方を彼は選ばなかった。少なくとも最後の場面ではそうだった。欲望を大事にしながら、彼にとってはより瑣末な欲望を捨てるという意味では、彼はおそろしく禁欲的だった。自身の方針を徹頭徹尾固守する人物はそうざらにはいない。不幸な生い立ちから出発して、作家フォーナーはこの特異な人物像を冷酷かつダイナミックな筆致でえぐりだした。ジョー・クリスマスは殺人犯でありながら、私のような非行動的な読者にはある種羨望と同情とを十二分に抱かせるに足る人物だ。またそれ以上に魔力をも。

 殺人につぐ逃亡の果てに、彼は何を見たのだろうか。おそらくは虚無というものだ。彼は萌え出た欲望が確からしくなるまで根気よく待ち、そのうえで欲望の地図に描かれた自身の未来に突き進んだ。他人が彼の思うように従うか、それはやってみないとわからない。だが彼は方針を立てた瞬間に彼個人の範囲の行動については、つまり彼の未来像は寸分たがわず決定してしまった。そのとおりに人生の大部分を過ごしてきた。だがジョアナ・バーデン殺害のあとには、もう未来は彼には残されていなかった。欲望が一気に消失してしまったからだ。彼も心底では愛と平和が欲しかったのだ。彼は終始一貫、反信仰の立場をとりつづけたからそういう言葉遣いは嫌うだろうが、読者からみれば明らかに「愛と平和」なのだ。静かで平穏な暮らしなのだ。だがジョアナという女性はジョーの思い通りにはならなかった。彼が未練を持ちすぎたこともあるが、彼女がジョーに殺害目的で襲いかかったとき、彼は用意していたナイフで彼女の首を切って殺してしまった。ひとつには彼の粗暴性のあらわれであり、また、宗教的立場があまりにもちがいすぎる出会いでもあったからだが、何とも悲惨な結末である。ジョーは後悔したのだろうか、読むかぎりは明瞭ではないが、もし後悔がそれらしくあろうとするならば、事件のみに対するのではなく、もっと彼の存在のありようにまで遡らなくてはならない。間違っていたのなら、いったい、いつからどこからかということだが、答えは容易には浮かばない。

 ちょうど夜明け、明るくなる頃だ、灰色の寂しいたゆたいはようやく、目覚めた小鳥たちの試し鳴きする低いつぶやきに満ちている。空気は、吸いこむと、泉の水のようだ。彼は深くゆっくりと呼吸する。そして呼吸のたびに自分がこのくすんだ灰色の世界に融けこみ、怒りや絶望を知らぬ孤独や静寂とひとつになるように感じる。『俺の欲しかったのはこれっきりだというわけか』と彼は静かな、鈍い驚きとともに考える。『この三十年間欲しがっていたものはこれだったのか。これは何も三十年も尋ねまわるほどのものじゃあなかったようだぜ』(430p)



 保安官の一行に追われながら、農家の散在する平原をぬって逃亡をつづけるジョーが、その何日目かに野宿して目を覚ました場面だ。夜明けの透明な空気と光が彼を軽く驚かせる。社会や他人の世界に飛び込んでいって獲得しようとしたもののイメージが自然の姿に形を変えて、現に彼の前に展開されている、彼は、果たしてそんな風に気づくのだろうか。人間を思い通りにねじ伏せようとした、あるいは実際の人間を、こうあってほしいという彼にとっての理想像の人間にごく近いものとして勝手に見做してしまった。それは結果的には失敗であったが、やってみなければどうなるかは誰にもわからないので、思い込みもこめてやってしまった。動機にしろ欲望にしろ、なんら後ろぐらいところは無い。彼の粗暴性が最悪の結果を招いたのだが、踏み込むこと、突きつめることは貴重だ。その貴重さは彼の持って生まれたに等しい資質で、美しいとさえいえるものだ。粗暴性だけを切り離して後悔するのは今さらする気にもなれないだろう。それに粗暴性は彼の美質と表裏一体ではないか。そしてこの引用カ所はどろどろした人間界とは切り離されて「美」としての自然が晒されるのだが、それを落ち着いて正確に感覚できる能力を彼は持っている。うまく行けばその「美」を他者とのつながりのなかで見出したかったのだ、ジョーは。「怒りや絶望を知らぬ孤独や静寂」を自然に見出したかったのではない。自然は彼の目的としたものの遅れてやってきた代替物に過ぎないのだ。
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