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暗愚の履歴

自作詩
10 /25 2020
  記憶をあたためることに余念がなく、敗走ともいえない中途半端な敗走の後で記憶を一切合切保存することに余念がなく、それでも全事象すべてを保存することには無理があるので取捨選択をせざるをえないが、そうでないならば両手でかき集めて凝縮しておのれの身体に見合った質量にしなくてはならず、手持ちの映像を材料として、言葉はなく、ただただ沈黙と本能的勘によっての堂々巡りの旅。といっても碌なものはなく、某年某月某日何処で何をしたというわかりきった無味乾燥な平板な断片の連続しか暫くは見当たらず、例えば夜の野外を見透かそうとしてできない視力の限界と退屈さを自覚せざるをえず、無為の日々を過ごすしかなかったのだが。 
  土を掘り返すスコップが土や空無ではなく熱い肉質につきあたるように手応えある場面が顕われてきて、ああ、あそこがおれの折り返し点だったのかなとも推論するに至ったが、つまりはその時の棲家での本能的習性なるものに促されて前に進もうとはしたのだが、恐ろしさが喉元にせりあがってきて火傷に触れ思わず引き返さざるをえなかったのだが、前進を仮定したところでどうということはない。袋叩きに逢うであろう刑事罰を食らうであろう、ただ盲滅法の破壊のドラマでしかなく、対話をその時はしたかったのでもなく、対話の欲求の切実さが顕われてきて憧れたにせよ、その可能性を追及したにせよ、後々に過去として向き合ってからのことにしか過ぎない。
  現在には無関心の現在だから、日々押し寄せてくる現在にはとりあえずはそらとぼけるしかなく、それでも最低限の義務は果たすしかなく、秘匿の階段を下りていくように肩をすぼめる下降と縮小傾向がひとりでに身についてしまって、現在に存在するものは現在の零であるとするならば、それとともに過去の残滓であり「手応えある場面」のいくつかのカードの他にさらに残滓があり、それはわたしのなかで日々の経過によってわたしの裏側で無意識裡に抽象化され、また何らかの歪みを被る。
  無関心の対象はばっさりと都合よく振り落とされるのだが「残滓の残滓」なるものの第一印象は霧と塵と体温とわずかな人の動きで、貧弱でほんとうにつまらない。血と汗をそこに自分流になすりつけねばならないが、つまりは蠢動しようとするわたしがごく自然に向き合うことになるのだが、些末な映像と静止したまま動こうとはしない人間劇をとりあえず付与する以上のことはできず、表面の印象を変えただけで根本的には過去を繰りかえすに過ぎないのではないかとの疑念もつきまとう。過去においてわたしは阿呆で快活で強引で傲慢だったが、そのときの気分を取り戻そうとするのではさらさらないことは自身でも明瞭だが、繰り返しにもなるが、それら表面の見えやすいわたしの部分とは別に過去の曖昧だった闇の芽の部分が自然に現在に至るまでの間わたしの知らないうちに持続してきたのではないか。育たないまま鬱屈したまま拗ねたまま変形して持続したのではないか。そしてまたわたしの気まぐれは行きつ戻りつし、それとは別のところで過去のわたしのくだんの見えやすい表面を即時的により鮮明に思い出すことによって現在の零に息吹を与えようとすることにもときにはちょっかいを出したのではないか、だがそれは欺瞞だ。記憶を留めようとする試みにはもともと過去への批判志向があったのであれば。わたしはいやらしくもこの世界には存在しえない抜け道を無意識裡に捏造しようとするのではないか。過去の「残滓の残滓」はつまりは現在そのものであり、その解析と批判にわたしは失敗しつづける。
  さらにわたしから貯蔵したはずの分量の過去さえ忘失しかけ破片となって滑落する。わたしは寂しさにうろたえ、わたしと同質の過去を持ち且つ今も様変わりしてしまった棲家にいるであろう人を思い出し、わたしの彼への第一印象であるその率直さと愚劣さと生々しさでもって剥落した過去を少しでも補填しようとする。しかも正面切って対面して聞き出そうとするのではなく、抜き足差し足で近づいて扉の外から盗み聞きしようとするのだ。後ろからそっと近づこうとするのだ。これも過去への批判の試みに資する一方途といえなくもないのかもしれないが、ただただ試みのなかのさらに子供っぽいいたずらっぽい捩じくれた小さな試みに過ぎず、邪道に過ぎず、過去への批判という観点からは明らかに逸脱なのだが一時的にせよ許容してしまうのだ。いやらしさと脆弱さそのものだ。批判を減殺した質量の分だけの接近であり、恐怖のわずかな沸騰に冷汗を滴らせることに「意義」を感じてしまうだけだ。それで何かが始まろうとするわけではないことに最初は、というよりも長い期間気づかないのだ。窓を開けたつもりの擬制の「未来」の暗愚に。
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不能者

自作詩
10 /15 2020
  使い果たすことのできない「力」があって、使い果たすことを忌避しあるいは怖気づく本能があって、だからどうしようもなく体全体をどっしりと貫通するごつごつと筋くれだった幹が形成されないままで、もう少しで手にはいるはずだった穴から噴き出す火の鼻息もなく、それこそ力が入らず、腑抜けを仮面で隠したつもりで、巻き上がる砂塵とともに街区をさまようおまえだが、おまえ目がけて天から降ってくる斧の妄想にあこがれ支配されるおまえだが、且つそれはふわふわした空無の停滞から逃れられないおまえ自身を少しでも鞭打とうとする試みの日常的習癖だが、それでも居場所が確保されているだけまだましだという声が聞えてきて、その声は確かにそうだけれど、肯って全面降伏するにはまだまだ未練があって、満足できないまま、使い果たすことのできない「力」を使い果たしてしまおうという欲求もまた下腹部あたりにしぶとく眠っていて、ときどきはおもむろに出て起きだして来るので、餌ともいえない身勝手な承認済シールを貼ってやらねばならず、追い返さねばならず、満腹にさせて頭を撫でてやるとまた帰って行って惰眠に堕ちるのだが、つまりは「使い果たせない『力』」の幻影はとっくに懸隔なく内面化されて、おまえの贔屓の家来の位置に成りおおせていることにおまえは幾分かは無自覚であり、自覚的部分では不満足であり、歯がゆくもあり
  コツコツ積み上げていくしかない日々へのつまらないつらい想いは晴れることはなく、太陽も月桂樹もとおく、打擲される豚の出血と外皮の条痕の何分の一かは共有しているらしいが、あくまで何分の一か以上ではなく、実感としてそれを拡大しつきつめようとは一旦はするが、本気ではなく、本気でないことにあえて気づこうともせず、先延ばし先延ばしにし、いわくありげな硬い石の目つきを誇らしげにし、勝利者の腰つきをときには模倣したりして生半可な「言葉」を語りだし、「使い果たせない『力』」の雛型だけは自身にも実在すると信じて、おろおろしつつ、結局は何事も為そうとはしないまま、あちらからやってきてくれるかもしれない「未来」を涎を垂らして見据えている。

天使

自作詩
10 /11 2020
  天使の皿が頭上すれすれに舞い降りてきたが、わたしは通り過ぎた。立ち止まったのは感覚だけで、それも随分後になってからで、身体は透明な粒のような不可解さを宿しながらも通り過ぎた。不可解さは外側からも、何らかの罰の執行猶予ででもあるかのようにやさしく包み込んでいて、天使の直下をまるで別の明確な目的が眼前にあるかのように水平方向に通り過ぎた。暗夜で横殴りの雨が降っていて、燈がぼんやりと大小形状さまざまに外観を変化させる獣のように疼きを見せびらかしながら誘うように灯っていたのだが、その場所にたどり着くこともなく……。
  「明確な目的」なるものは忘れてしまった。あのとき、どうやれば天使の皿に触れられたのだろうか。手を伸ばせば皿の下部に届いたはずなのに何故それをしなかったのだろうか。何故今になってあこがれるのか。あのときはあのときの棲家固有の習慣のもと連続する安易の唾を吐いていた。

ドストエフスキー『賭博者』

小説・エッセイ・戯曲
10 /03 2020
  主人公アレクセイ・イワノーヴィチの語りによって展開する小説で、彼は文字通りの賭博狂だ。作者ドストエフスキー自身も賭博にのめり込んだ時期があり無一文になったそうだから、作者自身がモデルなのだろう。博打によってあっという間に大金を手に入れるその快感が忘れられないどころか、負けつづけてもなお執念が持続する。というのか、その渦中にある興奮状態が人生の他の行為によっては決して体験できない何段階も上の高揚感覚があり、また真逆の地獄に落ちる頽落感もあって、主人公はその両方がたまらなく好きなのだ。賭博にも計算や理論めいたものがあるだろうが、彼はそんな類には目もくれず、ただただ勘に頼って盲滅法にルーレット版の数字や赤・黒に張る。彼は人一倍傲慢なのだがその傲慢さは無一文になっても擦り減ることはない。のめりこむと人間ではなくなるという言葉があったと思うが、それを重々納得しながらも、わずかな金が手元にあれば賭博場に足を運ぶのだ。当然ながらたまには勝つことがあるからでもあるが、勝って、病者から一気に人間に戻るということも視野にある。傲慢さがますます募って行く。ドストエフスキーとはそういう人であり、腸を手づかみで取り出して見せつけられたような印象がある。賭博狂に共通する性向を語るのだろうが、債務不履行で刑務所暮らしをすることにもなるのだから、主人公は並み外れている。
  アレクセイ・イワノーヴィチにはストレスが溜っている。ポリーナという女性に恋焦がれていて、彼自身が彼女に語るように彼女のためなら何でもする、命じられたら塔から飛び込んで死ぬこともできるというのだ。「奴隷状態」を自負するのだ。ポリーナもまた彼に劣らず傲慢で、彼のプロポーズに好感をもつどころかそっけない。笑い転げたり憮然としたりして馬鹿にした態度を取りつづける。そのくせルーレットで稼いでくれと金を渡して頼んだり、某ドイツ男爵夫妻を侮辱しろと命じたりし、彼はそのとおりやってのける。何のための金か、侮辱か、行き届いた説明はポリーナから一切ないにもかかわらず。さらにフランス人のデ・グリューやイギリス人の「ミスター・アストリー」などが彼女に言い寄っているという疑いも彼は抱いている。
  書きおくれたが、舞台はドイツのルーレテンブルグという架空の都市で、イワノーヴィチは「将軍」と呼ばれる退役将校一家の家庭教師で、ポリーナは将軍の義理の娘で、幼い弟と妹がいる。彼等ロシア人は旅行中であり、フランス人女性の「マドモワゼル・ブランシュ」や先に記したデ・グリューも同行している。アストリーも同行に近い位置にいる。将軍は借金まみれで、資産がデ・グリューの抵当に入っている。将軍はマドモワゼル・ブランシュと結婚したいと思っていて彼女もその気がなくはないが、金の問題が立ちはだかっている。デ・グリューも勿論それを解決してもらいたい。そこで一行が期待するのが将軍の義理の母(ポリーナにとっては実の祖母)の死による遺産相続で、病気がちの祖母のもとへ実情を探るために何回も電報を打つ。将軍のみじめさがロシア人だからかくわしく書かれ、周辺人物の金への露骨な執着ぶりも描かれるが、総じて共感をもたせる人はいない。この問題で冷静さを保つのはイワノーヴィチとイギリス人くらいで、部外者だからだ。
  前半のさらに前半部では、イワノーヴィチとポリーナの一向に楽しくない、恋愛とも思えないぎすぎすした会話と、先に記した某ドイツ人男爵夫妻へのイワノーヴィチの侮辱行為とその後の顛末が描かれる。つけくわえると、彼は夫妻に近づいて行ってドイツ語で「わたしはあなたの奴隷たる光栄を有するものです」と言ったり、ドイツ人のものまねをしたり怒鳴ったりするのだ。この程度が侮辱に当たるのか、おそらくは身分上の上下が関係するのだろう。男爵夫妻の抗議を受け入れた将軍はイワノーヴィチを馘首し、さらに将軍の意をくんだデ・グリューが男爵への謝罪を彼に要求するが、彼はああでもない、こうでもないとドストエフスキーの他の小説の特定人物において見られるようにながながと理屈をかさねて断じて応じない。この作者らしい特徴が表れているが、どちらかというと地味で「死にかけ」のはずの祖母が付き添い一行に車椅子に乗せられて将軍一行に前に姿を現すところから、勢いが増してくる。
  祖母マリヤ・フィリーポヴナはポリーナをかわいがる一方、将軍には遺産を渡さないと明言してがっかりさせる。さらにはイワノーヴィチがなぜか贔屓で、彼に賭博場を案内させ、魅入られる。ここからはフィリーポヴナの無茶苦茶なルーレット勝負が延々と描かれる。賭博の様子は映画などでさんざん魅せられたので食傷気味だが当時はその描写が新鮮だったのだろうか。祖母は「0」という35倍の払い戻しがある滅多に出ない数字に次々と大金を張ってこれがほとんど大当たり、ビギナーズラックである。だが2日目、3日目となると同じ賭け方をして持ち金を全部なくしてしまい、憔悴し、健康をふたたび悪化させたのか、ロシアに帰ってしまう。将軍、デ・グリュー、マドモワゼル・ブランシュらの祖母の金の激しい増減にはらはらし混乱し、一喜一憂するさまは笑えようが、悪印象のほうが強い。祖母が持参した金をすっからかんにしたので将軍の一向は離散の危機に見舞われる。
  ストーリーを追うことに汲々となっているが、まだ三分の二を過ぎたくらいだ。ドストエフスキーがこれでもかこれでもかと読者の頭にいっぱいに詰めこもうとするので、こちらも食い下がろうという気にさせられる。
  ポリーナがイワノーヴィチのホテルの部屋に単身で来て相談をもちかける。デ・グリューから将軍にたいする担保証書の五万フランを彼女は贈与されて、その処置に困惑している。どうやら以前はポリーナとデ・グリューは恋仲であったらしいことがここでわかり、その延長上でなおデ・グリューはその気持ちを持続させようとするのだが、ポリーナは冷めてしまっている。また自分の部屋にポリーナが来たことに「愛」を感受したイワノーヴィチである。彼はにわかに情熱を滾らせ、賭博場へ急いで、短時間のうちに見事に二十万フランをせしめる。そうしてポリーナの待つホテルの部屋にとって返すがポリーナは金を受け取らず、ミスター・アストリーの後を追うと告げて姿を消す。ポリーナはわたしには難解だ。金を渡されて男に膝まずくことが、プライドが許さないのか、イワノーヴィチが賭博狂で「人間でない」ことを忌み嫌うのか。言葉も不明瞭だ。それでいてイワノーヴィチへの親近感は消失しない。後々にアストリーから彼女はあなたを愛していたと告げられてイワノーヴィチも読者もわずかな光明に逢着するのだが。
  ポリーナに去られたばかりではなく、賭博はたとえ勝利しても朦朧状態に陥るらしく、無自覚と無感動にイワノーヴィチは支配される。ポリーナをも忘れがちになる。このままだとまた賭博にのめりこんで無一文になるからという理由でアストリーに即刻のパリ行きを勧められ、マドモワゼル・ブランシュに籠絡されて、持ち金を全部巻き上げられ、彼女とのパリでの短期間の同棲が始まる。つまり、周囲の人の言いなりになるのだ。
  ブランシュのもとを去ってからも彼は故国ロシアには帰らず、ドイツの某町での単独暮らし。そこでも賭博にのめりこみ、負けて窮乏するが賭博に懲りることはない。なんとしても彼はおそろしいほどに自己肯定するのだ。「人間ではない」ことに。将軍やマドモワゼル・ブランシュはその後どういう運命をたどるのか、ポリーナは何処へ行ったのか、ストーリーはこの後もつづくが……。
  本作は「罪と罰」などに見られるような政治や宗教、国家体制にまつわるテーマは出てこない。ドストエフスキーという人の賭博狂としての一面を赤裸々にみずから暴き出すという意味では私小説的といえるのかもしれない。

seha

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