FC2ブログ

北杜夫「谿間にて」「夜と霧の隅で」

小説・エッセイ・戯曲
09 /15 2020
  台湾の卓社大山という山の頂上付近で、標本が世界でわずかしかない「フトオアゲハ」という蝶の採集に悪戦苦闘する男を描いたのが「谿間にて」。戦中に当たり、それを旧制高校性の青年が戦後まもない頃偶然にその長話を聞かされて、青年が自分の言葉にして書き記すという形式になっている。青年は長野県の高校の生徒であり昆虫採集の趣味があるというから北杜夫自身がモデルと思われる。二人とも昆虫好きであることがわかって意気投合する部分があった。
  採集者の男はそのときの目的は高山植物採集だったが、もう一つのあわよくばの目的が珍蝶の捕獲であり、それを発見したので俄然欲望を燃えたぎらせる。以前は蒐集家との契約にもとづいての採集を行っていたもののそれでは報酬がかぎられ、珍蝶をじかに蒐集家に売れば途方もない金になるのだ。
  台湾の山岳部の気候変動の激しさに驚かされる。導入部が春まだ浅い上高地付近の山深い川沿いの道だからその対比が効果をあげている。昼間は直射日光の容赦の無さ、森や植物や蝶の「原色の絵具」のような色彩のどぎつさ、それに体力を消耗させる剣呑な山の上り下り、何度も発生する濃霧。夜は夜で正反対の急激な冷え込みが体をさいなむ。男は狩猟小屋で一夜を明かしてから重い腹痛に見舞われ、もしかしたらマラリアに罹患したのではないかとの疑心が生まれる。それでもぎりぎりの執念というべきか、珍蝶捕獲を男は諦めることはない。
  話者の男、筆者の青年、そして読者の一人一人。映画ではないからそれぞれ思い浮かべる風景は異なるだろうが、筆者と読者は同じ言葉を共有している。そこでは風景や天候の急変にもとづきながらも風景や天候そのものではなく、喜怒哀楽や驚嘆、恐怖、倦怠、朦朧などさまざまな感情と身体のうねりに読者は言葉に一体化するように身を沿わせようとする。手応えの生々しさに出会えることが読むことの醍醐味だろう。雷鳴と雷雨の描写が凄まじい。
 

 突然、頭の上で空気がひきさけた。青くひかる電光がうねうねと横ぎり、同時に森林に叩きつける号音が爆発した。金属がはじけるような、なにものをも引裂かずにはおかぬ音響で、どれほど雷が間近であるかがわかるのだった。きなくさい臭いが鼻をついてきた。大急ぎで三角缶などの金属を投げだす。それからはもう雷鳴の乱撃であった。台湾山地の猛烈な雷はやはり内地では想像もつかない。高いところにも落ちれば低いところにも落ちる。一度に何箇所にもつづけざまに落ちる。だから彼の前後左右は間断なく電光がうねり、まるで爆撃機の絨毯爆撃のように凄まじい破裂音がとどろいた。ときどき肌にぴりぴりする電流を彼は感じた。そればかりか足元で水がしぶき、突風が吹きぬけると雨水がそれについて横ざまにとぶ。後方の崖からも水が流れおちてきて坐ることもできない。またひとしきりの雷鳴。


  見事な描写だ。この猛烈な雷と水と夜の急変する寒さが男を震え上がらせ、昨夜来の腹痛にくわえて悪寒と微熱を起こさせる。衰弱しながら狩猟小屋にたどりついたものの、極度の疲労状態で、怪鳥のような巨大な蝶に頭上から襲いかかられる幻覚にも見舞われる。だが男は翌日も山頂めざして出かける。下山したい気持ちも十分につのりながら、蝶を取りたいという気も、自分が何をしようとするのかも不明瞭なまま、ただ足が意識と無関係なように歩みを止めない。やがて男はついにフトオアゲハを捕獲するのだが……。
  筆者(当時の青年)はこの通りに男が話したのではないと、何回か断りを入れる。話が自慢たらしく野卑な面もうかがえ、純朴な昆虫好きの青年と比べて、男は出世欲と名誉欲にとりつかれている。そこが青年に共感を十分たらしめないところだ。だが男の悪戦苦闘と執念には、青年にも引き込ませるものがあったのだ。
  「夜と霧の隅で」は敗色濃いナチス時代の地方の精神病院を舞台にして、重苦しい。ナチスではユダヤ人を対象とした絶滅収容所があまりにも有名だが、精神障碍者の一部もまた法律にもとづいて死に追いやられた。冒頭の場面では障碍を持った幼い子供たちがトラックに詰めこまれて痛々しい。
  親衛隊の軍医がやってきて「不治患者」の拠出を命じるが、医院長はじめ医師たちは正面切って逆らえないものの暗鬱さを抱えこむ。言うまでもなく医師の使命は罹患した患者の心身を健全な状態にもどすことであり、長期療養であっても根気良さがもとめられる。中途で投げ出して死に追いやることは倫理に反する。まして精神病理の分野は今日においてさえもまだまだ未解明な部分が多く、「不治者」を選別することなど不可能ではないか。そんななか医師ケルセンブロックはそれまでの職業的態度を急変させる。それまでの彼は患者との親近感や信頼の醸成にはどちらかというと不熱心で、死んだ患者の脳組織を標本にすることに喜びを見いだしていた。ところが「不治者」なる患者をおめおめと国家組織に売り渡すことに義憤を感じたのか、治療に情熱を傾けはじめる。それも従来の治療法に大胆さをくわえた、言いかえれば乱暴ともいえる手法を独断でもちいるのだ。            
  北杜夫は精神科医でもあるからこの辺は知悉している。インシュリン注射してしばらく昏睡状態にしてから葡萄糖注射をして覚醒させるという療法のもと、ケルセンブロックは昏睡時間を以前よりも長引かせる。あまり長引かせると昏睡から覚醒できない怖れがあることを知りながら看護師の疑念をふりきって強行する。さらに筋肉組織にしていた薬の注射を頸動脈に打ったりもし、このときの患者の獣そのもののような痛みの反応は読んでいて引いてしまう。また脳組織に針を挿入するロボトミー手術、等々。北はつとめて冷静に書こうとするが医師の狂熱ぶりは十分に伝わる。この医師の治療は一部をのぞいて成果をあげることはできなかったが、そのはげしい焦慮と行動には、屈折してはいるがささやかな抵抗の灯がともっていると読めた。
ケルセンブロックの療法によって一時的に回復したのが日本人のタカシマ。ユダヤ人の妻が自殺したという情報に触れて精神を病んでしまい、回復したのちふたたびその事実に向きあうもののさらに悲しい結果が待ちかまえている。本人にとっては「正常」よりも「狂気」のほうがより安定的なのかもしれない。くわえて、日本人が登場することでこの小説との距離がより近くに感じる効果をももたらしている。
  ナチスの「安死」や「優性遺伝保護」(=劣勢遺伝排除)の思想を近代合理的といって賞賛する医師もいて、こちらのほうが当時は多数派であったのだろうか。残酷性と特異性を抱えきれないくらい目いっぱいに抱え込んでしまった時代であった。

スポンサーサイト



筒井康隆『家族八景』

小説・エッセイ・戯曲
09 /05 2020
  火田七瀬は十八、九歳で、お手伝いさんとして短期間ずつさまざまな家庭に住み込む。七瀬は「テレパス」(精神感応能力者)なので、家族同士がどんな感情を抱いて接しているのか、手にとるようにわかる。勘をはたらかせたり、さらに裏付けをとったりする必要なく、同時進行的に、家族が他の成員にどんな意識を抱いているのかが目の当たりにできるのだ。言葉では、やさしさ、いたわり、遠慮であったりするものが内心はまったく逆で、憎しみ、軽蔑、猜疑、もっと極端になると殺意であったりする。彼等はたとえば浮気願望に支配されていたりすでに実行したりしているのだが、配偶者にばれることを怖れ、ばれたとしても離婚をしようとはせず以前と同じく「一家団欒」を装うことをえらぶ。世間体を何より優先するのだ。言葉と心が絵に描いたように正反対なところが筒井康隆らしく、漫画的・ギャグ的であるといえようか。しかし、家族同士がバラバラである状態を多くの人が自覚するのだとしても、これほどの戯画はないだろう。迷いや曖昧さや理想にもどそうとする修復努力もあり、もっと複雑ではないか。そういう複雑さは排除されてこの作品は成立している。ということで、ここに描かれたバラバラ状態には苦笑以上の意外性や深みはない。
  文体の特徴をとりだせば、例えば「紅蓮菩薩」の一場面。女学生と浮気してから帰宅した大学教授の夫・新三に妻の菊子は、それをなかば知りながら「遅くまで、お疲れだったでしょう」と微笑とともに上品にねぎらいの言葉をかける。

  「ああ。若手には学会の雑用ばかり命じられる。ろくに研究する暇がない」(今夜の明子はいやに激しかった)(おれの気持ちが離れていくことを勘づいて、それを食いとめようとしているのだろうか)
  (女のことを考えているんだわ)(今、女を抱いた時のことを考えているわ)(考えながらご飯を食べているわ)(あの顔)(どんな顔をして女と)(どんな娘だろう)<中略>(その娘が、よそで喋ったりしないだろうか)(別の男がいるに決っているからその男に)
  (明子)(よそで喋らないだろうか)(男の学生とも旅館へ行っているようだ)(男の学生ともよく話している)<中略>(多摩子には、男はいない)(多摩子の方が安全)


  「 」内が表の会話で( )内が、七瀬に直に伝わってくる夫婦それぞれの本心ということで、スピーディーだ。他の篇も同じ調子。妻は夫が女学生と浮気をしていることを知っているものの家庭の破綻を回避するために知らないふりをしつづける。演技が板について近所でもその上品さが知られるくらいで、夫の方も妻にとっくに浮気がばれていることを知りながら、それを会話に乗せず、むしろ妻の演技に胡坐をかく形で浮気をつづける。両者のこのままの状態がつづけば、とくに菊子の怒りが頂点に達することを危惧する七瀬だが……。この篇がいちばん悲惨な結末を迎える。
  「無風地帯」は、主婦・咲子の荒涼とした心が七瀬のテレパシー(精神感応)に伝わってきて彼女を慄然とさせる。咲子は夫や子供にお手伝いさん以下の家畜並みの扱いをされている。ああしろこうしろと言われればその通りに動くしかなく、自発性はまったく奪われた状態でしかもそれに抵抗もせず諦めきっていて、自覚症状さえない。こうした主婦一人の隷従が家庭をかろうじて支えている。
  「澱の呪縛」は家屋の内部全体が耐えがたい異臭を放つという話で、しかも十三人の大家族のだれもがそれに気づかず、七瀬が懸命に掃除をしてからはじめて気づかされる。よその家にいってちょっとした異臭を感じたことは誰にでもあるのかもしれないが、ここまでは体験した人は少ないだろう。しかし全くありえないことではなく、その意味では現実的だ。無計画に子供をつぎつぎに産んだ兼子は家の片づけにはおそろしいほど怠慢で、洗濯物は山積み、食器類は水につけたままで放置されている。夫の浩一郎が兼子にやさしすぎることも一因だ。子供達も馴れきっていて、靴下や下着を共有することも平気で家のルールだと思っている。異臭に無自覚なのも勿論のこと。だが、エロ雑誌を見つけられた高校生をはじめ一家のほとんど全員が七瀬の清潔化を感謝するどころか迷惑がる。異臭をはじめ家の恥を晒されたことの立腹と、それを近所周辺にふれて回りはしないだろうかという警戒心だ。彼等は彼等なりの団欒を楽しんでいたのだ。あわてて辞職する七瀬。この篇がいちばん記憶に残るだろうか。
  「水蜜桃」は定年退職を早められて家でごろごろする主人・勝美からレイプされそうになるという話。通常はテレパスであることをひた隠す七瀬だが、このときは非常手段としてあからさまに勝美に彼が今何をしようとしているのか、伝達する。男はひとり言をいっているような、七瀬に欲望をすっかり読まれているような不安に落とされる。激しい衝動とその直後に予定される行動には必ずしも言葉がともなわず曖昧さが含まれるのかもしれないから、それを言葉で明瞭化することで当人を揺さぶることが可能かもしれないとは思う。だがテレパスなるものは、わたしからみると空想でしかなくその能力を行使して他者に「読まれている」ことを伝えることは、空想にさらに空想をかさねることで、面白いとは思えない。もっとも、こういうハチャメチャが筒井康隆のファンにとってはたまらないのかもしれないが。
  「日曜画家」で七瀬が関心を寄せるのは主人の竹村天洲で「水蜜桃」の勝美とよく似た俗物的人物だ。有名で売れっ子だった父と比べて、同じ画家志望でありながら天州の絵はあまり売れず、サラリーマンをしながらの文字通りの日曜画家であり、そんな彼を妻や息子は普段からなじりつづける。七瀬は天洲に同情するがこれがとんでもない誤解であることが判明する。テレパスは通常は言葉で伝えられるが、ここでは天洲の内部が抽象画が得意な彼らしく、すべて図形で表示されて七瀬の誤解を生む。ハチャメチャでかつ結構こみいった書き方で、筒井ワールドなのだろう。

seha

FC2ブログへようこそ!