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コレット『青い麦』

小説・エッセイ・戯曲
05 /30 2020
  フィリップは十六歳半で、ヴァンカはちょうど一歳下。この若い男女の恋愛模様が夏休みのブルターニュ地方を舞台に描かれる。彼等の家族が親しく、フィリップが生まれたころから毎年同じ貸別荘で過ごしたことから二人は仲良くなり、やがて相思相愛を意識するようになる。彼等の家族もそれを知っていて、将来の結婚も許容するようだ。だがほぼ近い場所にダルレーという成熟した女性が現われて、フィリップは魅了されて肉体関係を結んでしまう。ヴァンカはまもなくそれを知ってしまい、憤懣と憔悴の底に突き落とされる。二人のつきあいはなおつづくが……。
  なかなか読み進められなかった。翻訳がぎこちないところが散見されるからなのか、それだけではない。感情の起伏と心理の変遷を細やかに描き出すところがこの小説の狙いであるようだが、わたしはこの年代から随分ととおざかってしまっていて、中断して、彼等と同年齢の自身を思い出す作業にふりむけさせられたのだし、またわたしには彼等に相当するほどの恋愛経験もなく、手が届かない部分が大いにあった。細やかさが頭に届いたと思うと、砂が指の間からこぼれるように忘れてしまう。それに感情と心理の描写に必ずといっていいほど伴う風景描写がわずらわしいのだ。天候とその変化に応じるような海の表情の変化、砂浜や岩、生息する小さな魚介類、別荘の敷地に植えられた花々、野生の草花等。二人の内面の説明とそれにさらに加えて象徴させる意図が作者にあるようだが、もっと省いてもさしつかえないのではないか。だから、作品に密着できなかった者の感想文になる。  
  十代なかばの二人の恋愛はほぼ完璧に仕上がっていて、二人もそれを明瞭に意識する。だが結婚にはまだ早く、とくにフィリップには「バカロレア」(大学入学資格試験)が当面待ちかまえていて、それだけではなく、就職その他、大人になるための関門をいくつも越えなければならないのだ。それに十五、六歳の今が絶頂なら、やがて恋愛感情は少しずつ衰退するのではないかという不安も頭を擡げてくる。ヴァンカが死にたいとフィリップに思わず漏らすのは、本気ではないにしろ、こういう杞憂のせいだろうか。
  フィリップがダルレーに惹かれるのは性的本能が根底にあるからと思われるが、本人にはそうした意識はない。またヴァンカとの関係の重苦しさから逃れたい、充実はしているものの狭く、他の世界ものぞいてみたいという欲求にもつき動かされるのではないか。ダルレーの外観の妖艶さに圧倒されることが予期以上で、なかばわけのわからないまま誘われるままに肉体的快楽を経験させられる。だがその快楽はダルレーへの愛には結びつかない。ヴァンカとの付き合いをつづけたい気持ちには変化はないうえ、ダルレーは快楽を与えてくれるものの、またダルレーへの執着は募るばかりだが、人格としてのダルレーという女性は「謎」だ。謎のままでよく、興味があっても感傷的なものだ。快楽そのものとその神秘性への執着は根強いが、それは自分自身へのたまたま押し広げられた世界への興味であり、それを与えてくれた女性を「愛」によってどうこうしようという意図とは別物だ。成熟した女性との愛は、ヴァンカとの愛よりも途方もなくとおいものだ。性的快楽は神秘であるもののダルレーとをつなぐ部分的パイプでしかなく、この「部分」にのみフィ、リップは執着し、圧倒されるということだ。
  ダルレーは数回のフィリップとの交渉をかさねたのち別荘地を去る。フィリップはダルレーとの仲を清算しなければならないと考えていたので呑み込むしかないが、やはり追憶は断ちがたい。ヴァンカとのつきあいもつづけたいが、それはヴァンカの気持ちしだいであることもフィリップは承知している。それにフィリップは不安定な気持ちをヴァンカに和らげてもらいたいという欲求も自然にある。これはにわかに恋人になった男女の間では図々しいことはなはだしい欲求になるが、子供のころからの友達意識が、励ましあい慰めあってここまできたという土台があって、無意識にそうさせるのだろう。ヴァンカは勿論それをなじるのだが。
  二人の恋愛は成就される。ヴァンカがフィリップを放したくないという強い意志があったからで、フィリップは救われる。だがフィリップはヴァンカを愛するものの、一方では性的本能に囚われてダルレーを忘れることができない。人にとって禁欲的志向を完璧に成就することは困難で、作者コレットもそれを認めている。ヴァンカにとっては「純愛」だが、フィリップにとってはそうではない。だが、だからこそというか、フィリップはヴァンカへの愛をよりいっそう深く刻み込むために「堕ちてしまおう」と念じてセックスを成し遂げる。
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seha

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