FC2ブログ

吉村昭『ポーツマスの旗』

>吉村昭
03 /29 2020
  日露戦争終結後、外相小村寿太郎は全権となって講和条約締結のためにアメリカのポーツマスにおもむきロシア全権のウィッテとの交渉に臨んだ。その一部始終を中心とした小村の苦闘が描かれる。
  条約の中身についてはネット上にWikipediaその他で解説されているのでここでは全てをくりかえさないが、日本の要求する十二項目のうち大部分はロシア側に受け入れられた。韓国をロシアの影響を排して日本の保護下に置くことや、ロシアの清国内租借地の遼東半島旅順やロシア所有の東清鉄道南満州支線のおよそ南半分の日本への譲渡という重要要求がかちとられた。これによって朝鮮半島と満州地域でのロシアの支配と影響を排除することができた。上々の戦果であろう。のこった二項目が賠償金支払いとすでに日本の占領下にあった樺太(現サハリン)全土の日本への譲渡であったが、ロシア側は皇帝ニコライ二世や戦争継続派の強固な姿勢のため頑なに拒否しつづけた。もはや交渉を打ち切って戦を再開するしかないかと小村は想定し、闘志をふたたび奮い立たせつつ、本土の桂首相以下の決定を仰いだが、本土ではさらなる財政負担や戦況判断などによって、以降の戦争継続にたいへん悲観的で、二項目要求をとりさげてでも締結するよう小村に指示した。小村も残念ながらそうするよりないとあきらめていたところ、皇帝の方針変換によってロシア側から樺太南半分を譲渡する旨の回答があった。ロシアの悲観派の意見や大衆の広範な反政府デモによる国内政治情勢の不安定、さらにはアメリカ大統領やドイツ皇帝による意見具申がロシア皇帝に影響したものとされる。交渉のはじまりから結末までの過程に息詰まるものがある。
  小村寿太郎はロシアの譲歩によって条約締結にこぎつけることができた。胸を撫でおろしたのだろうか。だがあらたな苦難が本土日本で待ち受けていたのである。二項目要求を貫徹できなかった小村を新聞ははげしく非難し、その影響もあってか「東京騒擾事件」と本書で呼ばれる大衆による大規模な暴動が起こった。日比谷公園での条約締結反対派の集会にはじまり、派出所や警察署が襲撃され放火される個所もあった。警官だけでは押さえきれずに軍隊まで出動するありさまだった。小村の留守をあずかる家族の住む外相官邸も例外ではなく襲撃の憂き目に遭い、小村は国賊呼ばわりされた。
  小村の活躍ぶりは以後も記される。一気に大国にのしあがった日本を警戒するアメリカとの親善に注力する一方では、伊藤博文などと連携して韓国、清国への圧力を着実に強化していく……。
  先にも記したが、わたしが知らないだけで、ほとんどはこれまで知られていることだろう。特色といえば小村と随行団の一行の横浜出航にはじまって十二日後のアメリカ到着、シアトル、ワシントン、それに最終目的地のポーツマスなどの町の風景や交通手段の描写が結構念入りにされていることだ。戦争終結を願うのだろう市民の日本の外交団へ歓迎ぶりも見落とせない。そこかしこで日の丸旗がふられ、読んでいて思わずうれしくなる。交渉会場となったアメリカ海軍工廠や宿泊ホテルでの小村以外の人物の動きも事細かに追われる。やや退屈ではあるが、また百年以上前の出来事でありながら臨場感をあたえてくれる。小村一行とともに旅をしているような。
  満州事変以降の日本の歩みとはちがって桂や小村以下、このときの政・軍中央は戦の行く末について冷静な判断を下すことができ一致団結できた。やみくもに戦争継続を主張する陸軍を政治家がもてあますという体ではなく、吉村昭も当時のこうした国家中央のありように好感を抱きながら書き進めたのではないか。

スポンサーサイト



森鴎外『青年』

小説・エッセイ・戯曲
03 /15 2020
  小泉純一は作家志望の青年で、Y県(山口県)から上京してくる。大学進学はしなかったが、地元の神父のもとでフランス語を勉強してかの国の小説をはじめとする書物をよむことができる。つまりは知識人たるべき素養を有している。しかも家庭は裕福で十分な仕送りがあるので、あくせく働く必要はなく「高等遊民」の身分でいられる。また彼は美形であり、近づいた女性に好感が持たれることが少なくない。有名作家を訪ねたりしたあと、植木屋が提供する借家に居をかまえて書き物をはじめようとするが……。
  純一をとりまく人物群のなかで大村荘之助と坂井れい子が重要人物である。大村は医学生でありながら文学・思想の造詣が深く、純一は惹かれ友人になる。作家たるもの因習を打破して思想的基盤を築かねばならないという思いの純一にとって大村の意見は大いに参考になり賛同するところが少なくない。個人の自立を確立することを優先するとともにそれが決して利己主義に陥ってはならないとする「利他的個人主義」の主張で結ばれる。親孝行も国家への忠義も盲目的であってはならず「領略」してのちに捉えなおさなければならず、そうすると情死も戦死も「利他的個人主義」の価値の一環として肯定されるという。西洋の思想家や作家について豊富に論じられてあって、教養不足のわたしにはついていけない部分があるものの、厭世主義を排する保守主義というべきか、ことさらの違和感はなかった。勿論、保守主義といっても今日的印象であり、明治という時代の自由の空気のもとで新しく考えられた「利他的個人主義」にちがいない。
  ただ大村という男、二十歳前後にしては不自然に教養がありすぎると思えるのはわたしの僻みだろうか。そうでないならばここには当時四十八歳であった作者森鴎外の知識がありったけちりばめられているのだろう。純一の先導役として不足はないのだ。
  それよりもより興味を惹きつけられたのは純一と坂井未亡人との短い間の関係だ。二人は芝居見物での劇場で隣同士の席になってすぐさま知り合いになる。翻訳劇であったので坂井未亡人が純一に説明をもとめて純一は応答することができた。それがきっかけで坂井れい子は文学全集が豊富にあるからと純一を自宅に誘い、肉体関係が成立する。和服についてはこれも知識不足で映像が浮かばないが、十本の指すべてに指輪がはめられていることひとつとっても生活の潤沢ぶりが窺える。だが純一が惹かれたのは裕福さではなく、れい子の放つ瞳の魔力で、たあいない会話や会話そのものの内容とは無関係にその瞳の暗いかがやきが純一をたえず誘うように思えたからだ。れい子の自宅においても「愛の詞(ことば)」はまったくなくくだんの瞳によってれい子のほうから唐突に関係がつくられる。
  純一は悦んだのだろうか。そうとばかりはいえない。れい子の宅を辞すときラシーヌという作家の文学全集一巻を借りてきたから返さねばならず、そうすると再び関係をもってしまいかねず、今後のれい子との関係をどうすべきか、つづけるべきか、悩む。一種の思考訓練だ。純一は恋愛を当面はしたくないと思っている。無職の身であり創作に打ち込まねばならないからという禁欲的意志だろう。れい子にも「愛の詞」がさらさらないので、そうすると色欲のみの世界になりかねず、純一がそれを望めば好都合だが、そこまで割り切ることもできない。堕落するのではないかという危惧をもつからだ。れい子という女性のフリヴォル(仏語=軽薄)も一方では気に入らず、彼女に見下され籠絡されつづけるのではないかという屈辱感もある。「ヴァニテイ」(仏=虚栄心)「ジグニテイ」(仏=尊厳。品位。正しくはディニテ。注解より)「フイエルテエ」(仏=誇り。自尊心)などという言葉が原語綴りのままふりがなを打たれて記される。自主的に作った関係ではなく、れい子の真意もわからず、魅力を感じながらも十分に好きになることはできない。それならば何も決めずにいたままのほうがむしろこちらの自由を一時的にも確保できるのではないかなどと純一はあれこれ考えてみる。だが結局は頭を悩まされ、ふりまわされることが煩わしくなって「本能の策励」(性的衝動)が思考を上回って再びれい子宅を訪れることになる。「本能の策励」は当面の関係にむかうものの純一を無意識裡にれい子にたいする独占欲を芽生えさせずにはおかないようだ。また独占欲が水泡に帰したとき、その結果が理知であらかじめ予想されてはいても、やはり嫉妬が頭をもたげずにはいられない。性的本能とはそういうものであることを教えてくれる。
  お雪さんという女性も純一に好意を寄せる。植木屋の娵(よめ)の知り合いで、裕福な家の娘さんだ。純一と同じくらいの年齢で、何回か純一の部屋で会話をする。坂井れい子と接するときよりも純一は緊張せずにはいられない。最後の逢瀬の場面では、純一はお雪さんが全くの無防備であることを悟る。

  (略)お雪さんは自分を見られることを意識しているということに気が附いた。(略)なぜかというに、この娘が人の見るに任す心持は、同時に人の為すに任す心持だと思ったからである。人の為すに任すと云っては、まだ十分でない、人の為すを待つ、人の為すを促すと云っても好さそうである。(略)
  純一はこう思うと同時に、この娘を或る破砕し易い物、こわれ物、危殆なる物として、これに保護を加えなくてはならないように感じた。今の自分の位置にいるものが自分でなかったら、お雪さんの危ういことは実に甚だしいと思ったのである。


  鴎外は、同じ出来事を純一の日記として微妙に角度をかえて分析させる。巧妙だ。

  そのとき己(おれ)は我自制力を讃美していて、丁度それと同時に我自制力の一角が破壊せられるのに心附かずにいた。一たび繋がれては断ち難い、堅靭なる索(なわ)を避けながら、己は縛せられても解き易い、脆弱なる索に対する、戒心を弛廃させた。


  お雪さんと関係をもてばおそらくは恋愛に発展するだろうし、結婚にもたどりつくかもしれず、そうは純一はなりたくないので「自制力」を発揮する。と同時に坂井れい子への自制心をゆるめる。れい子への執着のほうが強いことを自然に自覚する機会になったのだ。れい子とはいつでも別れられるという思い(=「脆弱なる索」)があるからでもある。
  畏友の大村に対して純一は男が貞操を維持するのは健康に害がありやなしやと問いかける。ここでわたしは首をかしげた。大村はちょっと方向が自然にずれて壮大な応え方をするが、純一の問いが「精神」ではなく何故「健康」でなければならないのか、坂井れい子のことをあからさまにはできないにしても「精神」の害に関してならばもっと問題に近づく応えを大村はしてくれたのではないかと思った。
  純一は冒険の要素は少しはあるにしても安全な橋を渡った。そこに懊悩はあるにせよそれほどの深刻さはなく、わたしは青春の思い出の一ページという以上の感懐を抱くことはできなかった。


seha

FC2ブログへようこそ!