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森鷗外『雁』

>森鴎外
02 /16 2020
  恋愛が成立するためには男女の出会いが必要だが、そこで恋愛感情が兆したとしてもなお会いつづけなくては恋愛は発展せずにとぎれてしまう。わずかな出会いがありながら、男の側の事情によって会いつづけようとすること、つきあいを始めることが断念される。そういう話だ。わたしたちにもよくある(あった)ことだろう。男の心にわずかな煩悶をのこしながらも波風をはげしく立たせることはなく、女にとっても小さいながらもうつくしい青春の思い出となるだろうという余韻をのこす。
  岡田は医科大学(現在の東京大学医学部の前身)の学生で、実直な人柄で周囲から信頼されている。ボート部の選手でありながら勉強もおこたらず、規則正しい生活をおくる。そんな岡田の散歩の決まったコースが無縁坂という道で、若い女性が裁縫を習うために集まってにぎやかな仕立物師(為立物師と表記)の家のとなりに、ひっそりした家があって、若い美しい女性が住んでいる。格子戸の前で、岡田の下駄の音に気付いてふりかえったり、「肘掛窓」を開けておもに岡田が道を歩みすぎるのを待っている。岡田はいつしか無意識に女にたいして会釈をするようになる。女はお玉といい、高利貸しの末蔵の愛妾だが、岡田はこの出会いのはじめは勿論その名も身分も知らない。ただお玉のうつくしさが印象に強くのこって幻惑される。
  語り手は同じ大学の岡田の先輩でしかも同じ下宿に住んでいる友人という立場で、岡田の人となりや散歩の話からはじまって、まもなくお玉や末蔵の家庭事情を描く客観描写に移行する。これが中ほどの大部分で、語り手がふたたび登場人物として友人の岡田に接する描写は中ほどより後だが、多くはない。この行ってもどっての語り手(書き手)の移行が巧みであると思った。
  お玉は母を早く亡くして、飴細工を生業とする父に育てられた一人っ子で、周囲から結婚を勧められてそれを果すが、じつは巡査のその男には妻子がいたことが判明して破綻。次には口利きの老婆の斡旋で末蔵の妾になることを承諾する。自分一人の意志よりも老齢の父の生活を楽にしてあげたいという思いやりによるもので、娘を手放したくないという父の心情も分かったうえでのことだ。女中付きの別々の借家をあてがってもらったお玉は、父ともども満足。だが末蔵が高利貸しであることを知って衝撃を受ける。その妾というありかたが世間から蔑まされることに屈辱を覚えるものの、父にはあえて相談せず、末蔵をなじることも普段通りの丁寧な応接ぶりを変えることもなく、上辺の平穏さを維持しつづける。処世術を身につけるのだ。だが一方では末蔵への恩義をしだいに忘れ、妾の身分で生涯をおえることに飽き足らなさを感じるようになる。家の前の道を往来する岡田を意識しはじめるのだ。

平生妻子に対しては、チラン(暴君=仏語、千葉俊二注解による)のような振舞をしているので、妻からは或るときは反抗を以て、或るときは屈従を以て遇せられている末蔵は、女中の立った跡で、恥かしさに赤くした顔に、つつましやかな微笑を湛えて酌をするお玉を見て、これまで覚えたことのない淡い、地味な歓楽を覚えた。


  末蔵の、料理屋でのお玉父子との初対面のときの描写。「地味な歓楽」とは仕事での業績があがっていくときの興奮ではない、美女を前にしてゆったりできるまさに「これまで覚えたことのない」歓びであって、金銭が金銭以上のものを望外にもたらしてくれる結果だ。同時に殺伐とした家庭生活との対比もされている。末蔵から見て、以後お玉はどんどんきれいになっていって彼は満足この上ないが、それはお玉の岡田への恋心が芯になっているからで、この自惚れによる誤解も作者は書かずにいない。
  お玉と岡田が急接近するのは、お玉の飼っていた鳥籠の紅雀が蛇に襲われたときで、岡田は鳥籠に侵入した蛇の首をお玉から借りた包丁で、隣の仕立物師の女性たちに囲まれるなかで切り落としてやる。だがお玉は礼らしいことをできないうちに岡田は去ってしまう。再会の折にはこちらから言葉をかけようと決意するお玉は、末蔵の出張の機会に女中にも実家に帰らせて単独での自由を確保する。

一体女は何事に寄らず決心するまでには気の毒な程迷って、とつおいつする癖に、すでに決心したとなると、男のように左顧右眄しないで、オヨイエエル(馬車馬の目隠し=仏語)を装われた馬のように、向うばかり見て猛進するものである。思慮のある男には疑懼(ぎく)を懐かしむる程の障礙物が前途に横たわっていても、女はそれを屑(ものくず)ともしない。それでどうかすると男の敢えてせぬことを敢えてして、思いの外に成功することもある。
(中略)
きょうはどんな犠牲を払っても物を言い掛けずには置かない。思い切って物を言い掛けるからは、あの方の足が留められぬ筈が無い。わたしは卑しい妾に身を堕している。しかも高利貸しの妾になっている。だけれど生娘でいた時より美しくはなっても、醜くはなっていない。その上どうしたのが男に気に入ると云うことは、不為合(ふしあわせ)な目に逢った物怪の幸いに、次第に分かって来ているのである。して見れば、まさか岡田さんに一も二もなく厭な女だと思われることはあるまい。(中略)それにこっちでこれだけ思っているのだから、皆までとは行かぬにしても、この心が幾らか向こうに通っていないことはない筈だ。


  こういう女性の姿勢と心理の変化、猪突猛進を決意するまでの描写は、わたしたちがすでに知識として繰り込んでいるところかもしれないが、近代の小説として書かれたのはかなり早い時期に当たるのではないか。
  しかし、これ以上に交際が発展することはない。岡田は三人連れでお玉の家の前を通り過ぎて、お玉が声をかけられなかったからだ。また岡田には在日ドイツ人の推薦によってドイツでの就職先がきまりかかっていた。官費留学の道が不確実であるとき、岡田がそれを選択したのは自然だっただろうし、そのためにはお玉のことを諦めずにはいられなかったのだ。
  お玉やその父や末蔵の人物像が緻密に描きこまれていて感心しなくもなかったが、厭味さが粘りつくようにも感じた。とりわけ末蔵の家庭内でのいっこうに動じないある種堅固な生活態度、つまりお玉の存在を知って半狂乱になって食ってかかる妻にたいして言葉巧みにいなしつづける姿勢には共感できなかった。金に物をいわせて美女を愛人にする、そういう欲望がわたしにまったくないといえば嘘になるが、同時にはばかりやためらいもある。しかし末蔵にはそんな気配はまったくなく、金持ちならそれくらいはやってもいいという成功者の傲慢さがありありと見える。しかもこの高利貸しに費やす描写が多く、岡田やお玉がかすむくらいである。


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ヘミングウェイ『武器よさらば』

小説・エッセイ・戯曲
02 /02 2020

  第一次世界大戦についてもっとも早い時期に書かれた長編小説のひとつといわれる。
  アメリカ人フレドリック・ヘンリーは対オーストリア戦の前線地域に中尉(テネンテ)としてイタリア軍のなかにいて、四人のイタリア人運転手を部下にして、傷病兵運搬車の差配をする。たとえば、待機地帯を設営し、最前線で負傷した彼等を運び別の車輛(後送車)に引き渡すという任務を遂行する。そんななか、ヘンリーは仲間とともに塹壕で待機している最中に迫撃弾に被弾して両膝を負傷し、みずからが病院に運ばれる立場となる。一方、その以前から病院で知り合い恋仲になった看護師キャサリン・バークレイとの交際がますます深まってキャサリンは妊娠する……。
  一人称・現在進行形で書かれるので、微小といえる個人の立場からは戦争の全貌を俯瞰することができず、そのことは苛立たしさよりも諦めをヘンリーに促すように読んだ。ただ与えられた任務を過不足なしに遂行することに注力し、余暇や休暇は酒や女性(キャサリンと知り合う以前)を楽しむことで過ごす。自然なニヒリズムといえようか。(酒は病床にあるときも欠かさない。たてまえ上は禁止らしいが、大目に見てくれる看護師や兵隊仲間もいる)
  いつ終わるとも知れない戦争は兵士たちに厭戦意識を蔓延させる。イタリア人だからイタリアの勝利を願うことは当然としてもそ
の見通しを持つ者は皆無で、徹底抗戦を主張する者はいず、「愛国主義者」とヘンリーに見なされる者もごくわずかだ。敗北してもいいから早く故郷に、家に帰りたいと願う兵が大半だ。ヘンリーと仲間や友人との雑談にそれらがよく表現されている。戦争のさなかに何年も身をおいていると、それまで体験したことのない実に嫌な気分に支配されるという。ざっくばらんな対話のなかにその気分がいきなりのように放り出される。思想としてまとめられて語られるのではないから、かえって真実味が増す。
  ヘンリーの神父との会話も興味をひく。神の加護を説き、神への愛をすすめる神父にたいしてだれも心からは共感しない。いつ果てる命かもしれないと兵士は諦めているからで、ときには女性に接しない神父をからかって憂さを晴らすのだが、神父の神父ゆえの役回りも兵士たちは理解するようで、ヘンリーもその立場だ。だがキャサリンとのつきあいを深めていくなかで、神父の言葉に惹かれていくヘンリーでもある。

「神を愛すべきです」
「だれかを愛するってことが、ぼくはあまりないんだな」
「ありますよ」神父は言った。「あります。夜の語らいで、あなたが話したこと、あれは愛ではありません。あれは単なる情熱であり、肉欲にすぎません。愛するときは、そのために何かをしたいと思うものです。犠牲を払いたいと思うものです。奉仕したいと思うものですよ」
「だれかを愛せるとは思えませんね、ぼくは」
「いや、愛せます。きっと愛せます。そうすると感じるはずです」
「いまでも幸せですよ。ずっと幸せだったし」
「それとはまたちがうんです。本当に愛することができて初めて、その意味がわかるんですよ」


  神父の言葉は悪く言えば紋切り型で、誠実さは伴うであろうものの誰にたいしても同じ言葉しか吐かないだろう。だがここではヘンリーはすっとぼける風でありながら現在の心に照らし合わせて神父の言葉にしだいに引き込まれていくように感じられる。キャサリンとの愛の実感はまさしく神父の言う「奉仕したい」気持ちにいちじるしくヘンリーを傾斜させていく。また二人は意見の対立は避けられないながらもいがみ合ったり憎しみを抱いたりするのではなく、率直に意見交換をすることに無理がなく、二人ともそこに快感さえ自覚するので、友人関係にある。別の場面では、当然、戦争の推移にも話題はおよび、神父はイタリア・オーストリア両軍における厭戦意識が発展したのちの終戦に期待する。それはたんなる「終戦」にとどまらず、人類の精神的進化とでもいうべき事態と神父は見なす。そこには神父の宗教家としての少なからぬ情熱と興奮が秘められている。対してヘンリーは敗勢のイタリアはともかくも、勝利目前のオーストリアは決して戦闘を辞めないだろうとの常識的見通しを語る。

「わたしは何かが起きることを期待していたんです」
「敗北ですか?」
「いえ、それ以上のものですね」
「それ以上のものなんか、ないと思うな。勝利は別にして。勝利はもっと始末におえないかもしれないし」
「わたしはずいぶん長いあいだ、勝利を願ってたんですよ」
「ぼくもそうだ」
「いまは、わかりません」
「でも、勝利か、敗北か、どちらかでしょう」
「勝利の価値は、もはや信じていませんね」
「ぼくもそうです。でも敗北の価値も信じていない。そっちのほうが、まだしもマシかもしれないけど」
「じゃあ、いまは何の価値を信じているんです?」
「眠ることですね」ぼくは言った。彼は立ちあがった。


  敗北は戦争を終わらせるには好都合だろうが、勝利は戦争を肯定しさらに戦闘をつづけさせようとする欲望を植え付けるかもしれず、そうなると戦争終結は容易ではない。だが、勝利国にも厭戦意識が定着することを神父は願うように読み取れる。そもそも偶然の結果としての勝敗によるのではなく、戦争終結にいざなうための叡智がどこかに潜んでいるのではないか、という問題意識である。それを知りえれば人類は精神的進化を勝ち取れるだろう。神父もそれをじつは考えあぐねていてヘンリーに答えを求めるかのようだが、ヘンリーにも神父の問題意識は理解するものの神父ほどののめりこみはなく、とぼけた応答をするしかない。ヘンリーは個人として戦争から逃れたいという希望がもっぱらで、キャサリンと一緒にいることがまさにそれに当たるのだが、こういう対話のなかでは照れがはたらいて表には出せないのか。
  後半部分は戦場に復帰したヘンリーの部隊がイタリア軍の総退却に巻き込まれる場面から、ヘンリーの逃避行とキャサリンとの再会を果たしてのちの二人の生活が描かれる。前半部分で、イタリア軍の粛清が雑談でふれられていた。突撃命令に従わなかった兵の部隊十人のうちの一人を有無をいわせず射殺するというものだったが、同質の蛮行がさらに大規模に行われる。つまり、到着地点に待機した憲兵隊によって退却中の混乱のさなか部隊とはなれた将校を同じくつぎつぎに射殺する現場に遭遇するのだ。その前に、ヘンリーは一本道で大渋滞していっこうに進まないことに業を煮やして間道をえらぶが、ここで泥濘にトラックが落ち込んで立ち往生する。後部車輪の泥をかきだし枝を敷いて脱け出そうとするが空回りするだけ。おりしもトラックに便乗していたイタリア兵二人に助力をヘンリーは命令するが、二人はヘンリーが直属上官ではないという理由で命令を拒否し逃亡しようとするところをヘンリーは銃撃する。ごく自然に発生した行為であり、部下の運転手らもヘンリーを咎めることなく、さらにとどめの銃撃を部下が放つ。このあたり行動記述の連続であり、あれこれの考えや迷いがヘンリーによって語られることはなく即断である。戦乱のさなかでは、軍全体においても個人においても人殺しの敷居は自然に低くなる。
  トラックを使えなくなったヘンリーと運転手一行は途中で空き家になった民家に立ち寄りながら徒歩で退却を続行する。一人はおそらくはイタリア軍によって狙撃され死亡し、一人はドイツ軍の捕虜になることを志願してヘンリーらから離れる。ここでもヘンリーはあっさりと許して迷うことはない。そして先に記した憲兵隊が待機する場所に到達し、中尉であるヘンリーは一般兵とは分離されて連行され、そこで問答無用の銃殺場面を目撃して間一髪包囲網を脱け出して河に飛び込む。ここからは暫くはアクション映画を思わせる冒険の連続。木材につかまって漂流し、やがて陸にあがってイタリア兵の目を盗んで貨物列車にとびのりミラノにたどりつく。ミラノにはヘンリーの知り合いがいて、キャサリンの居所を特定できて会いに行く。キャサリンも妊娠中でもあり、看護師を辞めてヘンリーとの同棲生活をはじめ、何か月間かを間借りした部屋で過ごし一冬を超す。だが危機はまもなく訪れる。ヘンリーの逮捕状が出ているという情報をホテルのバーテンが知らせてくれ、ヘンリーはキャサリンを伴ってスイスに逃れるために、その夜大急ぎで湖をボートで数十キロにもわたる距離を延々と漕いで渡ることに成功する。幸せいっぱいのハネムーンをここでも実現させるが、やがてとんでもない悲劇が待っている……。
  ホテルの部屋での会話で、キャサリンが自分の髪を短くすることをヘンリーに提案する場面。この甘さは本物だ。

「きみには髪を切ってほしくないな」
「きっと面白いわよ。この髪にはもう飽き飽きしてるの。夜、寝ているときなんか、すごくわずらわしいし」
「ぼくは気に入ってるけどな」
「短くするのはいや?」
「ああ、いまのままのほうがいいね」
「短くすると、もっと素敵かも。それに、わたしたち、お互いにすごく似てくるじゃない。ああ、ダーリン。わたし、あなたを完全に自分のものにしたいから、自分もあなたになっちゃいたいのよ」
「いまもなってるじゃないか。ぼくらは一心同体だよ」
「そうね。夜はそうだわ」
「夜は最高だな」
「わたしね、二人が完全に融け合ってしまえばいいな、って思うの。あなたにはどこにもいってほしくない。また言っちゃった。もちろん、いきたければいっていいのよ。でも急いでもどってきてね。だって、あなたがそばにいないと、生きている気がしないんですもの」
「きみのそばは絶対に離れないから」ぼくは言った。「きみがそばにいないと、ぼくはだめなんだ。生きちゃいないも同然なのさ」


  この幸せの絶頂にある二人の描写はすばらしいのだが、必ずしも艱難辛苦を乗り越えてきてようやくたどりついたという理由ではなく、性愛そのもののもたらす幸せだとわたしは理解した。戦時であろうがなかろうが、性愛の幸福はだれにでもつかめるチャンスがあり、それを獲得した二人の姿に接することができて、ここでこの長編小説は終わってもいいようにも思えたが、作者ヘミングウェイは残酷な結末を用意していた。戦争のさなかの人物や戦争そのものを描こうとした小説なので、二人の生活にもその惨禍を「上書き」したかったのだろうか。作者の自負がはたらいたのか、長編小説としてのバランスを取ろうとしたのか。
  ヘンリーは率直でかつ剛毅でありながらそれを自慢することもなく、負傷を愚痴ることもない。逃亡に成功してからはキャサリンとの会話において戦争の話を意識的に避け、それがキャサリンにさらに好感をもたらす。ヘンリーのこういう人物像は素敵だ。
  わたしの読み込み不足か、当然ながら土地勘がないこともあって、イタリア北東部の戦争をともなう風景描写がなかなか入ってこなかった。また当時は新しいといわれたそうなヘミングウェイの文体の魅力もさほど伝わってこなかったと記しておこう。訳者高見浩の解説によれば、ヘミングウェイがイタリア戦線に参加したことと看護師と恋仲になったことは事実であったという。しかしフィクションの部分も大いにあり、詳しく指摘されている。


seha

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