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佐野真一『唐牛伝』(一)

政治・歴史・経済関連
01 /02 2020
  唐牛健太郎の名をはじめて耳にしたのは高校一年のときで、日共シンパらしい同じクラスの男子生徒から<右翼から金を貰っていた六〇年安保時の全学連委員長>と、憎々し気な口調で語ったことを覚えている。わたしは当時反日共系学生に好感をもち、のちに某セクトの活動家となるのだが、それを聴かされたときの素朴な印象としては、よくわからないながら、屈折した暗い人生だろうなということくらいでしかなかった。そういう人物が幹部にいたとしても闘争の本質が捻じ曲げられることはなかっただろうとの見通しも持ちえた。それから二年後の一九六九年の東大闘争時、安田講堂に籠城した学生の応援のために唐牛がヘリコプターに食料を積載して屋上に投下する計画があるという情報をセクトの仲間から聞いた。素朴にたのもしく思ったものだ。何年ものちに、その計画はヘリコプター会社が固辞したため実現しなかったことを週刊誌の情報で知ったが、おそらくは公安警察が唐牛の計画を知ってヘリ会社に圧力をかけたのではないかとわたしは推測したものだ。東大闘争のあったその年の後半、わたしは活動家を辞めたが、唐牛に関する情報は週刊誌をつうじてときどきは接することができた。主な職歴だけとっても、北海道で漁師をしたり、コムピューター会社のサラリーマンになったり、最後には徳洲会病院理事長の徳田虎雄の選挙参謀になったりと、わたしのようなおとなしい人間からすれば随分と振れ幅の大きい人生だったかにみえる。
  本書は唐牛健太郎の評伝であるが、わたしが触れてここまで記した数少ない情報はすべて事実だったことがわかった。ただ唐牛氏がすでに他界しているために(一九三七生~一九八四没)本人に直接聞くことができず、また本人の著作といいうるものがなく(委員長当時の集会での演説や後年におよぶ雑誌インタビューや短い「手記」のみ)過去の関連文献の狩猟や周辺の知人・友人へのインタビューを積み重ねて推論をすすめていくしかないという、ノンフィクションの通例か、きわめて根気のいる仕事となったようだ。唐牛の親類筋や関係者のなかには公安警察の聞き込みに辟易した人々もいて、インタビューをできずにひきさがることもあった。ただ、本人が死去したからこそ本人に遠慮なく仕事をすすめられるという利点もあったにちがいない。
  また佐野眞一自身自戒するようにできるだけ著者の主観や思想を回避しようとするために隔靴掻痒の感がなくもない。もっとズバッと書いてくれ、といいたくもなる。だが著者の「主観」も漏れ伝わってくる。佐野自身六〇年代の学生運動体験があるために唐牛に同情的でときには感傷的である。
  唐牛健太郎はブント(共産主義者同盟)書記長の島成郎の強力な推薦によって一九五九年六月全学連委員長になった。それまでの委員長は東大、京大出身者だったというから北大在学中の唐牛の就任は異例だった。このことが唐牛という人の人生を劇変させた。以後デモ隊を指揮し逮捕されること三回に及び、なかでも現場に立ち会った人々を驚かせたのが六〇年四月二六日の装甲車に乗ってアジ演説をしたのちの後方の機動隊の隊伍への「ダイビング」でほかの学生も続々とあとを追ったという。全学連の戦闘性は彼の率先行動によって具現された。六〇年代後半「反帝全学連」委員長となる藤本敏夫は「唐牛の100メートル以内は常に革命的だった」という。女子学生樺美智子が死んだ六〇年六月一五日の国会デモのときは唐牛は拘置所に収監されていた。巻末年表によるとその後の唐牛は六一年一月革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同全国委)に参加、同七月全学連委員長を辞任、六二年五月、革共同全国委を脱退という政治的履歴を刻んで、六三年七月から十一月頃まで宇都宮刑務所に服役。唐牛の政治運動者であった時間はここまでである。
  繰り返しになるが、短い年数であったものの学生運動の先頭者の地位に就いたことはその後の唐牛の人生に大きな影響をあたえたようだ。西部邁は「唐牛は島に上げ底にされた」という。以後もブント幹部をはじめとする運動仲間との交流はつづいたが、運動参加者からすれば彼はヒーローであったことに変わりはなかった。唐牛の二度目の妻となる真喜子の元夫の惣川(そうかわ)修は、妻を「略奪」されたにもかかわらず唐牛にきわめて同情的である。惣川もまた六〇年安保のときの活動家であったので、その共通基盤から導き出された心情や考察がはたらくのだろう。

  「唐牛は、本当はちゃんとした仕事につこうとしたんだ。だけど、全部権力が手を回して、排除した。つまり、唐牛は一罰百戒というか見せしめで、ほかの活動家はみんな大企業に入っていった。そういうところに入れない落ちこぼれとまではいわないが、まだ青春の燃えカスが残っているやつが唐牛のところに来て、もうすがるようにぶらさがるわけだよ。みんな、唐牛と親しいことを自分のステータスにしてね。おれは、それがかわいそうだったし、嫌だった。だって、唐牛が抱えた一番肝心な問題を、誰も関心もっていなかったからね。だから、唐牛は超孤独だった」



  「一番肝心な問題」とは、唐牛自身が以後になすべき何らかの実践をさすのか、それとも唐牛が「後悔」したと自身で語った革共同への参加のことだろうか。唐牛はこれも自身の言葉だが、個人としての政治活動は四・二六の逮捕時で終わったとの実感があった。にもかかわらず、革共同への参加を北小路敏や清水丈男よりも一足早くおこなった。これは彼の周囲に群がってくる学生活動家の迷いにたいして方向づけをしなければならないと慮ったからではないのかと、わたしは推測してみたくなる。政治からは大部分が関心が切れていながらの政治行動だったのではないか。だが彼が革共同をはなれてからも学生運動仲間は依然として唐牛にまとわりついたようだ。唐牛は彼らに確信的な言葉を返すことはなかったとみえるが、彼らをつき放すこともなかった。唐牛自身が模索の最中だったのではなかったか。「全学連委員長」の肩書は,それにつりあうか、もしくは肩書そのものを吹っ飛ばすほどの言葉や実践が実現されなければ重荷になりつづける。「一番肝心な問題」を唐牛自身が明瞭に語ることはついになかった。「自己韜晦」の人ではなかったか。ついでだが、わたしも活動家を辞めてからながく「青春の燃えカス」をもちつづけた。

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