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佐野真一『唐牛伝』(二)

政治・歴史・経済関連
01 /03 2020
  唐牛健太郎の交友範囲はひろく、人によってさまざまな見方がされる。子供や女性にはやさしく人気があったという。某女性によると一目惚れさせるカッコよさがあった。映画会社や政界からの誘いもあった。また大言壮語というか、思いついた行動計画をしばしば披露した。北大の親友の榊原勝昭という人が『唐牛健太郎追想集』という本に寄稿しているが、佐野は
 

 それによると唐牛は、四半世紀に亘って突然現れては「伊勢湾でくるまエビの養殖をやるから餌を探せ」「鹿島の石油基地で消防隊を組織するから、沖田総司なみに一番隊長を務めろ」などと持ち掛けた。さらには、マグロのトローリング・ツアーの企画や、アルプスのスキーガイド学校への入学、津軽海峡のトンネル掘りまで脈絡なく、口にしていたという。


と記す。
  唐牛のこれらの「計画」はすべて実現しなかったが、唐牛なりの親友だからこその楽しませ方ではなかったか。唐牛は酒豪であったので口が軽くなったのかもしれないが、半分ほどは本気ではなかったか、それともたんに話のネタで、聴く親友の反応ぶりをみて楽しんだのか。これはわたしの推測にすぎないが、佐野の次のような推論にひっかかるものを感じるからだ。「この乱雑すぎる好奇心のベクトルは、〝山っ気〟や〝気の多さ〟だけでは済まないアブノーマルなまでの社会への甘えを感じさせる。それが酷過ぎる見方とすれば、唐牛は学生運動を離れて以来、冷静な精神状態だったことはほとんどなかったのではないか。」と記すが、「社会への甘え」は親友への甘えではないか。そうならば、唐牛が「冷静な精神状態」ではなかったという推論にも即座には首肯しがたい。ただ平凡な人ではなかったとはいえるが。
  唐牛はこのような〈縁日の夜店みたいな賑やかさ〉の話をほかの人々にも披露したり、図々しさを発揮したり、友人の結婚式に無頼気取りか仕事着や長靴姿であらわれたりしたが、憎めない魅力ある人と映る一方、人によっては首をかしげさせる人物だっただろう。また晩年近く徳田虎雄の参謀になる直前のことであるが、徳洲会グループの能宗克之という人が、唐牛と徳田の初対面時の会話の現場に居合わせたときの様子を佐野のインタビューにこう答えている。島成郎が二人をひきあわせた。これまで引用した唐牛の人物像とは異なっている。

——ああ、唐牛は聞き役だったんですか。
「唐牛さんは非常に通る声で話すので、余計にそう思ったのかも知れません。自分の国会突入などの話はほとんどされなかった記憶があります。とにかく相手の言うことをどんどん引き出して、包み込むような雰囲気を作り出す人でした」
——唐牛はよく〝人たらし〟と言われます。
「〝人たらし〟というか、自分を押し付けない人でした。自分を積極的に出さないから、自分がないように感じてしまうんだと思います。まず相手を受け入れて、それから自分の意見を言うから、誰でも話しやすかったんじゃないですか(後略)」


  先に引用した榊原の語る唐牛の人物像とは一八〇度ほどのちがいがある。相手によっては接し方を変えるのが唐牛の流儀だろうか。ここには佐野が指摘するところの非「冷静な精神状態」はみられず、自然に好感を持たれるさまがつたわる。一方では唐牛は勇猛果敢の人であったので、それもまたおのずから端々で発露されたであろう。こういう多面的な人柄が、戦前の共産党委員長で「転向右翼」の田中清玄、山口組三代目組長の田岡一雄、日本精工会長の今里広記、徳田虎雄などの面々の「大物食い」を実現させたのではないか。また唐牛は優秀な人であったこともわかる。コンピューター会社ではトップ・セールスマンであったし、徳洲会では徳田の選挙参謀のほか、札幌や埼玉での徳洲会病院設立に奔走し実現に漕ぎつけた。この晩年の数年間にわたる業績は、唐牛の組織者としての才能がふたたび開花した時期だった。北海道紋別での漁師生活は二〇〇カイリ問題が浮上してきて、漁場が狭くなって多くの漁師が撤退を余儀なくされて唐牛も例外ではなかったが、このことがかえって唐牛に幸運をもたらしたといえるかもしれない。 
  捕捉。田中清玄から全学連が寄付を受けていたことが判明したのは一九六三年のTBSラジオの「ゆがんだ青春」という番組で、大反響を呼んだらしく、唐牛も打撃を受けた。だが田中は運動方針に口出しすることはなかった。六〇年当時の全学連の財政状況は逼迫していて、金を貰えるなら誰からでも諒とした。学生の大規模動員を最優先するための当然の方針だったと思え、田中が拠出した金額は全体から見て少額だったという。(児玉誉士夫からも寄付の申し込みがあったが、田中の意見で断ったという。また、佐野はラジオ番組制作者の吉永春子に接近をこころみたが、実現しなかった)田中清玄の企業に就職したことも唐牛にはなんら疚しさはなかったであろう。元全学連幹部の何人かもやくざ組織に世話になった時代があった。惣川のインタビューにもあったように彼等は思うようには就職できなかったためである。
  六〇年の騒動では自衛隊の登場の可能性があった。岸首相が当時の防衛庁長官・赤城宗徳に自衛隊出動の「強い要請」をしたが、赤城はこれを断ったとある。だが実際には練馬の自衛隊駐屯地には戦車五〇台が待機済みで、隊員の武器携行もぬかりなかったというから準備万端だった。またアイゼンハワー大統領の訪日にそなえて児玉誉士夫が右翼団体を東京に総結集させて学生デモに備えるという計画もあったが、大統領の訪日が中止されたので左右の激突は回避された。以前から知られていたことのようだが、わたしは本書をつうじていずれも初めて知った。
  一九八三年に直腸がんが発見され、以後闘病生活に入るものの翌年三月四日に死去。享年四七は短命だ。大酒飲みのエピソードがあちこちに記されており、寿命をちぢめる原因になったことは疑えない。あと何年か活躍できていればさらに声名を高めることができただろう。本書ではほかに、唐牛の北海道紋別での漁師時代や与論島での生活ぶり、さらに唐牛以外のブント幹部だった島成郎や青木昌彦(ペンネーム=姫岡玲治)や北小路敏らの人々の六〇年当時から以後の軌跡までも追求されてあますところがない。死後ではあるが(死後だからこそか)有名人はあれこれほじくりだされてつらいなと思った。

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佐野真一『唐牛伝』(一)

政治・歴史・経済関連
01 /02 2020
  唐牛健太郎の名をはじめて耳にしたのは高校一年のときで、日共シンパらしい同じクラスの男子生徒から<右翼から金を貰っていた六〇年安保時の全学連委員長>と、憎々し気な口調で語ったことを覚えている。わたしは当時反日共系学生に好感をもち、のちに某セクトの活動家となるのだが、それを聴かされたときの素朴な印象としては、よくわからないながら、屈折した暗い人生だろうなということくらいでしかなかった。そういう人物が幹部にいたとしても闘争の本質が捻じ曲げられることはなかっただろうとの見通しも持ちえた。それから二年後の一九六九年の東大闘争時、安田講堂に籠城した学生の応援のために唐牛がヘリコプターに食料を積載して屋上に投下する計画があるという情報をセクトの仲間から聞いた。素朴にたのもしく思ったものだ。何年ものちに、その計画はヘリコプター会社が固辞したため実現しなかったことを週刊誌の情報で知ったが、おそらくは公安警察が唐牛の計画を知ってヘリ会社に圧力をかけたのではないかとわたしは推測したものだ。東大闘争のあったその年の後半、わたしは活動家を辞めたが、唐牛に関する情報は週刊誌をつうじてときどきは接することができた。主な職歴だけとっても、北海道で漁師をしたり、コムピューター会社のサラリーマンになったり、最後には徳洲会病院理事長の徳田虎雄の選挙参謀になったりと、わたしのようなおとなしい人間からすれば随分と振れ幅の大きい人生だったかにみえる。
  本書は唐牛健太郎の評伝であるが、わたしが触れてここまで記した数少ない情報はすべて事実だったことがわかった。ただ唐牛氏がすでに他界しているために(一九三七生~一九八四没)本人に直接聞くことができず、また本人の著作といいうるものがなく(委員長当時の集会での演説や後年におよぶ雑誌インタビューや短い「手記」のみ)過去の関連文献の狩猟や周辺の知人・友人へのインタビューを積み重ねて推論をすすめていくしかないという、ノンフィクションの通例か、きわめて根気のいる仕事となったようだ。唐牛の親類筋や関係者のなかには公安警察の聞き込みに辟易した人々もいて、インタビューをできずにひきさがることもあった。ただ、本人が死去したからこそ本人に遠慮なく仕事をすすめられるという利点もあったにちがいない。
  また佐野眞一自身自戒するようにできるだけ著者の主観や思想を回避しようとするために隔靴掻痒の感がなくもない。もっとズバッと書いてくれ、といいたくもなる。だが著者の「主観」も漏れ伝わってくる。佐野自身六〇年代の学生運動体験があるために唐牛に同情的でときには感傷的である。
  唐牛健太郎はブント(共産主義者同盟)書記長の島成郎の強力な推薦によって一九五九年六月全学連委員長になった。それまでの委員長は東大、京大出身者だったというから北大在学中の唐牛の就任は異例だった。このことが唐牛という人の人生を劇変させた。以後デモ隊を指揮し逮捕されること三回に及び、なかでも現場に立ち会った人々を驚かせたのが六〇年四月二六日の装甲車に乗ってアジ演説をしたのちの後方の機動隊の隊伍への「ダイビング」でほかの学生も続々とあとを追ったという。全学連の戦闘性は彼の率先行動によって具現された。六〇年代後半「反帝全学連」委員長となる藤本敏夫は「唐牛の100メートル以内は常に革命的だった」という。女子学生樺美智子が死んだ六〇年六月一五日の国会デモのときは唐牛は拘置所に収監されていた。巻末年表によるとその後の唐牛は六一年一月革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同全国委)に参加、同七月全学連委員長を辞任、六二年五月、革共同全国委を脱退という政治的履歴を刻んで、六三年七月から十一月頃まで宇都宮刑務所に服役。唐牛の政治運動者であった時間はここまでである。
  繰り返しになるが、短い年数であったものの学生運動の先頭者の地位に就いたことはその後の唐牛の人生に大きな影響をあたえたようだ。西部邁は「唐牛は島に上げ底にされた」という。以後もブント幹部をはじめとする運動仲間との交流はつづいたが、運動参加者からすれば彼はヒーローであったことに変わりはなかった。唐牛の二度目の妻となる真喜子の元夫の惣川(そうかわ)修は、妻を「略奪」されたにもかかわらず唐牛にきわめて同情的である。惣川もまた六〇年安保のときの活動家であったので、その共通基盤から導き出された心情や考察がはたらくのだろう。

  「唐牛は、本当はちゃんとした仕事につこうとしたんだ。だけど、全部権力が手を回して、排除した。つまり、唐牛は一罰百戒というか見せしめで、ほかの活動家はみんな大企業に入っていった。そういうところに入れない落ちこぼれとまではいわないが、まだ青春の燃えカスが残っているやつが唐牛のところに来て、もうすがるようにぶらさがるわけだよ。みんな、唐牛と親しいことを自分のステータスにしてね。おれは、それがかわいそうだったし、嫌だった。だって、唐牛が抱えた一番肝心な問題を、誰も関心もっていなかったからね。だから、唐牛は超孤独だった」



  「一番肝心な問題」とは、唐牛自身が以後になすべき何らかの実践をさすのか、それとも唐牛が「後悔」したと自身で語った革共同への参加のことだろうか。唐牛はこれも自身の言葉だが、個人としての政治活動は四・二六の逮捕時で終わったとの実感があった。にもかかわらず、革共同への参加を北小路敏や清水丈男よりも一足早くおこなった。これは彼の周囲に群がってくる学生活動家の迷いにたいして方向づけをしなければならないと慮ったからではないのかと、わたしは推測してみたくなる。政治からは大部分が関心が切れていながらの政治行動だったのではないか。だが彼が革共同をはなれてからも学生運動仲間は依然として唐牛にまとわりついたようだ。唐牛は彼らに確信的な言葉を返すことはなかったとみえるが、彼らをつき放すこともなかった。唐牛自身が模索の最中だったのではなかったか。「全学連委員長」の肩書は,それにつりあうか、もしくは肩書そのものを吹っ飛ばすほどの言葉や実践が実現されなければ重荷になりつづける。「一番肝心な問題」を唐牛自身が明瞭に語ることはついになかった。「自己韜晦」の人ではなかったか。ついでだが、わたしも活動家を辞めてからながく「青春の燃えカス」をもちつづけた。

seha

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