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丸山健二『ときめきに死す』

>丸山健二
12 /15 2019
  語り手である無職の中年男が、やがてテロリストと判明する青年の身の回りの面倒を数日間にわたってみるという話。
  主人公(語り手)はかつては優秀なサラリーマンで会社からも重宝がられていたが、突然辞職する。会社を後ろ盾にして威張っていた自身に嫌気がさした。というか、もっと自分らしい生き方、自由や自己実現が会社勤め以外にあるのではないかと模索しようとするのだ。しかし、漁師にあこがれを抱いたりもしたが何一つ動こうとはせず、妻にも離婚され、あらたに職にもつかず、ボロアパートで3年を無為に過ごすしかなかった。そこへSという大学時代の同期生が訪ねてきて、潤沢な報酬を約束しての仕事をもちかけてくる。Sとはその時代においては顔見知りという程度で、つきあいを深めたことはなかったから人柄を深く知るのでもない。Sは主人公の身辺を興信所さながら調べあげていて、主人公が離婚してぶらぶらしていることは当然、前の妻の動静も把握している。Sにとっては主人公がもっとも依頼しやすい人物と映ったにちがいない。主人公は呑み込むようにSの依頼を引き受ける。Sを信頼したのではなく、報酬の大きさとやばい仕事かもしれないゆえの「新しさ」に飛びついたのだ。無為の生活からの脱却をそこに賭けようとする。Sは自身の現在の身分はおろか、仕事の背景にあるものさえ主人公に教えず、最初の訪問以後は電話で最小限の指令を連絡するのみだ。
  主人公はSから大金とともに車とリゾート地の別荘風の家屋をあてがわれ、そこで冒頭に記した青年の寝食の世話をするように命じられる。青年を駅に迎えに行ったり、凶器が郵送されてきたりする。青年もまた無口で「仕事」について一切話すことはなく、リゾート客で賑わう湖の周りを走りこむトレーニングを欠かさない。主人公は青年に意志堅固さを嗅ぎとり、最後までの同伴を決意する。青年もまた新たな自分に生まれ変わろうとする「自己実現」を目指しており、当然主人公はそこに自身の願望を投影させる。主人公の青年への畏怖と共感はそこにのみ絞られる。別に青年の抱くであろうイデオロギーを知ろうともしないし、青年の凶行の結果がどんな社会的影響をもたらすのか、何ももたらさないのかにも興味があるのでもない。
  身近な他者になかば共感しながらその行動の逐一につきあいたいという語り手の意志は『三角の山』の語り手とまったく同じである。だが『三角の山』にあった躍動感や焦燥やスリルはこの長編には感じられず、むしろ冷たく、落ち着きがあり、諦念さえ入り混じっている気がする。『三角の山』はともかくも、実際の作者丸山健二は感性の次元は別にして、語り手と同じ行動をとることは欲さないだろう。だからこその架空の話を想像力を駆使して紡ぎだそうとする作家的姿勢だろう。
  主人公の青年への期待と最後まで行動をともにしようとする決意は、大物政治家へのテロの決行日が近づくにつれていよいよ固まってくる。だが無口ながら気丈夫さをみせつける青年のほんのわずかな変調を主人公は見逃さず、一抹の危惧が流入せざるをえない。この主人公の意固地なまでの決意と、青年にたいする冷静な観察眼の鬩ぎあいが主人公のなかで後半以降で露わになる。このあたりが読みどころだ。
  Sの指令によって主人公は青年をその実家につれていく。家族に別れを告げさせるためのSのはからいだが、青年は近づくにつれて見覚えある土地に気づいて落ち着きをなくす。また決行当日のトレーニングのさいには伴走していた犬の姿がみえず、主人公は「予行演習」のために青年が犬を殺害したのではないかと疑う。さらに政治家が到着する予定の厳重な警備態勢で防御された駅に近づく車中では、青年は鼻血をうっすら流す。にもかかわらず主人公は青年を制止しようとしたりはせず、最後まで彼の自己決定を尊重する。前後するが次のような語りがある。
 

 今や私は解き放たれており、確とした答えのなかにいる。もはや八方塞がりの状態ではない。横で眠っている若い男が実は化け物だとしても、私は彼を肯定する。彼が猪突する方向へ私もまたのめりこんで行くだろう。所詮私が私でしかない立場にはうんざりしている。新しい私を見たくてうずうずしている。私が見限ったのは世間などではなく、私自身にほかならない。
  これまでの私がどんな男であったのかはよく承知している。野放図にわき出る小賢しい言葉と、不徹底と、取るに足りない誇りとにはさまれて、結局何もしない男になりさがっていた。挫折と、そのために失ったものがはっきりしているにもかかわらず、認めようとしなかった。挙句に眼もあてられないところまで堕ちたのだ。


  単独でなにひとつ自己決定できない男が、テロを実践しようとする生真面目な青年に仮託して自己解放をえようとする。青年に危惧を抱きながら、一旦下した決意をひるがえそうとはしない主人公の心情の表現だ。文体が落ち着き過ぎているのは気になるところではあるが。
  駅に政治家が到着する前後の時間。青年は傘を買いに行った主人公の前から姿を消す。豪雨のなか警官がぎっしり埋め尽くす駅構内に駆け込んだ主人公は彼を探す……。結末は凄惨で哀れである。何もしてやれなかったという悔いがのこるのか、しかし何もしない、ただ同伴するにかぎるというのが主人公のみずからに課したルールであった。



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イプセン『人形の家』

小説・エッセイ・戯曲
12 /07 2019

ヘルメル (前略)(ノラを抱く)ああ、お前は可愛いなあ。わたしはお前をどんなにきつく抱きしめても、まだ抱きたりないような気がするよ。それはそうとなあ、ノラ、――わたしはときどき思うんだがね、恐ろしい危険がお前の身に迫ってきて、そのためにわた しが命も財産も何もかも投げ出して、お前を救うというようなことにでもぶっつかってみたいと思うんだ。


  ノラはヘルメルの妻。クリスマスの舞踏会から二人そろって脱け出してきたところでヘルメルが甘ったるく言いかける。ノラはヘルメルにとってはうつくしく可愛く従順で、三人の子供を育てあげる非の打ちどころのない妻で、自身も翌年からは銀行頭取の地位が約束されていて、まったく順風満帆である。シャンパンを飲みすぎたせいもあって口が軽くなったのか、それだけではなく現に目の前にいる妻をほんとうに美しく思うからで、その美にも酔っていて、なかば空想混じりのこうした言葉がごく自然に吐露されて、ヘルメルは心地よいことかぎりない。だがこの場合、ヘルメルは出来もしないことを言っていることに気づかない。自分の目標とする人生設計の狭い枠にノラを閉じ込めていることなど想像だにしないのだ。妻でなくても例えば水商売ではたらく女性のなかに素直にうつくしいと思える人に出会えば酔いも手伝って、後先のことをたいして考えずにヘルメルのような言葉をその女性にささやくことだってありえ、わたし自身にかぎってもふりかえると忸怩たる思いがある。水商売に不慣れな女性ならば、誤解をあたえかねない。
  引用した言葉を吐いた直後、ヘルメルのノラにたいする態度が激変する。ノラがヘルメルの目から隠そうとしていた手紙がついに彼の前に明らかにされることになる。クログスタットという同じ銀行に勤める男がヘルメル宛にだした手紙で、そこにはノラの「犯罪行為」が記されていた。ヘルメルが重病に陥ったとき、ノラは医師からイタリアへの転地療養を勧められたがそのための資金がなく、やむをえずノラは夫に内緒でクログスタットから充当すべき金額の金を借りたが、そのさい父に保証人になってもらったものの父もまた当時瀕死状態にあって、ノラは父の署名と日付を偽書するしかなかった。しかもまだ借金はのこっている。「偽署」は裁判所に訴えれば犯罪としてみなされることは必定で、ヘルメルにとっては頭取の地位が危うくなりかねず、今それをはじめて知ったヘルメルは激怒し、ノラを罵倒するところとなる。だがこのときのヘルメルの頭のなかには、ノラの機転のおかげで転地療養することができ自身が回復に向かったことへのノラにたいする感謝の言葉は一言もなく、ここにきてノラのヘルメルにたいする愛は急速に消失する。
  クログスタットの手紙は残金の要求であるとともに恐喝である。それというのもノラの依頼を受けて彼女の友人のリンネをヘルメルが銀行に就職させることが決まって、そのせいもあってクログスタットはヘルメルによって馘首されかかっていたからだ。(ヘルメルが彼をもともと毛嫌いしていたこともある)つまり馘首をとりさげればクログスタットは訴えをしないということだ。しかし手紙の全貌はそうではないことがわかって、もういちどはげしい転換が訪れる。借用証書が同封されていたので、それを燃やしてしまえば証拠はのこらないのだ。(ノラへの友情から、リンネがクログスタットに心を込めての懇願したおかげだ、詳細は省く)ヘルメルは胸を撫でおろし、さらに態度を180度変え、それまで通りの生活を送れることに目途がついて、ノラとの愛情を復活させたつもりになる。だがノラの心は冷めたままだ。
  ノラは「奇蹟」を願っていたという。ノラの「罪」をヘルメルが全部自身に引き受けてノラを擁護することを明言することだ。そのうえで、ノラはノラでそれを辞退しやはりノラが自分一人の罪として背負うことをヘルメルに宣言して返すにいたるまでの決意を固めていた。だがヘルメルからはそういう「奇蹟」の言葉は吐かれなかった。一刻たりとも一緒に居られない思いのノラはただちに家出を決行する。子供はヘルメル家の使用人に任せて。
  ノラの家出は唐突といえばあまりにも唐突だが、父!やヘルメルの可愛く従順な「人形」であれという女性観に不満を鬱積させていたことが最後になってわかる。夫の言いなりになるのではなく、わたしはわたし単独で家や社会のことを考えたいといいたいのだ。ヘルメルらの女性観は男性がもつ当時(1879年の発表)は大多数が所有するものであっただろう。現在もさほど変わっていないのかもしれず、ヘルメルの言は迂闊なところがあったとはいえ、わたしには自然さをそなえたもので、ちょっと同情をそそられなくはない。だが女性とはこういう存在だ。女性の自立や男女平等思想がそこに含まれても含まれなくても、女性が一旦決意したことは梃子でも動かせないのだ。
  ノラは雄々しく、ヘルメルは寂しい。戯曲だから効果をねらって極端性を前面に出したのか。わたしのようにヘルメルに同情し拘泥するとノラの「正しさ」が霞んでしまうのかもしれない。


seha

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