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メーテルリンク『青い鳥』

小説・エッセイ・戯曲
11 /24 2019
  童話そのものの戯曲で、チルチルとミチルの幼い兄妹が「青い鳥」を見つけるために夢の中へとさまよいこむという話。青い鳥は見つけられても地上には持ち帰ることはできない。その代わりに「愛他精神」を無意識裡にふっくらと心地よく授けられて終わる。兄妹は幸福な気分に満たされ、それに奇跡のように夢から覚めてのち一瞬だがチルチルの飼っているキジバトが「青い鳥」に変身する場面がある。
  兄妹は小学生低学年くらいの年齢だろうか。それくらいの歳の子供の「感動」をわたしはいまひとつ共有することができず、ぼんやりした印象を多分に拭えなかった。また第三幕以下の「夜の御殿」「森」「墓地」など意味として理解しようとすれば意外に容易ではなく、再読をかさねた。もっとも夢の世界だから細部の全体が脈絡において緊密につながっているともいえない気もするが。
  クリスマスイブの夜、チルチルミチルは隣の家を窓からのぞきこむ。ツリーが飾られ、馬車がやってきて子供たちが何人も降り、家の中ではテーブルにお菓子がおかれていて、子供たちは好きなだけ食べることができる。一方、兄妹にはサンタはやってこない。つまりひもじさを兄妹は堪えているのだ。そこへ隣のおばさんが訪ねてきて、子供の病気を治すために「青い鳥」をゆずってくれと頼む。だがキジバトは「青い鳥」ではない。そこからが夢の始まりである。おばさんは妖女に変身して、二人に青い鳥を捕ってきてもらうために夢の世界にいざなう。
  「青い鳥」にはお菓子を食べたいという子供個人の欲望を満たすためと、隣のおばさんの子供の病気を治すという人助けのためのふたつの役割がここでは重ねられていて、チルチルもそれを知るようだが、夢に同伴する「ネコ」や夢の中のさまざまな樹木にとっては人間の文明の破壊力として捉えられる。「青い鳥」は自然界の秘密を全面的に人間に教えるもので、それを地上にもちかえられると自然界は人間によってさらに破壊の爪を深く突き刺されることになる。ネコは夢のさらに裏の世界を知っているという風で、人間(チルチル)になつくようなふりを普段はする陰謀家であり、そのために人間に先頭に立って盲従するイヌとともすれば喧嘩をする。ネコや樹木のそうした世界観がこの戯曲の中で「正しさ」として位置づけられているのかは不明で、またチルチルはその世界観を知ることもない。だが夢の世界は子供にやさしい。樹木や獣が二人を殺そうとはするが、どの樹木もためらう。チルチルは獣とナイフをもって格闘するが、妖女から授けられたダイヤモンドを回して危機を逃れる。(ダイヤモンドは場面転換の道具であって、それで即「青い鳥」をみつけられるのではない)
  夢の中にも兄妹のおかあさんが「母の愛」として登場してくる。兄妹には普段見る母よりもより美しく見えてふたりは感動する。「母の愛」はふたりがキスしてくれたりこちらからしてやったりするだけで感動の涙で満たされると言う。〈母親の愛は、いつだって一番美しい喜びなんだよ。〉前後するが「幸福」の精とも対面し、チルチルが「幸福」を知らないというと、「幸福」は自分たちはあなたの家中に満ち溢れていると言ってその他大勢の「幸福」に愉快そうに笑われる。「愛」「正義」「善良」などを糧にして過ごせば幸福はおのずからやってくると言いたげだが、母がきれいに見えるというのはしっかりとした感覚であり、「愛」以下は観念である。感覚が先んじて付与されているのだから道徳的説教ではなく、感覚で身をもって納得させられるのだから「ああ、これが愛というものだ」くらいに自然に受け入れられる。また観念の言葉も未知なままの子供にとっては新鮮に映るのかもしれない。
  「光」が漏らす人間界はいつか終わるという終末論。これはハッとさせられるが、勿論兄妹にはわからないだろう。はるかとおくを見据える宗教観が作者によって短く吐露されているのか。しかし、その「光」が案内する、まだ生まれない子供たちが大挙して住む「未来の王国」はうつくしい。まさにこの世のものとは思えない青々とした光に満ちていて、わたしに強い印象をもたらしてくれた。
  「火」「水」「砂糖」「パン」など家のなかにある身近な品々も兄妹の夢に同伴して、にぎやかな言い争いを繰り広げるが、このあたりがわたしが付いていけなかった部分と記しておこう。


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ブログ復調

日記
11 /17 2019
 テンプレートを変更したおかげで、ブログ表示が正常にもどった。FC2担当者のアドバイスに従った。ありがとうございました。なお、今回は応急処置なので、気に入ったテンプレートを探してみたい。 

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ブログ変調

日記
11 /12 2019
  現在、ブログ右側のカレンダー、コメント、トラックバック欄以下が表示されなくなっています。ブログ運営会社に問い合わせもしましたが、今のところ改善策が見いだされていません。
  ただし、記事題名をクリックすれば右側項目は表示されます。関心のある方はどうぞ。

丸山健二『惑星の泉』

>丸山健二
11 /12 2019
  最後までみだれることなく整然と進行する。舞台は都会からとおくはなれた鄙びた町で、丸山の多くの作品と同じく自然の風景が語り手によって喜怒哀楽を託されて描写される。本作は昭和62年の発表で、丸山健二のデビューからちょうど20年目にあたり、書きなれて久しい時期だろうか、文体が途中で変調をきたすことがなく、さらさらした美文で心地よさはつたわるものの、わたしには不可解さが残った。 
  主人公の15歳の少年は敗戦直後の経済や人心の混乱にもろに巻き込まれて他人から見れば不幸のどん底にたたきこまれるように感じられるが、一人称形式で語られる自分自身はそうでもなさそうで、むしろぼんやりした幸福感さえ漂う。ときどき、章ごとの冒頭で「私は覚えている。」という文が記されて、この話は回想によるものであることがわかるが、回想のために人や物の動きと現在のあいだにフィルターがかかって、そのせいでそういう印象を生み出すということでもなさそうだ。
  戦争が終わって父が南方の島から帰ってくるが、左膝から下を失って松葉杖の姿。母は戦時中から「鳥浜市」の商売人の早川と関係をもってしまい妹とともに面倒をみてもらっている。父は母と面会するが元のさやに戻ることはできず、「鯨町」の森のなかの掘立小屋に住みつき、少年も同居する。つまり家族が半分ずつに引き裂かれる。また、バスのなかで父子の姿を見て同情した「安藤さん」ら5,6人のやくざグループが、少年に仕事の下働きをさせて金品をめぐみ、少年もほとんど彼らの意のままに動き、教師の再三の勧めにもかかわらず、学校に行かなくなる。やくざグループは元売春旅館であった「滄海楼」を拠点に闇物資を流通させて儲け、やがて「滄海楼」再建にまでこぎつける。とこう書くと非行少年そのものだが、すさんだ様子は伝わらず、まるで超然としている。やくざグループにたいしても少年は恐れと有難みをもつが、彼らの芯にあるであろう粘っこいエネルギーには触れたり影響を受けたりすることもない。戦争や家族の離散のためか無口を押し通す父にも、不平不満はあるものの修復不能なほど爆発させることもない。大人びているというか、少年の感情を読み取りにくいのだ。
  少年の幸福感や希望の源泉となるのが、爆撃のために干上がった湖のすり鉢状の底部から滾々と湧き出す泉だ。生活用水を確保する場所であるため少年は繰り返し訪れるが、白砂をしずかに舞い上げ虹色の小魚が気持ちよく旋回するその泉は、少年や町に消滅することのない精気を与えると少年はくどいほど記す。しかしどうだろう、『三角の山』であれほど効果的にふりかえられた山ほどの印象がそこからは伝わらない。
  血が出現する場面が2回ある。彼の母が妹を連れて原野で出産を終えたときに、ばったり少年は出会う。妹の手には血の付いた鋏。たぶん臍の緒を切ったのだろう。それから仔細は省くが、少年がやくざから手渡された小さな袋から小指3本を発見して仰天すること。さらさらした川の流れのような、あるいはまどろみのような進行のなかで生々しい現実に引き戻される気にさせられた。

丸山健二『月と花火』(2)

>丸山健二
11 /03 2019
  丸山健二は一作ごとに主人公を不幸にしたり幸福にしたりすることのできる自在性をそなえた作家だ。わたしたちもそれぞれの局面で幸不幸を味わったり、他人のそれらを聞いたり耳に入ってきたりする。他人の幸不幸については、みずからが非体験であっても想像で触手をある程度までは届かせることができるし、無論できない場合もあるが、丸山の作品の大部分は想像可能な人間の世界が描かれている。また丸山は心理描写において自然や社会の風景を主人公に引き寄せて語らせるのが巧みで、この作者の強みだ。ときには風景描写そのものが作者の目的であって、登場人物の物語が二の次、引き立て役にみえることすらある。
  「雪折れ」は大雪に閉ざされた家で、男が駆け落ちの約束をした人妻を待ちわびるという話。屋根には押しつぶすほどの雪が積もり、家の周りの杉の枝がつぎつぎと折れ雪崩も心配されるさなか、さらに雪は降りやまないから女は来ないのでないかと読者は予想し、実際に来ないのだが、男は一縷の望みを捨てきれない。密通がやがてばれてしまいそうなので一刻の猶予もないと男は焦燥に身を焦がす。荷物をまとめたリュックをかたわらにして、ときには玄関先の積雪に穴を掘って女のためのつもりで道をつくったりする。愛犬は道連れにできないので殺して穴を掘って埋めた。その犬が夢か幻想か、男と一緒に部屋に横たわっていたりする……。切羽詰まった男が狂っていく短い過程がある。丸山健二は長野県大町市に住むというから大雪は身近な光景だろう、雪の描写には迫真性がある。
  「河」は交通事故で奇跡的に助かった男がいいしれぬ幸福感にひたるという話。家族をつれてのドライブの最中、男は居眠り運転をして山沿いの道路のカーブを曲がり切れず、あやうく崖下の河に転落するところだったもののガードレールのおかげで車は停車した。病院に運ばれたがやがてもうすぐ退院という時期になって、男は近くの食堂で腹を満たす。羊の肉と鯉の素焼きにビールというメニュー。山裾からせりだした崖の上の野外のテーブルに落ち着いて腰をおろす男。男の幸福感がどこからくるのか、男自身の分析はないが、心身の核心からやってきて、しかもそれをむやみに否定したくない、長くまどろんでいたいという気分が横溢する。人生の折り返し点で、怪我とはいえ思わぬ休息をえたことからごく自然にやってくる幸福感なのか。わたしも二週間の入院生活をしたことがあるが、身体の軽さを覚えたことを思い出す。そういう暫しの幸福に男は酔いしれたいのだ。食堂は夕刻から夜に移ろうとする。山の稜線が、河が見下ろせる。
  

そこかしこでヒグラシが鳴いている。日没を間近に控え、もしくは、一段と活発になってきている。風はそよとも吹かない。しかし、決して蒸し暑くはない。おそらくいつになく凌ぎ易い晩になるだろう。蚊も飛んでいなければ、ブヨもいない。ここでは早くも夏が去りつつあるのかもしれない。あしたから秋が始まるのかもしれない。


  風景は具体性があってかつ穏やかであるが、風景に魅せられて主人公が幸福感にひたるのではなく、逆に、彼の幸福感の反映であるだろう。他の客がやってくる。壮絶な夫婦げんかの最中の若い男女であったり、野良仕事を終えた地元の巨漢の男であったり。その男はものすごい食欲をみせ、主人公を頼もしがらせる。家族の死を知らせに来た子供も相手にせず酒食に没頭するが、べつに主人公を訝しがらせることもない。若い夫婦もやがて元のさやに納まるだろうとの楽観的な見通しを主人公は無根拠に下す。何もかもを笑い飛ばしたいという主人公の幸福感が反映されるのだ。
  「ヒマラヤの青いケシ」の主人公の幸福度は「雪折れ」と「河」の中間くらいで、わたしたちの大部分と相いれる生活が描かれる。
  三十代なかばの主人公は元登山家で、平凡なサラリーマンには成りたくない、自由な生活をしたいとの願いで、一念発起して登山やスキーやリゾートを目的にやってくる客を目当てに山岳地にロッジを開く。金策や土地や建物の問題をやっとの思いでかたづけたものの客足が思うように伸びずあせる。ローンも七年も残っているという状況。同じように宿泊施設をつくった人もいるが、軌道に乗ったところもあればそうでないところもあり、主人公は後者の立場で、その同業者の中には何人か自殺した者もいる。打開策を考えるものの先立つものが、金がない。土地が売れればいい、このままの状態がつづけば夜逃げするしかない、また自分は登山家としての気魄を決して失ったつもりはない、などとあれこれ思案が渦巻く……。他人の備品を平気で盗んで知らん顔をする地元民(主に老人)にも勿論、なじむことができない。
  そんななか、主人公に唯一の希望、希望ともいえない小さな希望を、慰めをもたらすのが、登山家の友人からもらったヒマラヤで採集した題名の「青いケシ」の種で、庭で蕾がほころびかけた時期のその花をバンガローから見下ろす場面からこの短篇ははじまる。
  後悔しても後戻りが容易でない。かといって変節することもできないという男の渋滞した情況が過不足なく描かれる。起伏が少なくエッセイのような感がなくもないが、わたしたちの生活と通じるものがここにはある。運命なるものは向こうからやってきてきびしく、個人の思い入れではどうにもならない局面がある。だが当然「青いケシ」はわたしたちも持たなければならない。

seha

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