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丸山健二『月と花火』
2019 / 10 / 20 ( Sun )
  丸山健二全短篇集成第五巻『月と花火』には一九七九年から一九八三年のあいだに発表された十四篇の短篇が収録されている。(雑誌号年月による)そのなかから印象に残ったものをとりあげたい。
  「月と花火」の主人公は小さな山村に棲む二十代前半の女性で、都会に移住したがっている。年に一度の花火大会の日、人々は川の土手に集まって花火見物を肴に酒食におおいに盛り上がり、男女関係において度を超す者も出現するというありさまだが、一人女性だけは花火が炸裂する空により近い「二本松」に佇む。花火がまだ知らぬ都会生活を象徴して元気づけてくれるように思える。だが隣には同伴を依頼された親戚のヨネさんという老婆が弁当とお茶を携えられてリヤカーにのせられて居る。その家族は当日温泉旅行に行ったのだが、ボケが進行した老婆が足手まといだから連れて行かなかったのだ。あるいは女性の家族が女性に自由な行動を起こさせないためにその依頼を喜んで引き受けたのか。
  老婆は山村で毎日同じような生活をして一生を終える人の象徴であり、女性はこうはなりたくないと焦る。家族から結婚をせかされることも重荷で、じっとしつづけるならばその運命に呑み込まれることは明らかだ。女性は本を多く読んできて、人生の可能性が田舎暮らしのなかだけにあるのではないことを強く意識するが、明確に目標が整えられているのでもない。女性が故郷で一番好きでたのもしく思えるのが月、とりわけ満月だ。

  月は大きい。何という大きさだ。昇ってからすでにだいぶ経っているというのに、相変わらずあまたの恒星を凌駕する輝きを放っている。これまでわたしはこんなにまじまじと月を見たことがあっただろうか。果たしてほかの土地でもこれに匹敵する月を見ることができるだろうか。たとえ新しい生活へうまく飛びこめたとしても、すべてが順調に運んだとしても、月を口実にしてたちまち舞い戻ってしまうのではないだろうか。同じ盆地で育ったのに、わたしひとりが特別なんてことがあるだろうか。



  女性は自分でも意識できない村人との同一環境下に育ったことからくる故郷への愛着に目を向ける。小さな村への嫌悪と愛着、都会への憧れと不安。「三角の山」や「赤い眼」と同工異曲の感がないでもないが、花火や月やすすき、その他自然描写の巧みさはここでも健在である。
  「夢の火山」と「カラチ」にはこの作者にしてはめずらしくユーモア志向がのぞく。前者は、自然にどっぷりつかりながらの南の火山島での自給自足共同生活という謳い文句に引き寄せられて当地に移住した青年の話。イデオロギーがふりまく幻想と現実生活とのギャップに青年は失望し嫌悪し、脱出願望をつのらせる。組織から粗末な喫茶店の店番にふりあてられて、せめて売り上げをごまかして旅費にあてようとする。観光地の島には若い女性が多く訪れてきて、青年らの生活への素朴な憧れを披露し、青年も同調し得意ぶって説明をしたりもするものの、その無知ぶりに青年は呆れひそかに舌をだす。だが、店に来た一人の女性に「普通の生活とどこが違うの?」と問われてしょげる。酪農や農漁業での自給自足がとうてい不可能で、貧乏に甘んじるか、喫茶店をひらくように都会と変わらない生活を送るしかないことを女性は指摘する。つまり島に行く前にそんなことも知らなかったのかと軽蔑されるのだ。
  「カラチ」はサラリーマンが、飛行機の乗り継ぎが不調で足止めを食ったパキスタンのカラチのホテルで、同乗してきた若い日本人女性に浮気心をくすぐられるという話。その女性には連れはなく、無口で憂鬱そうで、かえって目立つ。ケニアの日本料理店に勤めるためのフライトであるものの、途中で引っ込み思案になった様子。三、四日の足止めの期間中、日本人客は添乗員の引率でバス旅行に出かけるが、その女性だけはホテルに居残り、主人公は添乗員に女性の保護を依頼される。同じテーブルでの食事どき、女性は主人公の足に左足を無遠慮にのせてくる。この大胆さには読んでいて驚き、にんまりもした。丸山健二はこの類のことはあまり書かないからでもある。三十代の主人公は仕事において同僚よりも一歩先んじており、今回の契約に成功すればより上昇できることが確実だ。まして女の問題でしくじった社員を何人も見てきている主人公でありながら、女性に引き寄せられることにあらがえない……。
  女性との交流は多くは書かれない。主人公の順調に推移しつつあるさなかでの動揺と少しの喜びを浮かび上がらせることが眼目とみた。灼熱のカラチ、安普請のホテル、観光客相手にチップをねらってたむろする現地人等の異国の描写がひきつける。
  「夜釣り」は秀作。わたしは釣りをしないが、テレビ映像で釣りのおもしろさはわかるので、実感がまったく伴わないことはない。三十代後半の主人公は野ゴイ釣りに至福を見出す。釣りといっても他人に自慢したり魚拓を見せあったり、つきあいが目的ではなく、むしろ単独者としての充実の短い時間の獲得のため、釣りはある。それどころか本気で人生の頂点にまで位置付けるのだ。野ゴイは食べるために釣るのだから、大きい河のそれは油にまみれていて適しない。釣っても食さず放してやるヘラブナ釣りも性分に合わないなどと主人公の蘊蓄には頑固さがある。生サナギを連日湖の釣り場所近くにばらまいて野ゴイをおびき寄せるのという、こういうことは知らない。で、やはり読みどころは大型の野ゴイを釣りあげる場面だ。人の腕力と魚の全身の筋力との格闘だ。右側の葦の群れに逃げ込まれたら糸がからまっておしまいだから、できるだけ左に誘導しなければならない。しかも姿を見せた鉤をくわえた野ゴイの周囲には仲間の野ゴイが集まっている。たもを片手でもたなければならないが、その時間をまちがえると獲物にひっぱられてしまう。野ゴイは頭を岸ではなく湖に向けているから力を存分に発揮できる。読んでいて心がざわざわする短い時間があって満喫できる。

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テーマ:読書感想文 - ジャンル:小説・文学

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丸山健二『赤い眼』
2019 / 10 / 06 ( Sun )
  二十代前半の女性が自由と自立をもとめて小さな山村から家出をするという話。家出ならば「三角の山」の女性の行為と同じだが、ここでは村民から非難されることを女性がしたからではなく、一見女性の意志にもとづいてのことだ。
  酒乱でときには主人公の女性との間で殺し合いにもなりかねない父が死んでから家族に波紋が起こる。家族は父母と主人公と妹の四人で、父の死が家族に解放感をもたらしたことを女性は一人称の形式で素直に語る。家族の死が「悲しみ」では必ずしもないことは納得できる。父は開拓者として村に移住してきたが、思うようには畑を広げることはできず、おそらくは失敗したのだ。住居は丘の中腹にあり最も近い店まで行くのにも長く歩行しなければならず、風呂も野外のドラム缶で済ませるしかない。つまりは貧乏で、このうだつのあがらない状況が父を酒に溺れさせ、またその悪影響が家族にも深く及んでいるらしいことがじわじわ伝わってくる。家族の連帯や助け合いがこの家族の親からはうかがえず、それぞれが同居するものの単独者でしかないという自覚に子は目覚めさせられるのであろう。耕作に未練をもつらしい母は無口で帰宅すると早々に寝に就くだけで、子からするとまるで存在感がなく小さな虫のようだ。
  葬式もひらかないまま、父の遺体は伯父に手伝ってもらって丘に穴を掘って埋めるという有様。
  だがせっかくの!父の死だったものの、今度はそれを契機にしてか妹が奔放な異性関係に走り、姉は後始末のため親代わりにならなければならない。ミシンのセールスマンも主人公に興味を示すが妹の方に乗り換えようとする。主人公は魅力においては妹に劣るという自覚がある。

これまで私が通過してきた日々は、どの一日を例にあげても私のものではなかった。もはや誰のためにも生きたくなかった。もっと早目にこうすべきだったのだ。誰もが自分勝手に生きている。私も私の勝手に生きなければならない。(p151)


  主人公は刹那的に家出を決行する。何のあてもなくポスターで見た海辺の寂れた小さな町に行き、そこで冬を越すことになる。そこで出会った少年との性愛に暫しの幸福を得る女性ではあるが……。このあたりが本編のいちばんの読みどころかもしれない。人の往来がまったくないといっていい町の一軒家での女性と少年との度重なる逢瀬。はじめは両者ともに好奇心にいざなわれるが、よりのめりこむのは少年で、女性はやがて死んだ父から受けたと何ら変わりない圧迫と嫌悪と恐怖を抱かざるをえない。
  自由や自立といっても一定の収入がなければ成り立たないし、人とのつながりもなければならない。結局は主人公はそのことに失敗するのだが、はたしてこの女性は下手だから世慣れていないからそうなるのか。確かにそういう部分はあるものの丸山健二はそれだけを言いたいのではないと受け取った。人には成人するまでの繰り返しの身体行動がって、心にもそれが染みつく。単独者でありつづける寂しさはあっても馴れがあり、じつはそれが本人の自覚の外で心地よさに結び付く部分があるのではないか、早い諦めが介在するとすれば残念ではあるが。主人公の家出は絶対的なものではなかったのだ。果たして女性は捲土重来を期すのだろうか。
  平坦な筆致で「三角の山」にあった高揚感はなく、作者は筆を抑え気味である。「三角の山」では語り手の姉を応援する姿勢が熱っぽかったが、ここでは一人称形式でありながら作者は主人公に対して距離を取ろうとしていて、冷たさも感じられる。故郷との一番の結びつきであるクロという犬との主人公との関わり合いも愚痴っぽく、「三角の山」における女性と山との関係性ほどには劇的ではない。
  (2019、10,13日推敲)