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大洋ボート

大井川鉄道

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  9月29日,30日と静岡県浜松市、清水市方面のパック旅行に参加した。主たる目的は大井川に沿って走るSLとトロッコの乗車。テレビでたびたび映されるので、一度訪れてみたかったが、満足できた。ただSLとトロッコはすぐにでも乗り継ぎできるようにみえたものの、両者を1日目と2日目にわけたのは、どうなのかなという気もした。



 
 大井川は上流にあるダムのせいか水量は少なく、白砂が眩しかった。砂利や小石など良質のものが採掘できるようで、トラックやブルドーザーなどが河川敷に散見された。

二日目の最初の行程は浜松市郊外の植物園。モネの絵を模したという池があった。最終行程が駿河湾のミニクルーズ。富士山はあいにくの曇り空で見えなかったが、台風の直撃がなかったことはよかった。
大井川鉄道

大井川鉄道

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Genre : 日記 日記
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丸山健二『三角の山』

  4篇の中短編がおさめられていて、最初の「三角の山」が一番の秀作。家出した主人公の姉が9年ぶりに故郷に帰ってくる。そこは小さな山村で、都会で成功して一財産を築いた姉は分教場の跡地を買い取って豪邸を建てる。その日は上げ棟式で、姉に家族のなかでは唯一親近感をもたれている主人公が駅に出迎えにいき、その日一日姉に寄り添って姉やら彼女の登場によって波紋を広げる村の人々の様子が主人公の青年によって語られる。朝一番の急行列車で駅に降り立った姉の外見が印象的だ。<姉が身につけている品々の色は、すべて純白だった。しかも、動くたびに水草さながらにゆらめく、無くもがなの飾りがあちこちで光り輝いていた。ハンドバックも、靴も、全部そんなふうだった。>簡潔な文体で、姉なる人の成金趣味、辺鄙な村には違和感を起こさざるをえない挑発的な服装であることが鮮やかに伝わる。青年にとっても同じ印象で、無口で厚化粧の女がほんとうに姉なのかどうか疑うくらいである。さっそく青年は姉がくれた金によって購入したスポーツカーに彼女を乗せて建物に案内する。
  9年前、彼女は妻子ある男との肉体関係をつづけていたことがばれ、村人の囂囂たる非難の的になった。母親は半狂乱になり、彼女が村から消えてなくなることを青年もふくめて家族全員が願うようになり、彼女も絶食して何日か自室にひきこもってのち、早朝出て行った。寝たふりをして息を殺して彼女の行動を窺う様子がさもありなんという感じだ。青年もおそらくは彼女に同情し父母を軽蔑するものの、何もできない。
    姉が何のために捨てた故郷に家を建てるのか、出来上がったあとそこに住むつもりなのか、姉がほとんど語らないこともあって青年にとってはつまびらかではないが、また青年がどこまで姉によりそい守ることができるかも青年自身不安もありながら覚悟もある。少なくとも、姉には家族や村全体にたいする復讐心が根っこにあって青年もそれを知っている。
  夕刻の上げ棟式は豪勢そのもので、大工にはぜいたくな弁当や酒をふるまい、村民には餅やリング状にくくったコインを投げ与える。それまでの時間、家族や、交際相手だった男のかつて棲んでいた今はすでに全員がひきはらった開墾部落を訪れる。本気で娘を絞め殺そうとする母や半身不随の惚けたふりをするのかもしれない父の描写にもひきこまれる。荒れ果てたかつての自室を再訪し茫然としてたたずむ姉。その他、大盤振る舞いににじり寄る子供たちや出番は少ないものの一人一人の登場人物が姉に示す反応がたいへん鮮やかに描かれる。
  自然描写も簡潔でいい。その日は一日中雨で、ときには霧雨だったり、つかのまの晴れ間があったりするが、その逐一の変化が、主人公の心理を反映したりしなかったり。また地元民によって「三角の山」と呼ばれる山が雲の形の刻々の変化をともないながら、雲に隠されつづける。その山は姉にとっては唯一の汚れない故郷の象徴であり、青年もそれを知っていて気にする。また彼女の帰宅時におけるウソという籠の鳥の鳴き声の不意打ちのようなうつくしさ。このあたりの自然が心にスッと忍び込むようなうつくしさは、丸山健二の得意とするところであろう。それらの姿や音が、場面がせわしなく移動するたびに小気味よく印象に刻みつけられる。
  姉はかつて非難の嵐を浴びせた家族や村民に復讐を果たそうとするのか、それとも投げやりなのか、金の力を信じるのか信じないのか、わからない。だが青年の姉にたいする書かれたかぎりの同情と支援は本物で、彼の充実ぶりに好感を持った。以後物語をつづけようとするならばいくつもの波乱が待ち受けているにはちがいないが、丸山の意図はその日一日で十分に察せられる青年の成長を描くことにあったと思う。
  「満月の詩」は年齢を想像するに20代前半の青年が、資産家の豪華なマンションの管理を土曜の夜から朝にかけてまかされるという話。アルバイトだ。主な役目は電話番で、乱暴な調子で主人を呼び出す相手にたいして留守を告げるというだけ。大きいベッドのある部屋の壁面には同じく大きい風景画がかかっていて、満月下の湖の傍に青年と若い女、少し年上らしい女の3人が枯草の上に座ってくつろいで談笑している。彼らの乗ってきた馬車があり、馬がおり、水鳥が湖に遊ぶ。この絵に青年は魅入られ、夢とも妄想ともつかない世界に耽溺する。その一方で、隣の部屋から何回も電話がかかってきて若い男女の飲み会の参加に誘われる。青年は隣の男を知らないが、彼は青年を知っている口ぶりだ。酔っぱらって下品な口調になった女からも電話がある。どうやらセックスもクスリもできるらしい。
  青年は隣の部屋の男女を嫌っていて、絵のなかの女性に憧れる。また現実の露わなさまよりも妄想の曖昧な世界を志向するというちがい、さらにはグループと単独者の対比もある。だが女性にたいする欲情においてはほとんどちがいはなく、同一といってもいいのだ。青年はやさしくはなく、妄想では絵のなかの男を殺害する。欲情を抑え込めるはずの理性といったものが、いかに頼りないか。妄想の殺害なら許され現実の殺害なら許されない、対社会的にはそうであっても、丸山はそれだけを言いたいのではない。現実から逃れようとして妄想に没入しようとするのではないか、だがその抵抗も強固ではない。青年のなかで現実と妄想の境界が曖昧になるところに興味を惹かれた。
  「夜は真夜中」は中高生らしい少年が主人公。ここでは性にたいする興味に耐えられなくなった少年が、夜な夜な真夜中の街に出て女性を物色する。家族が寝静まってから窓から庭の樹に飛び移り塀を超えて家の近くの街路をうろつきまわる。少年は雑誌や深夜の公園でひそかに交合する男女によってしかセックスを知らず、つまり自分ではしたことがない。どうやってそれを実現するのかの確かな見取り図があるわけもなく、ただやさしい女性がばったり対面してくれて、少年の手を取って黙って公園に連れて行ってもらう。そんな虫のいい、ありそうもない映像が浮かぶばかりだ。少年は後ろめたさをもたないはずもないが、性の牽引力に打ち勝てず、また夜明けが近づくにつれて焦りも高じてくる。今夜も収穫のないまま帰宅しなければならないのか。十代において遭遇するこういう少年の性にまつわる息苦しさが簡潔にしっかりと描かれる。わたしも思い出させられた。
  「風の友」は若い時から家を出て気ままな暮らしをする青年が主人公。今は田舎の小さな町のパチンコ屋に勤める。孤独でひっそり暮らすことが青年は好きで、これは文壇のつきあいを嫌って長野県に住む作者の丸山と重なる部分があるのかもしれない。何の変哲もない川沿いの土手を散歩する青年、川の両側に延々とつづくリンゴの果樹園は暖かいとはいえ冬のさなかですっかり葉を落としていて、緑は土手の道の短い草と対岸の療養所の人工的な樹しかないという殺風景な風景。面白くないのかといえばそんなこともなく、青年は一抹の安らぎをうるのだ。丸山健二らしいさして特徴のない「普通の田舎」が淡々と描かれ、その微かではあるが心地よさがあって散文詩風だ。パチンコ屋の主人夫婦との適度の距離をおいたつきあいにも青年は満足している。
  だが橋の下で昼間から交合していた若い男女に出会い、にわかに友人めいた馴れ馴れしい同一行動が始まり、男に食事をおごってもらう。おれも寂しかったんだと、やはり友人は必要不可欠だと、彼はそれまでの人生を一転して振り返ることになる。わたしにはここから読みづらくなる。例えば、くだんの若い男女の痴話喧嘩がありふれていてつまらないのだ。
  短篇であれ、小説は「展開」が必要なのかもしれず、その一つの手段として不意の他者との出会いを用いることもあるが「夜は真夜中」にしても「風の友」にしても、いかにも継ぎ足した印象が拭えず、前半部(導入部)の単独者としての描写がいいだけに残念な気がした。毎回毎回そう完璧なものは書けないだろうということは察せられるにせよ。

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水上勉『五番町夕霧楼』

  十九歳の少女夕子が京都は西陣の五番町の遊郭「夕霧楼」に身を置くことを決心する。
  夕子は四人姉妹の長女で、母は肺病を患っていて入院費がかさみ、父も衰弱している。家計が成り立たない。そこで父がたまたま「夕霧楼」の主人の伊作を見舞いに訪れていた女将のかつ枝に夕子の面倒を見てくれるよう懇願する。そこは日本海に面した小さな農村で、伊作の故郷でもあり、伊作は京都から離れて隠棲していた。
  かつ枝は夕子に同情し、夕子の美しさにも惹かれて引き受ける。以前のように借金漬けにして娼妓の稼ぎを大部分奪い取る経営方針ではないことを言い聞かせて父を安心させる。
  以後は夕子の身を心配しながら心配りを怠らないかつ枝と、「夕霧楼」の古い客である西陣帯の問屋の社長・竹末との両者の視線をもっぱらにして夕子が描かれる。竹末はかつ枝の勧めもあって夕子の「水揚げ」を引き受ける。夕子の肉体に魅せられた竹末はやがては夕子を二号にしようとの願望にとりつかれる。「犯人像」を作者が直接描かないで、刑事や探究者の推理や詮索によって読者に気を持たせながら語らせるミステリーの手法がもちいられているといえようか。それにかつ枝と竹末のやりとりは当然ながら京都弁で、その上品ながらねっとりした語り口は独特であり、その地の空気を感じさせる。
  櫟田という若い男が「時間花」(泊りではなく、所定の時間娼妓と過ごす)でたびたび夕子の元に通ってくるところから物語が転回する。櫟田は名刹「鳳閣寺」の修行僧で大学生。また夕子の幼馴染でもあり「どもり」のためどんな場所でもいじめに遭い周囲に打ち解けられないという息苦しい運命にある。その境遇を痛いほど知り尽くしているのが夕子であり、同情し、愛情を注ぐ。だが櫟田は寺の修行に身を入れなくなり不良になっていく。かつ枝は夕子の櫟田とのつきあいが不安で不満でもあり、竹末に夕子を二号にしてもらうことを急ごうとする。竹末も嫉妬して櫟田の身辺調査をする……。櫟田の人物像もまた夕子やかつ枝や竹末の語りによって描かれる。
  かつ枝や竹末がたっぷり描かれるので身近に感じることができるが、肝心の夕子や櫟田が貧困の家庭や「どもり」という要因に依拠し過ぎていて、それ以上の踏み込みがあまりなく、やや線が細いのではないか。それでも幼馴染の時代につちかわれた相互の愛情の強固さは印象にのこった。

    11:43 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

山本智之『主戦か講和か』(2)

  43年9月8日イタリア降伏。ドイツも対ソ連戦での前線後退を余儀なくされていた。陸軍がヨーロッパ戦況を注目するなか戦争指導課は「大東亜戦争終末方策」を提出する。同じ題の案が8月と9月と二つあって、後者のなかの「戦争指導方針」では8月案の同項目にあった「独伊と提携し」の文言が消えてアメリカとの単独講和が目指される。「帝国は昭和十九年夏秋の候を期し主敵米に対し必勝不敗の戦略態勢を確立し政戦略の諸施策を統合して自主的に戦争終末の機を捕捉するに努む、……」この後、終末の時期を遅くとも昭和二十一年を目途とするとつづくが、「必勝不敗の戦略態勢を確立し」たうえで講和を目指す「一撃講和論」そのものであり、威勢がよすぎるもののアメリカとの単独講和が案として外部化されたのは画期的といえるだろう。さらに9月16日の「終末方策」では二種類の「対米英講和条件」が記されて具体化される。戦況有利下での「別紙第二」と不利下での「別紙第三」があり、前者では満州、中国等の完全独立や他の占領地域にたいしても「高度な自治」を認めたりするものの資源の優先的取得権は維持するなど、アジア地域全般において戦争によって得た権益を全面的に手放そうとする体ではなかった。これに対して「別紙第三」は陸軍(日本)にとっては屈辱的とも取られかねない思い切った譲歩がなされる。本書では両方の文が引用されているが、「別紙第三」のみ引用したい。

世界終戦の為不利なる妥協をするを得さる場合の媾和の条件
一、 対米英
(イ) 無併合、無賠償
(ロ) 米の四原則の承認
(ハ) 三国同盟の廃棄
(ニ) 支那に関しては日支事変前への復帰
(ホ) 仏印以南の東亜細亜南太平洋地域の昭和十五年九月以前の状態への復帰
(ヘ) 内太平洋の非武装
(ト) 日米通商関係の資金凍結以前への復帰
二、対英米交渉に関連し対「ソ」開戦を回避する為対「ソ」譲歩を必要とする場合
(イ)満州国の非武装
(ロ)北樺太利権及漁業権の返還
(ハ)亜欧連絡の打通


  (ロ)のアメリカの4原則とは、「ハル・ノート」でアメリカが日本に要求してきた領土保全、内政不干渉、機会均等、太平洋の現状不変更を指す。二、(ハ)の亜欧連絡の打通とは、ソ連にたいするアメリカの日本・アジア方面からの援助ルートをソ連に提供するというもので、戦闘中のドイツへの背信行為に当たる。また山本によれば二(イ)の「満州国の非武装」とは満州を実質的にソ連に明け渡すことにつながる。開戦以前というよりも、領土的にはそれよりもより後退した日本の姿が提示され、主戦派の戦争構想とはあきらかに対立するものだった。
  松谷はこの「終末方策」(九月案)を杉山元参謀総長・大将をはじめ陸軍上層部に報告したが、当然の結果というべきか国策には反映されず、9月30日の御前会議では1948年末まで戦争を継続するという主戦派の主張に沿った「戦争指導大綱」が決定された。
  その後も松谷の戦争指導班は戦況の敗退的推移とともに悲観色をより加味した講和案をつくり上層部に報告するもののとりあげられることはなかった。留意しなければならないのは、松谷らの案もまた主戦派の「一撃講和論」に与していることで、戦況を有利に導いたうえでの講和交渉を開始する旨で、はじめから白旗を挙げる体のものではなかったことだ。「一撃講和論」に与するならば戦闘継続であり、その点では作戦課と何ら変わりはない。講和の時期の遅早、戦況に対する悲観か楽観かの相違が作戦課と戦争指導課にはあったが、今日から見ると微差であるかもしれない。また作戦課が大陸戦重視であるのに対し戦争指導課は太平洋戦重視であった。
  ただ1944年1月4日の戦争指導班(この頃は作戦部の作戦課と並立した組織位置から参謀総長・参謀次長の直属組織に編成変えされた。「課」から「班」へ)作成の「昭和十九年度に於ける危機克服の為採るへき戦争指導方策に関する説明」では1944年度中にソ連が参戦した場合「自主的戦争終末を獲得すること至難なるへし」「殊に十九年度に於いて一歩を誤れは国体の護持すらも真に困難に陥るへき危機」と記されたのは注目すべきだろう。のちのポツダム宣言受諾の条件として日本は唯一国体護持を「条件」として返答したのだから、その前触れにあたるのかもしれない。この文案も上層部に報告されたものの黙殺された。
  松谷らの文書提出(報告)はさらにつづくがソ連の仲介と「一撃講和」を引きずりつづけたので大同小異で、限界があった。ただ松谷は以後陸軍内の他部署に説得工作をつづけるかたわら陸軍外の「早期和平派」の人脈作りにも奔走することになる。山本は重光葵外相、松平康昌内大臣秘書官長の名を記す。また陸軍の酒井コウ(カネヘンに高)次中将は反東条的立場であり憲兵の監視下にあったが(予備役から1943年11月参謀本部付に就任)同じく反東条的立場にあった近衛文麿や側近の細川護貞との連携を形成し、やがて松谷とも連携するようになる。松谷や酒井が情報提供をし、それが近衛からさらに天皇の弟の海軍軍令部の高松宮にも伝えられた。こうしてゆるやかな「早期和平派」が形成された。
  44年6月29日松谷誠は東条英機に「清水の舞台から飛び降りるつもりで」(山本)、戦況最悪の場合は国体護持のみを条件とする終戦に向けてソ連を通じての米英との外交交渉を基礎づけねばならないという提案をした。東条はいやな顔をしながらも何も言わなかったそうだ。まもなく東条は松谷を戦争指導班から追放し、支那派遣軍参謀へ転任させ、酒井コウ次も召集解除とした。だが東条内閣が7月18日に退陣し「松谷は一一月には陸軍中央に復活、酒井も民間に下って活動を再開」(山本)する。
  ここまでが本書第二章までの概要で、第三章は松谷の杉山、阿南両陸相にたいする説得工作(無論、陸海軍中堅層にもなされるが)や、悪化する一方の戦況に呼応するかのような陸海両軍の「中間派」(日和見派)の形成が詳しく記される。中間派とは内心は戦争継続困難と思いながらも公的な会合ではそれを口に出せず相変わらず徹底抗戦を主張する姿勢の人物を指し、阿南や梅津参謀総長その他である。強硬派の暴発を未然にするため、つまりクーデターによる特に陸軍分裂を回避するためあえてそういう発言をつづけたのだろう。そして機をみて本音を切り出す。梅津は1945年6月11日天皇に「大陸の陸軍は壊滅状態」との上奏を行い,天皇はじめ漏れ伝えられた重臣層にも終戦志向へのいっそうの傾斜をもたらしたといわれる。45年6月22日、御前会議によってソ連を仲介とする終戦工作が正式に決定された。43年の松谷の案が日の目をみたのだが、いかにも遅い。そして8月9日、14日の二回にわたる「御聖断」によって終戦となる。
  梅津・阿南は御前会議において最後までポツダム宣言受諾に反対した。国体護持の確信がもてないというのが表向きの理由だが、敵の降伏勧告を軍人のトップとして受け入れられないという姿勢が芯に強固にあったのではないだろうか。梅津の長男の梅津美一の回想によると御前会議での抵抗を「『バカ、いやしくも全日本軍の作戦の総責任者として、もう戦争は出来ません、などという無責任な発言が出来ると思うか』と一笑に附された」(『最後の参謀総長梅津美治郎』)大部分の軍団の責任者が敵の降伏勧告にも関わらずに捕虜になることを拒否し、最後まで戦った。その姿勢を陸軍全体で共有しようとする思いが梅津にもあったのかもしれない。
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山本智之『主戦か講和か』(1)

  こちらの方は日本陸軍内部における終戦工作をとりあげている。開戦当初の日本には戦争終了の構想がなかった。つまりは勝利以外の事態はもともと想定外であったようだ。というよりも必勝をひたすら信じて、その類のことを考えること自体が反軍反国家的営為とみなされたのか。太平洋戦争開戦直前の1941年11月15日「大本営政府連絡会議」は次のように決定した。
 

 速に極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に更に積極的措置に依り蒋政権の屈伏を促進し独伊と提携して先つ英の屈伏を図り米の継戦意志を喪失せしむるに勉む「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」(『外交資料 近代日本の膨張と侵略』)(原文ではひらがな部分はカタカナ)


  専門家にはよく知られた「構想」であるようで、近々アメリカとの戦争をはじめようとする時期でありながら当のアメリカのことが日本として直接的に問題にされていないのが不思議だ。ドイツの勝利によってイギリスを敗北たらしめアメリカの「継戦意志を喪失せしむる」というのだからアメリカに対して日本単独による勝利の展望が確固として持てなかったのか、曖昧だ。あるいは戦況有利のもとでの講和を探るという思いが大っぴらにではなく軍部中枢の個々人に抱かれていたのか。ドイツの開戦当初の快進撃に軍部や政治家の一部が幻惑されたことは確かなようで、その後もドイツの戦況は彼らにとって一喜一憂をもたらした。
  わたしたちは歴史の結果を知るところなので必勝を確信し徹底抗戦を貫徹しようとする強硬派のあまりの楽観論に失笑してしまう場面に出会うが、やがては憂鬱に見舞われる。ひどいものだなと思う。著者山本智之によると「バスに乗り遅れるな」を合言葉にする開戦当初のドイツへの羨望には羨望どころか、ドイツの勝利をひそかに<心配>する心理があったという。満州や南方諸島の権益が勝利したドイツによって奪われるのではないかとの焦りだ。その前に戦に打って出なければならないとの、後ろから肩を押されるような決断でもあったのか。
  本書で主人公として擬せられるのは松谷誠(1903~1998)という人で陸軍大佐。1943年3月17日参謀本部戦争指導課(第15課)課長に就任。戦争指導課とはそれ以前からも以後においても名称や組織内部の上下関係を変えながらも、終戦まで戦争終結の研究と上部指導者への進言をつづけた組織で、山本によれば、松谷は陸軍全体から「消極論者」「悲観論者」と見なされていた。その松谷にふさわしい仕事だったのか。その年の2月にはドイツがスターリングラード戦に敗北し、以後後退戦を余儀なくされることになった。3月には天皇が複数の重臣に平和(早期講和)への関心を強く示した。また同月にはバチカンにアメリカのスペルマン・ニュウヨーク大司教、ドイツのリッペンドロップ外相の訪問や、イタリアのチアノ外相のバチカン使節任命などが報じられ、戦争指導課に大きな関心を持たれている。戦争指導課のみならず日本政軍中枢がこれらを講和への動きではないかと疑ったのだろう。独伊と英米が和平したならば日本は単独で戦わねばならないから勝利がとおざかること必至だ。山本はドイツへの疑心が開戦時とは逆方向に向き始めたと指摘する。
  3月以降、松谷らは研究案をつくりつぎつぎと省部会議(陸軍省と参謀本部の合同会議)に提出するが、ドラスチックなものではなく、「主戦派」(好戦的戦争継続派)にも受け入れられやすいものだった。山本によると、松谷らの最初の案は、独英和平、日蒋和平、独ソ和平などの「部分和平」のつぎつぎの実現によって世界戦争終末にいきつくという進捗が期待され、とりわけ独ソ和平の実現とそのための日本政府による斡旋が骨子とされた。独ソ和平やドイツの勝利を期待した陸軍軍人が多くいたので、その意向に沿ったのである。(天皇も「独ソ妥協」に期待していたP83)「終戦研究」といっても陸軍内の公然組織でのことだから反軍的要素は滲ませられないのはやむをえないのかもしれない。当時日本にとって中立国であったソ連にたいする期待はまったく虫のよいもので、独ソ和平のみならず枢軸国陣営への「取り込み」まで視野に入れていたというから驚く。逆にその裏側では陸軍「主戦派」(好戦的戦争継続派)はたえずソ連東部への侵入のチャンスを窺っていた。ソ連という大国をかってに子供扱いしていたのだ。山本によると、先に引用した「腹案」にソ連がくわわって、陸軍中央は「独ソ和解→ソ連の枢軸国陣営合流→英屈伏促進→米国内における厭戦気分蔓延」という勝利の方程式でまとまっていく。このソ連にたいする甘い見通しは何の疑いもなく終戦までずっともちこされる。戦争指導課でさえそうだったのだ。失笑すべきか、呆れるべきか。
  主戦派の牙城は参謀本部作戦部作戦課という部署であり、開戦当時の布陣は作戦部長・田中新一中将、作戦課長・服部卓四郎大佐、戦力班長・辻政信中佐、総合補佐・瀬島龍三大尉などで、田中と服部の二人はガタルカナル戦敗北という背景があって1942年12月に解任されるが、服部は43年10月に作戦課長に復帰する。そのときの作戦課長だった真田穣一郎少将が作戦部長に格上げされる人事となった。山本によると服部は主戦派のエースと目されており、東条英機にも信頼されていた。作戦課もまた終戦研究を独自に行っていたようだが、省略するが、昭和23年を目途とするという楽観的な見通しを立てていた。




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