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大洋ボート

伊勢物語・二十四段

あひ思はでかれぬる人をとどめかね
わが身はいまぞ消えはてぬめる(54)(出典明示無し)
<私の愛に応じてくれることなく離れてしまった人を呼びとめることができず、わが身は今や死んでいくらしい>「かる」は「離る」で去って行くこと。


  出典不明の歌で、この段の四首目にあたる。作者の創作かもしれない。失愛のどん底につき落とされて今にも死に果てようとする悲痛がにじみ出て、単独で十分鑑賞に耐えられる歌にもかかわらず、さらに追い打ちをかけるように作者は他の歌を借用し背景説明をくわえ物語にする。いっそう悲痛さが深まる。
  三年間、仕事のために遠隔地に赴いていた夫が妻のもとに帰って来た。こういうことは当時では珍しくなく、渡辺実によれば、妻に子のある場合は五年後、子のない場合は三年後、再婚することが公に許されていたという。その日はちょうど既に再婚が決まった相手との逢瀬の約束の日に当たっていた。なので戸をたたく元夫を家に入れずに歌を詠んでさしだす。

あらたまの三年(みとせ)を待ちわびて
ただこよひこそ新枕(にひまくら)すれ(51・続古今集)
<三年の間あなたを待ちわびて、ちょう今夜という今夜、他の男とはじめて枕を交すことになっているのです>


  後の展開を考慮すると、これはきっぱりした拒絶ではなく元夫がよりにもよってその日に帰宅してきたことへの狼狽と混乱を内包していると読むべきだろう。ただ夫は妻の心をそこまで汲みとれたかは心もとない。むしろ用意していたかもしれない遠慮や諦め(別離)の境地を追認したのか。

梓弓(あづさゆみ)ま弓つき弓年を経て
わがせしがごとうるわしみせよ(52・出典明示無し)
<夫は必ずどの男と決めねばならないものではないかもしれず、あなたは別の男とでも夫婦として幸福にやっていけるかもしれない。私が長年あなたにしたように、これからは新しい夫を大切にしていきなさいよ>


  「梓弓(あづさゆみ)ま弓つき弓」はどんな弓でも大差はなく、同じように夫たるべきは私でなければならないということではないのだ、と解釈すべきか。ともかくも内心の寂しさを表に出すことなく、祝福の辞を妻に男は贈ったのである。礼儀だろうか、やさしさだろうか、処世だろうか。そうして去っていく男にたいして、ここにきて初めて女が真情をぶつけるように吐露する

梓弓ひけどひかねど昔より
心は君によりにしものを(53・万葉集その他に類似の歌)
<あなたが私の心を引こうが引くまいが、私の心は昔からあなたひとりを頼りにしてきましたのに>
といひけれど、男、かへりけり。


  男に女の叫びが聴こえなかったはずもないが、決断を動かすまいとしたのか。正式に決まった女の再婚を、以後の幸福を破壊することを怖れたのか。女は自身の真情にぶちあたるまで時間を、それもわずかな時間を要した。恋愛における言葉のやむをない行きちがい、意識しようとするまいと、結婚制度という大きい壁が立ちはだかる。以後は残酷である。

女、いとかなしくて、後(しり)にたちて追ひゆけど、え追ひつかで、清水のあるところにふしにけり。そこなりける岩に、および(指)の血して、書きつける。


  そして、最初に掲げた歌となり、女はそこで死んでしまう。歌では女が自死を推量する形になっているが、説明文では即死として断定される。男はその結末を当然知らない。悲痛の感情の高まりが短時間でここまで人を落としこむのか、ありうる気がしてわたしは少し震えた。急転直下、なんとも壮絶な顛末である。




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