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大洋ボート

江戸川乱歩「石榴」「陰獣」

  完全犯罪をやりおおせようとする犯人(殺人者)が巧みにトリックを用いて事件の構図のなかにいる他人に罪を被せようとする。とりわけ推理者であるところの刑事や推理作家の推理=空想を逆用して一段上を目指してだまくらかそうとする。その真犯人の罠に推理者は一度はまんまと嵌ってしまい、自分なりに推理の城を一見合理的にうち立ててみせて、無実の人を犯人視してしまうという構成が二編に共通する。さらに犯人はいずれもサドマゾという変態性欲の持ち主であり、推理や怪奇小説を好み、勿論殺人者だから犯罪志向も強い。こうした犯人の人物像は江戸川乱歩がこれまでにも執拗に書いてきたのだから、その点では新味はないが、構成はより複雑化されている。そしてまた筆がこなれた感があって読みやすい
  「石榴」は、刑事が片田舎の宿に逗留し、そこで知り合った人物にかつて経験した事件を語り聞かせる。事件の冒頭部が乱歩らしい。人家もまばらな町の廃屋で、夜中に灯りがぼんやりともっている。画学生が死体をスケッチしているのだ。しかもその死体の顔は硫酸によってぼろぼろにされて誰某か判別がつかない状態で、まさに石榴が爆ぜたような凄惨さだ。画学生は当然取り調べられるが事件に無関係なことが証明され、やがて被害者は老舗饅頭店の社長谷村氏だと警察によって断定される。被疑者はそのライバル店で同じく老舗饅頭店の社長琴野とされる。二人は恋愛においてもライバルで嘗てあって、現在谷村の妻である絹代を想っていたものの遂げられず、仕事にも身を入れなくなって零落し、両方のことで谷村に怨みを蓄積させた。琴野は事件後長きにわたって行方不明となっている……。
  犯人は完全犯罪をやりとげたばかりか不倫愛によって獲た女性とともに海外逃亡し、整形までやって得意満面だ。しかも間違った推理をして放置したままの刑事に真相を告げてギャフンといわせたいという唯一の心残りも片づけてしまう。なにもかも成しとげてからからと笑う、古いミステリーによく出てくる人物像だ。
  「陰獣」は力作。推理作家寒川が博物館で資産家夫人の小山田静子と知り合う。静子は寒川の小説の読者であることがわかり、二人はやがて懇意になる。寒川にとっては静子の上品な身のこなしと肉体に惹かれたので喜びが隠しきれない。静子は結婚前に平田という男と短い交際歴があり、まもなく平田はストーカーとなって静子につきまとい静子を怖がらせるのだが、父の死を機会に転居してその被害はやんだ。だが平田は静子の居場所をみつけたのか再びあらわれて、脅迫状を送り付けてくる。しかも平田は寒川と同業者の作家、大江春泥の本名であることも判明する。大江は怪奇、猟奇を好む作風で、厭人癖があり、出版社の社員といえどもほとんど会ったことが無く行方はつきとめられない。
  出会いのとき、寒川が静子の和服の肩口からわずかに覗いている項のミミズ腫れにどきっとするところが印象強い。推理者=行動者(この場合は推理作家)が事件の渦中にある女性に惹かれるのも多く例があり、その興味もまた事件の推移と並行して読者を引きつける。
  静子の夫の小山田が変死する。隅田川の汽船発着所のトイレのなかで発見されるのだが、その施設は浮いた状態で固定されていて上流から流れ着いたと考えられる。小山田にたいしても静子同様殺害予告の手紙が届けられていたので、警察も動き出し、大江春泥の捜査がはじまる。ここから寒川の最初の本格的といえる推理がうち立てられるのだが、この部分がわたしには結末にも増して面白かった。「ミミズ腫れ」から推測されるとおり小山田はサド嗜好でありながら、鞭で打擲するという一手段では飽き足らず、覗き見をしたり、大江のふりをして脅迫状を送り付け静子を怖がらせることにたまらなく快感を覚えたというのだ。詳細は省くが、死の真相はあまりに危険な状態で覗き見をしたゆえの事故死と、寒川は推理する。サド、つまりいじめだ。寒川は小山田に嫉妬しているので、こういう妄想(推理)に大胆にもしかもスラスラと流れ着いたのではないかと、わたしは思った。だがこの推理は寒川みずから矛盾に気づいて否定される。
  ネタばれはつつしまなくてはならないが、真相にたどりついた寒川は迷いを抱きながらも道徳を優先する。その結果、自身のありえたであろう未来も「真相の真相」というべきものも「解明」されないままになる。時間が切断されるのだ。この余韻がうつくしい。犯人の大掛かりな犯罪計画にも驚かされる。



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江戸川乱歩「鏡地獄」「芋虫」

  欲望を全面的に実現しようとすればどうすればいいのか。時間と金銭をそこに必要なだけ投入できる境遇があらかじめその人に備わっていればいい。つまりは自由だ。また他人を巻き込む度合いの問題がある。自分の欲望と自由をもとめるあまり他人に被害をあたえて逃げ出されてしまい、それが元で計画がご破算になってはならない。他人を意識しつつも適度な距離を保つことが必要だ。あとは当人の才能とのめりこみの度合いによって欲望の実現も左右される。
  「鏡地獄」の主人公はさまざまな鏡の制作に異様なまでに執着し、実践する。鏡を壁面全体に貼りつける専用の部屋があって、たとえば彼の顔の目や鼻や口やらの部位を可能なかぎり拡大して映し出し、語り手である知人を気味悪がらせ、驚かせる。語り手にとって「彼」がどんな内面の持ち主なのか、偏執者という以上にはわからない。彼には親から受け継いだ莫大な遺産があり、職に就く必要もなく、学校に行かず、好きなだけ鏡の制作に打ち込むことができる。鏡専用の部屋ばかりかガラス工場までつくり職人を雇うというのめりこみようだ。そうした過程が驚嘆とある種危機感をもって語り手によって語られる。つまりは、語り手にとっては「怪奇と幻想の世界」を押し付けられるのだが、それが彼自身にとってどれほどの深刻さと興奮と達成感(終末感)がもたらされるものなのかは不明だ。語り手からすると、彼はしだいに健康を損なっていくようにみえ、破綻が心配される。欲望実現が狂気と死への接近をもたらすのではないか、彼もそれを承知でのめりこむのではないかという心配が語られる。
  はたして彼は満足したのか、他人は彼を偏執者としてつきはなす以上の価値を見出さなくてよいのか。そうではないのだ。心中という言葉が浮かぶ。……細部を紹介するのは控える。
  「芋虫」は強烈な読後感をあたえられる短編。戦争によってこれ以上はないという重傷と後遺症を負いながら生きながらえる元兵(「廃兵」)とその妻が描かれる。両手両足を根本から切断され、顔にも原形もとどめないひどい傷があり、しかも喋ることもできないという惨状だ。「芋虫」にちがいない。妻と意思疎通するさいには鉛筆を口にくわえて紙に記すしかない。「武勲」と「奇蹟の生還」を新聞にはなばなしく書きたてられ凱旋時には親戚・知人はじめ歓迎の嵐を受け、勲章も授与されたが騒ぎがとおのくと誰もたずねては来なくなり、元上官の少将の好意によって、その離れ座敷を貸してもらっての生活をつづけるしかない。この「廃兵」の夫に寄り添って面倒をみる妻を少将はその「貞節」と「犠牲的精神」を褒めちぎってやむことがないが、物語はそこからはじまる。
  妻を夫につなぎとめているのは妻の情欲であることが記される。夫への同情や「貞節」もあるにはちがいないが、それらは側面的要素だと江戸川乱歩は書きたいのだ。夫としての親密性はあるにはちがいないが、それにくわえて「芋虫」の男に襲いかかりいじめるという行為が情欲の亢進を妻に目覚めさせる。性の核は天からの啓示かもしれない。性行為には相手が必要だ。自慰行為にしても相手を幻想することが必要であり、相手のあってほしい姿を探しもとめる。それは行為の直前であっても最中であってもある。着火点がどこかにあってそれを発見できれば、肉体的記憶として刻み込まれ、性行為をくりかえす動因となる。「芋虫」の男性肉体を揺るぎなき性対象とするのは「変態性欲」と呼べるのかもしれないが、性においてはは性という自立的領域が先行して存在し、道徳律は無力なのだ。また、本能という言葉はつかいたくない。性という観念の中心に「芋虫」という具体的像が結ばれる。当人がこのような性の核を獲得したと自覚したならば、手放そうとはしないだろうし、ますます純粋化しようとするだろう。
  <彼女は時々気ちがいになるのではないかと思った。自分のどこに、こんないまわしい感情がひそんでいたのかと、あきれ果てて身ぶるいすることがあった。>
  だが、というべきか、相手は人である。「芋虫」もまた性欲の持ち主であることが描かれるが、その性欲が妻と四六時中一致しないこともある。また人であるから妻の行動に疑念を抱くこともなくはない。それが妻の情欲の亢進を疎外すると妻には見える。こういうときの夫への腹立たしさが悲劇を呼ぶ。夫にも妻にも同情を抱かずにはいられない。
   「芋虫」も「鏡地獄」同様、欲望実現の話であるが、こちらはあきらかに他人を大いに巻き込む。しかし当人にあっては究極的には他人のことなどどうでもいいという思いが両方にあって、「芋虫」にあってはそういう思いが瞬間的に沸騰する。事故ではなく、特異な個人に固着した宿業というべきだろう。

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