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大洋ボート

江戸川乱歩「心理試験」「赤い部屋」「屋根裏の散歩者」「人間椅子」

  何をやっても、どんな職業についても面白くない。なにか面白いことは無いかと自問する。殺人を頂点とする犯罪をやってみてはどうか。やったことがないのでやってみないと面白いかどうか、わからない。だからこそやってみる。少なくても空想してみる。退屈さを打ち破る要素はそこには備わっているのかもしれない。犯罪は他人をおとしめ苦しめる、殺人に至ってはその人の人生を消滅させてしまうのだが、被害者になるであろう人に別に怨みがあるのではない。ただただ手前味噌に犯罪に手を染めて人生を悦楽してみたい。他人が苦しんだり死んだりするのを目の当たりにするのがたまらなく面白い……。江戸川乱歩の初期短編からはこういう青年像が浮かび上がる。道徳の箍は外せばいい。また犯罪ならばばれなくて済めば存在しないのと同じだ。最初の作品「二銭銅貨」は大正十二年に発表された。知的好奇心が大衆的に横溢した時代だったのか。自由を求める気質もしかりか。道徳の箍は想像によって、また娯楽志向によって乗り越えられようとする。勿論、作者乱歩は犯罪の実践者ではなく、作中人物を読者に提供し共感を呼ぼうとする書き手だ。
  「心理試験」の犯人・蕗屋(ふきや)清一郎も記したような青年の一人で、その高慢さが見破られるさまがあざやかに描かれる。友人の斎藤から、彼が下宿している老婆の資産家ぶりについて聞かされる。大金が室内の松の鉢植えの底に隠されていることを耳にして、女中と斎藤の二人が不在のときを狙って訪問し絞殺し、大金の半分!を強奪する。それを用意しておいた札入れに入れて、なんとそれをわざわざ警察に拾得物として届け出る。所持者不明のまま時間が経てばやがて蕗屋のもとにもどってくるという計算だ。蕗屋にとって幸運だったのは、老婆殺害の第一発見者の斎藤が鉢植えの残った金を懐に入れてしまったことで、当然斎藤は警察に容疑者とされる。だが蕗屋は斎藤の友人だから警察から事情聴取を受けなければならず、ボロを出してはならない。それを見越して蕗屋はある訓練を実施する。担当の予審判事が取り調べのさい「心理試験」を実施することで有名だったので、その受け答えを淀みなくしようとする。判事が言葉を発し、受け手がそこから連想される言葉で答えるという形式だ。そのときの受け手の動揺ぶりや言葉を発するまでの時間の長さ(遅くて数秒、早くて一秒以下)をみて、取り調べ側は黒か白かの判断の参考資料にする。蕗屋は提出される言葉を予想して、できるだけ早く、ためらいなく応答する訓練を自らに課し、完璧を期するのだ。同じ「心理試験」を斎藤も受けることになるのだが、斎藤はしどろもどろで犯人に仕立てられはしないかという不安もある……。
もう少し書いてもよいと思うので書くが、蕗屋の応答があまりにスムースなのでかえって怪しまれるのである。これは蕗屋の計算外であり、彼は動揺をきたす。さらに蕗屋を決定的に追い詰める凡ミスが指摘される。凡ミスがなければ蕗屋はいまだ犯人とはされないのだが、青年の高慢さの奥にある脆さが見てとれる気がした。知的優位のつもりで胡坐を掻いていると、欠点といえるかどうかわからない微細な個所を指摘されて青くなる。完璧さを築き上げたつもりでもそうではなかったことに気づかされるのだ。ここがわたしは面白かった。
  「赤い部屋」は秘密クラブの新入会員T氏(年齢不詳)が自らの殺人歴を滔滔と語る。彼も知的優位性を自慢するのだが、「心理試験」とちがってそれは最後まで崩れることはない。現代風にいえば「未必の故意」にあたる殺人劇のかずかずで、T氏には責任が及ばないとされる。もっとも話をすべて虚偽とみなせば、聴き手をぐんぐん惹きこんでいくT氏にとっては最後の落ちもふくめてこれほどの痛快事はないだろう。わたしにとっては見事な語り手で、仕掛け者であるにはちがいないが、やはり変人である。  「屋根裏の散歩者」の主人公郷田も「心理試験」の蕗屋と同じく人生に退屈しきった青年で、犯罪に興味をもつ。しかも私立探偵明智小五郎と友人という設定まで同じだ。また乱歩作品によく登場する閉所嗜好の持ち主でもある。下宿屋をたびたび変えるのも彼の好むところで、新たな下宿屋では、布団の上げ下ろしが面倒なので押し入れの上半分のスペースに布団を敷いたままの状態で就寝の場所にする。そこで彼が発見するのが、すぐ上の天井板が打ち付けされておらず、重しを置いただけで押し上げれば難なく上方に外れてしまうことだ。つまり屋根裏にあがることができて部屋ごとの壁などないので自由に歩き回ることができる。板に隙間や節穴があれば部屋の住人に気づかれずに覗くこともできる。実際に郷田はそれを繰りかえして小躍りするのだ。この「発見」の喜びようがよく描かれている。さらに彼を犯罪にいざなう「幸運」がかさなる。毒薬や取りはずし自由の節穴の発見、等々。たいした怨みもない人物を標的にして屋根裏を利用し、郷田は殺人に走ってしまう……。被害者は警察では当初の状況からみて自殺とされるが、そこで明智が登場して郷田に矛盾点を指摘する。「心理試験」と同じように、この一点だけならば郷田がただちに犯人と断定されるものではないが、郷田の動揺は激しくなる。完全犯罪をやりおおせて有頂天になったつもりのゆえの、青年のうぬぼれゆえの動揺だ。
  「人間椅子」も閉所嗜好の人物が主人公。腕のいい椅子製造職人が総革張りの椅子の内部に入り込む仕掛けをつくって、窃盗に利用する。そんなことが可能なのか、わからないが、読ませる。しだいに主人公の喜びようが変わってくる。彼は容貌の醜さにコンプレックスを抱いていて美人には縁がないと諦めていたところが、椅子の中で女性の肉体と相手に知られずに密着することに至福の境地を見出すのだ。変態性欲であるが、最後には愛してやまない相手の女性に「事実」を手紙で告白する。さらにオチがあるのは「赤い部屋」と同じ仕組みになっている。主人公は得意満面だろうし、読者もニヤリとさせられる。
  犯罪や変態的嗜好にたいして知的好奇心をすみずみにまで流し込んで飽きさせない。残酷性よりもユーモアがまさるのは、読み物として読者に供しようとする江戸川乱歩なりの配慮だろうか。
  とりあげた作品の発表時は、荒正人の「解説」によれば大正13から15年(1924~1926)にかけて。

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プロ野球打撃今昔

  一昨日と昨日、プロ野球オールスター戦をちらちらと見た。他の番組もときどき見ながらであるが。眼を惹いたのは西部の森やソフトバンク柳田のフルスウィングやアッパースウィング。おそらくは彼等の打撃フォームは彼等自身の研鑽によって生み出されたものと思う。今でも多分にそうだと推察するが、ああいうフォームを打撃コーチは推奨しないだろう。やれダウンスウィングだの、大振りはするな、引きつけて打てだの、チームバッティングだの、とうるさかったにちがいない。名選手だった川上哲治や山内一弘の影響が大きかったのか。森や柳田のフォームはもし彼等が二軍のぺいぺいだったなら打撃コーチにフォームを「矯正」されていたのかもしれない。ドラフト以前にフォームを作り上げて、彼等はプロの世界に入ってきたのだろう。
  そういえば、イチローは1年目は2軍暮らしに甘んじていた。確かな記憶ではないが、当時の打撃コーチの山内一弘が彼の打撃フォームを嫌忌したのが原因だとのこと。また落合博満が2軍から1軍に昇格したさいには、フロントから当時の山内一弘監督(ここでも!)に落合の打撃フォームをいじるなという要請があったやら。イチローや落合は打撃フォーム自己構築に先鞭を着けた存在かもしれない。森や柳田をみると自由で爽快だ。こういう個性的でかつ実力ある選手にどんどん出てきてもらいたい。
  山内氏の悪口を書く結果となったが、名選手を育てたという評価もあり、慕う選手もいたようだ。お断りしておきます。
Genre : 日記 日記
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 筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』(4)

  満州事変の翌年一九三二年三月満州国が建国される。中国ナショナリズムの勢いの増大を無視した一方的な施策であったが、その目的は一つには在満法人の保護であり、またソ連の南下に備えた対抗・防衛であり、また満州に存在するであろう資源の調査と獲得であった。海外在留邦人の危機にさいする救出は今日でも政治的・軍事的手段においては曖昧な部分があり、依然として政治課題であることは誰しも認めるところであろうが、広大な土地を一挙に傀儡国家に仕立て上げるというやりかたはあまりにも強引で、中国や国際世論を無視したものであった。満州事変は関東軍と本土陸軍の中堅幹部の一致した軍事方針にもとづいて実行されたものであるらしく、三年前の張作霖爆殺事件はその前兆であり、陸軍の不穏な動きは察知されていたにもかかわらず、政府は陸軍にたいして何ら有効な対抗手段を執らなかった。陸軍大臣に言っても中堅幹部にはとどかなかった、効力が無かった。政と軍との緊密な政策擦り合わせは一九二〇年代全般において遂に行われず、下剋上を招来せしめたのである。(政と軍のどちらが政治の最終決定を行うかといえば、勿論前者であろうが、その根本のところで軍は引き下がらなかった。軍事に関しては軍担当者の専門分野であり、研究をかさねたり自立した意見をもつことは許されるにしても政策の最終決定は中央政府に委ねられるべきであろう)
  満州事変以降、日本は変わった。まるで強力な磁石に吸い寄せられる如く、新聞メディアと大衆のポピュリズムはこぞって軍と満州国建国を支持し、急激な右旋回を遂げた。昨日まで軍部を蔑視していた新聞と大衆が、である。それとセットになって為されたのが財閥と政党にたいする憎しみをこめた批判であった。まるで国家に国民が今すぐにでも結集しなければ国家崩壊に直面してしまうというような危機感が国じゅうを蔽っていた。今日ではにわかに理解しがたい、実感しがたい事態である。
  本書は満州事変につづいて五・一五事件裁判にたいする全国的に澎湃として湧き上がった減刑嘆願運動について頁が割かれる。当時の犬養首相が暗殺されたことで有名なこの事件だが、以後の二・二六事件と比べると参加人数は少ないもののやはりクーデター計画であったが、その実行行為の詳細については省かれる。重点が置かれるのは裁判にたいする新聞・国民の異様なまでの関心と被告への同情のさまである。新聞は被告自身や被告に同情的な人や弁護人の言を紹介し、被告の行為を「義挙」として明治維新や桜田門外の変参加者になぞらえて称えるさまは大同小異で、新聞論調も行為そのものは処罰は免れないもののその動機には財閥・政党の腐敗堕落を身命を賭して糾弾・除去しようとしたもので、同情と共感を呼ぶべきものとした。明治維新がテロ・暴力によって実現されたことは否定できないのだが、テロ・暴力にたいする国民の許容度が今日に比べると随分広い時代であったと想像できる。
  『神戸又新日報』の一九三三年八月二十七日記事によると、東京地方裁判所に届いた減刑嘆願の上申書は四万を突破した。九月十六日の『都新聞』は論告に悲憤した海軍将校が遺書をのこして自決未遂を起こした。『文芸春秋』一九三三年十月号の角野知良「非常時の非常時犯」によれば「公判開始以来、十一名の被告のため、約七万人からの減刑嘆願書が、法廷に提出された。中には全文、血書したのや、あるいは血判したのもあった。同情感が白熱して、新潟県から九人の青年が各自、小指を根本から切断して嘆願書に添付して送って来た。陸軍省では、その熱情に感激して、これをアルコール漬にして保存することにしたが……」とある。その小指の瓶詰は法廷に提出された。さらに結審後も別の人の小指がとどいた、とある。小指の切断といえば、わたしにはやくざ映画を思い出させる以外知らなかったので、これには驚かざるをえなかった。国民全体はどうかは怪しげだが、一部の国民には同情という範疇を超えた痛切な思いが、たんに思いに留まらせたくなく何らかの形にしたいという思いが、こういう行為に走らせたのだろう。
  本書はさらに国際連盟脱退当時の松岡洋右(ようすけ)全権代表や、三次に渡って首相に就任した近衛文麿についての記述があるが、省略して別の機会にゆずることにする。大雑把に言えば、後戻りすることがしだいに困難になっていく時代であろう。
  陸軍中堅幹部のグループが独自の政策立案と野望にもとづいて実行したのが満州事変で、それを強力に後押ししたのが新聞メディアと国民世論のいわゆるポピュリズムである。政治のポピュリズムへの対処法が大事なのは否定できないが、むしろ政治の軍への直接関与が欠くべからざる政治行動だと痛感した。

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 筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』(3)

  浜口雄幸民政党内閣(一九二九年七月二日~一九三一年四月十三日)が重要政策としたのは緊縮財政と金輸出解禁であった。また世界的軍縮の趨勢の時代であったので、ロンドン海軍軍縮条約に調印した。(一九三〇年四月二十二日調印、十月二日批准)当初の日本政府の目標は<1、補助艦(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦など)の総括トン数は対米七割、2、大型巡洋艦はとくに七割確保、3、潜水艦は現有量七万八五〇〇トンを保持>というものであったが、アメリカ側の最終妥協案は<1、日本の総括的対米比率六割九分七厘五毛、2、大型巡洋艦は六割二厘、3、潜水艦は現有量七万八五〇〇トンは認められず日米均等五万二七〇〇トン、条約期限は一九三六年まで>であった。折からの財政緊縮目標もあって浜口首相は妥結を決め、海軍首脳に取り纏めを依頼した。だが海軍内の「艦隊派」と呼ばれる勢力から猛烈な反対運動が起った。(軍縮条約賛成派は「条約派」と呼ばれる)アメリカを仮想敵国とする海軍にとっては戦力不足をきたすと見做されたのだが、自己利益のみに執着するばかりで「政治決定」 に服するという態度ではない。一九三〇年四月二日、加藤寛治海軍軍令部長が天皇に上奏し、条約反対意見を述べた。(政府にではなく軍首脳が天皇に直接上奏することを「帷幄上奏」という)明治憲法下では軍にたいする政府の統御機能が脆弱だったといわれる。海軍では海軍省とは別に軍令部が、陸軍では陸軍省とは別に参謀本部がそれぞれ並立していて、首相の権限が軍令部、参謀本部には及ばないとされていた。
 第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
  11条は軍の作戦、用兵に関する事項であるといわれ、軍令部・参謀本部の担当事項でありその範囲で天皇を輔弼する。12条は予算措置が講じられなければならないから内閣の輔弼事項であるとされ、国家の根幹政策も深く関わる。筒井清忠によると、憲法学の美濃部達吉は兵力量の決定は12条の「編成権」に属しており、11条の「統帥権」はそこには権限が及ばないと論じたそうだが、海軍は統帥権は兵力量決定にも及ぶと主張した。つまり海軍の反対を押し切っての条約調印は「統帥権干犯」としたのである。(「統帥権干犯」という用語は『大阪毎日』四月三日の記事が初出だそうだ。記したとおりその前日、加藤軍令部部長が天皇に条約反対を表明し、新聞発表された)ほし条約調印から批准まで半年もかかったのだから紛糾案件にちがいなかった。野党政友会は海軍内の反対意見を追い風にして「統帥権干犯」の論陣を張って政府を追及した。例によってというのか天皇の神聖性をもちだしてきて攻撃材料にしたのだ。同時にそれは軍の権威を高めることにもなる結果を招来せしめることにもなったであろうが、政友会は無頓着のようだった。(民政党が野党のときも同じことをしている)条約批准は今日から見るときわめて妥当にしか思えず、政友会幹部にもその認識はあったであろうと想像するが、与党攻撃のため、次回選挙に勝利したいために、条約問題を政争の具にしてしまったのだ。
  天皇・宮中も条約調印に賛成だった。だが筒井は、天皇は<意思表明をしないのがベスト>だという。調印前の三月二十七日、天皇は浜口首相に「世界平和の為早く纏める様努力せよ」と言った。また前首相の田中義一には、一九二九年六月二十七日張作霖爆殺事件にたいする軍関係者の処分内容について不満を表明したのだが、このことも併せてのことである。旧憲法体制では軍もふくめてのすべての政治部門において各担当者(大臣等)が輔弼(補助)の任に当たる取り決めになっており、天皇の側からすると最終的な政治決定を待ってからの発言でなければならなかった。旧憲法体制に忠実であればそのほうが妥当なのだろう。わたしはしかし、これくらいの発言はあってもよいのではないかと考える。天皇や元老西園寺公望は非戦・国際協調主義者であったといわれるので、自らの発言がどれほどの効力をもつのか探ってみたかったのではないか。もとより天皇・宮中には何の後ろ盾もない。つまり軍に反乱を起こされれば消滅しかねない存在なので、最終的にはその存続自体が目的化されるしかないのであっても、自分たちの意見を国政に少しでも反映させたい気持ちがあるのが自然なのだ。天皇とは開かずの扉の向こうに居つづけるのが望まれるのか、存在するだけでよくそれ以上であってはならないのか。天皇も人なのだから意見を言いたいときはあるだろう。
  ポピュリズムに焦点をあてた書だから、新聞の論調にも考察があてられる。海軍の宣伝もあって各新聞社は、ロンドン海軍軍縮条約には調印前には妥結反対であったが、一旦調印されると大部分が賛成に回った。筒井によれば「豹変」した。財政負担の軽減を理由としたのだが、新聞社の無定見ぶりがみてとれる。新聞は世論の風向きに敏感であろう。それに発行部数の増減を気にする企業組織でもあり、ともすれば短期的利益にとらわれるのだ。国家運営における長期的ビジョンにかかわる視座がないがしろにされる傾向があるといえる。
  それに、新聞のこういう論調にかかわる政治課題として「陸軍軍政改革問題」つまり浜口内閣の軍縮志向があり、社会的にも軍隊・軍人が見下される風潮があり、新聞社も意識せざるをえなかった。軍縮は大正末期以来実施され(山梨軍縮=一九二二年、一九二三年、宇垣軍縮=一九二五年)<計約九万六四〇〇名(うち将校約三四〇〇名)が馘首されたのである。この馘首された将校約三四〇〇名の再就職が社会問題化するとともに、軍学校の志願者が激減するなど、軍人の社会的地位はこの時期大幅に低下していたのだった。>その他、軍人の縁談が女性のほうから破談されたとか、人力車夫が軍人の乗車を理由もなく拒んだとか、海軍軍人が通勤電車内で身分を隠すため上着を脱いで乗車したとかのエピソードが記される。わたしにはにわかには実感がわかないが、憎悪と呼んでもさしつかえない軍人蔑視の社会風潮であったらしい。当時の日本人は熱くなりやすかったのか、喧嘩早かったのか。新聞はというと、こういう社会風潮自体をどう見ていたのかは不明だが、軍縮条約に最終的に賛意を表明したのだから、同じ地平の問題として陸軍軍縮にも当然賛成であった。
  だが、満州事変勃発にさいして新聞論調は俄然右旋回する。(事変当時は第二次若槻礼次郎内閣(一九三一年四月十四日~十二月十三日))一九三一年七月の満州における中国人による朝鮮人移住者暴行事件(万宝山事件)や同年八月の中国人による日本人軍人殺害事件(中村大尉事件)が起きて世論は沸騰するところとなったが、まだこの頃は新聞は陸軍の軍縮反対表明には批判的であったらしい。<軍制改革による圧迫と満蒙問題の急迫という天秤の上に陸軍は乗っかっていたのだが、ぎりぎりのところで、はかりは後者に傾きつつあった。>と筒井は記す。そして同年九月十八日の事変勃発とそれにつづく満州主要都市の占領。新聞社はこぞって関東軍の軍事行動を支持し、世論もまた同調した。在満邦人保護のためにはそれ以外の選択はなかったという見方だったのか。なかでも朝日新聞の旋回ぶりが印象付けられる。事変直前まで陸軍に批判的だった『朝日』は事変以降不買運動に見舞われ部数を減らしていった。そこで十月中旬の重役会で「満州事変支持」が決定されたという。国家ビジョンの構築よりも自社の目先の経営を優先したのだ。たぶん以後は発行部数を回復させたのであろうが、新聞の無定見ぶりはここで極まっている。


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