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筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』(2)

  政治的紛争の元となったさまざまな事象がとりあげられる。若槻礼次郎憲政会内閣時代(一九二六年(大正15)一月三〇日~)の「朴烈(パクヨル)怪写真事件」、田中義一政友会内閣時代(一九二七年(昭和2)四月二〇日~)の<鈴木喜三郎内相の「皇室中心主義に対する議会中心主義攻撃」問題、水野錬太郎文相優諚問題、不戦条約「人民の名において」問題>さらには国際的事件である張作霖爆殺事件における田中首相の陸軍関係者処分問題、などである。
  かいつまんで記すと、朴烈と愛人の金子文子の二名が爆発物所持の疑いで起訴され、後に罪名が大逆罪にきりかわって二六年三月二人に死刑判決が言い渡され、のちには無期懲役に特赦減刑された。(検事総長が申請し閣議決定された)さらに後に取り調べ中に二人が身体を密着させた写真(朴の膝に金子が座って本を手にしている)が流出し、新聞に発表された。撮影者は取調担当の予審判事であったが、彼から朴へ、朴から刑務所内で知人となった某へと写真は渡り、さらに某が出所の際それをもちだしてやがて新聞社の手に渡ったという。新聞・野党は司法の堕落として批判を先鋭化し、政府攻撃・倒閣運動に転化・利用された。ことは大逆罪であり皇室の尊厳にかかわってくると見做され、新聞掲載された写真という刺激性もあって、皇室ポピュリズムが煽られる結果となったのだ。一司法官による不祥事が政府攻撃の材料とされたのだが、今日の政治状況と似たところがある。若槻は朴烈事件を軽視した、つまり重要な政策課題ではないというのがその理由だが、著者の筒井清忠は、若槻の言を「正論」としつつも朴烈事件のような大衆の大量動員を可能ならしめる事象を軽視すれば、政争に敗れる運命に陥るとして若槻を批判する。本書のみではわからないところもあるが、議会の重要課題としてとりあげ且つ「丁寧な説明」が為されなかったということだろうか。
  鈴木内相の発言は「〔民政党の〕議会中心主義などという思想は、民主主義の潮流に掉さした英米流のものであって、わが国体とは相容れない」というものであった。政党人がこういう発言をするのは政党としての自殺行為に等しいとしかわたしには見えない。当然、野党・新聞は批判を強めたのだが、もっとも政友会という政党は、その出発点において「反政党」志向を有していたともいわれる。ともあれ、皇室権威の政治利用が頻繁に行われはじめるのである。水野文相優諚問題とは、水野が田中首相主導の内閣人事に抗議して辞表を提出したにもかかわらず、田中首相が天皇に水野留任を申請し了承されたというもの。(二八年五月二三日)水野はこの日、天皇の優諚(天子のありがたい言葉)があったので留任したと発表したのだが、これが天皇の政治利用だという批判を浴びることになり、結局は水野は辞任にいたった。直接の非難の矛先は水野に向けられたが、田中が水野の辞任を撤回させる手段として天皇権威を利用しようとしたようだ。天皇・皇室と政党、政治家の関係をこの時代、新聞や野党は政争ネタになるやもしれずと絶えず注視していた。齟齬があってはならないことは勿論、近づきすぎて親しみを披瀝してはならないし、遠ざかりすぎて軽視するように周囲からみられてもならないということだろうか。しかしこの時代において、内閣と天皇・皇室との関係性が安定的に定型化されることは遂になかったと思われる。両者ともにその関係性には不慣れであり手探り状態ではなかったか。また、繰り返しになるが、天皇を武器にして政府批判を繰り返すことによって天皇権威がより高まっていくという時代の過程でもあるだろう。
  「不戦条約問題」とは一九二八年八月二十七日に調印された当条約の中の文言「人民の名において」(in the names of their respective peoples)が「天皇大権の干犯」であるとして攻撃されたことをさす。(「天皇の名において」なら不満は無かったのであろうが、国際条約だからそうはならない)不戦条約は戦争放棄を謳った画期的な国際的取り決めであるにもかかわらず、今日から見ればその重要性はそっちのけにされて重箱の隅をつつくような批判がなされたのだ。朴烈事件で政府批判をしたのは野党政友会だが、民政党も田中内閣の野党時代、記したように水野文相問題、不戦条約問題で天皇権威をもちだしてきて政府批判をなした。筒井によれば天皇<シンボルのもつ大衆動員力には党派を問わず抗しがたい魅力>があったのだ。天皇権威はライバル政党攻撃の格好の武器であったのだが、それを「足の引っ張りあい」としてつづけることによって政党政治家としての自分たちの尊厳を傷つける結果をもたらした。同時に天皇・皇室はじめ、新聞、軍など議会外勢力をもちあげることになったという。
   一九二八年六月三日、満州軍閥の首領・張作霖の乗った列車が奉天郊外で爆破され、張は死亡した。当時は「満州某重大事件」として扱われたが、陰謀者は関東軍高級参謀の河本大作大佐であった。一般には隠されていたが、関東軍の犯行であることは政府首脳や軍、それに中国側にも察知されていたという。<元老西園寺公望は田中首相に真相公表と関係者の処罰を要求、田中も同意した。しかし、関東軍・軍中央・閣僚の多数は、真相公表は日本に不利益と反対した。それでも暮れの十二月十四日、田中首相は天皇に真相公表と関係者処分を内奏したのだった。だがその後、真相非公表と警備責任者のみの処分という処理方針が政府内の大勢となっていった。>翌年三月二十七日白川義則陸相は同様の処分方針を内奏、これは天皇と宮中を驚かせ、かつ憤激させたようだ。<六月二十七日、この日の新聞には総辞職を求める猛烈な田中内閣批判が出た。>新聞記事に驚いたのか田中は天皇に内奏したが、軍への処分内容にはたいした変更はなかったようで、天皇をふたたび憤激させ、その後七月二日田中内閣は総辞職に至った。前年の発言を引っくり返したのだから天皇の憤激は無理もない。
  わたしが見ても、田中の言動は「水野文相優諚問題」もあわせてあまりにも軽率である。天皇と政府・軍の板挟みになったといえば聞こえはいいが根回しが不足していた。少なくとも政府内の意思統一をなしてからの内奏でなければならなかった。それとも天皇の意見があれば政府や軍が意思をひるがえすとでも考えたのか。また首相という立場を実情よりもより強力だと見做してしまったのか。軍人出身の田中という人は、こういう政治世界の力関係や意思形成の方法に不慣れであり無知であったのではないだろうか。また天皇の意見具申がストレートに実現されるものではなかったことも忘れてはならない。さらにこの事件のより重要性としては、首相にしろ、陸相もふくめた政府閣僚にしろ、天皇・宮中にしろ、陸軍にたいする統制が既に不可能になっていたのではないかとみられることである。天皇や西園寺は非戦・国際協調主義であったといわれ、一旦は真相公表に同意した田中義一首相もそこに入れれば、事件の真相公表が実現していれば、一時的な国際的地位の低下が免れなかったとしても戦争からは何年かはとおざかることができたかもしれないと思うところだ。真相非公表は陸軍中堅層に安堵を与えたのかもしれない。三年後の一九三一年九月十八日満州事変が勃発する。張作霖事件とまったく同じやり方で陰謀による鉄道爆破によって事は始まる。このことは本書が追究する大衆ポピュリズムとは無縁のところで、出先機関の関東軍とそれに連携した永田鉄山ら後に統制派と呼ばれる陸軍グループのなかでの戦争準備計画として着々と進行していた作戦行動の一環としてとらえられるべきだ。
  新聞が事件の真相公表を促したかどうかはこの本でみるかぎりはわからないが、その政府批判は与党政友会への権力・金・暴力にまみれたそのはなはだしい腐敗ぶりにも強く向けられたものだった。一九二八年二月二〇日に行われた「第一回普通選挙」(第一六回衆議院議員総選挙)の結果は政友会二一七、民政党二一六という伯仲ぶりだったが、選挙違反検挙者数においては政友会一六四人、民政党一七〇一人となっていて、後者が前者のほぼ一〇倍で、まったく不自然な数字というほかなく、与党政友会による権力濫用とみられる。<一九二八年一月の議会冒頭解散一〇日ほど前に、田中義一内閣の鈴木喜三郎内相が知事・警察署長など地方官の大更迭を実施し、これが第一回普通選挙における政府の選挙干渉を激化させたと見られる。>この「地方官の大更迭」は以前の若槻内閣時、後の犬養内閣時にも行われたのだが、わたしは知らなかった。戦前の内閣権力は脆弱であったとはよく言われるが、この方面では今とは比較にならないほどの強力ぶりである。この大規模な選挙干渉が理由で鈴木内相の弾劾決議案が野党によって提出される。ここから与党政友会による野党民政党議員にたいする眼を蔽いたくなるような切り崩し工作が行われはじめる。今の時代では信じられないことだが、民政党議員の国会への登院を阻止すべく、暴漢を雇って個別に襲撃させたという。これに対抗して民政党は議員を旅館、宿屋に分宿させた。金や甘言による誘惑から守るためでもあった。結局はこの切り崩し工作は失敗し、弾劾決議案は可決され鈴木内相は辞職を余儀なくされた。ひどい話というほかなく、新聞の批判はポピュリズムに当るか否かにかかわらず当然至極だったのである。
  こぞって田中内閣批判を展開した新聞だが、その言葉づかいは今日とちがって荒々しく攻撃的で、下品ささえ受け止めざるをえないものであることもつけくわえておかなければならない。引用されているなかで目立った報知新聞の記事を挙げておこう。

憲政の道義に反して積悪の限りを尽くし……政権私有の非望を逞しうす、天譴遂にその頭上に降りて、千載の下不臣の醜名を残すも、所詮は身から出た錆……内閣瓦解の報伝わると共に、至る所歓呼を以てこれを迎え(一九二九年七月一日夕刊)

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筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』(1)

  ポピュリズムとは何か。著者筒井清忠によると、政治家が広範な大衆的人気に依拠して自らの政治的目標を達成しようとする行動を指す。そのさい前提となることとして国民世論は必ずしも「正しい」とはいえないということだ。ときとして国民は一時的な悲憤慷慨に駆られ、自分たちを客観視することを忘れる。長期的・概略的な政治的見通しをおろそかにして自分たちの主張を暴力に訴えてまでも押し通そうとする。もっともこうした大衆の行動には共感できなくもない部分もある。プロのイデオローグがその核に紛れこんでいることもあるが、それを指摘したいのではなく、政治家の約束反古とみられる政治決定にたいする反発が大衆的に生まれて沸騰することがあるのだ。こういう事態にたいして政治家(とくに与党・権力者)はどう対処すべきか。あくまでも政治的展望のプロとして、国力や経済力にもとづいて政治方針を決定しなければならない。つまりそれによって大衆を失望させ、「不人気」を招来せしめることがあっても怯んではならないのだ。
  筒井は、小泉純一郎元首相や小池百合子現東京都都知事の人気をポピュリズム現象ととらえ、同じような現象は戦前期から既に存在していたといい、それに焦点をしぼった書がこれまで現代史専門家の立場から公にされなかったことが本書の執筆動機という。広範な政治的大衆の登場とそれに依拠する政治家、またポピュリズムを煽って「世論」を誘導する新聞などのマス・メディアの論調などに目配りがなされている。また筒井も当然のように記述するが、わたしが特にひっかかってきたのは、戦前期全般にわたっての天皇・天皇制の年代がすすめばすすむほどのより一層の神格化、政治利用化である。これは天皇や天皇周辺から沸き起こった動きではなく、外側の政治家、軍部、新聞、大衆世論などが担い手となって加速化された動きである。
  政治的大衆が表舞台に登場した最初の事件が「日比谷焼き討ち事件」とされる。一九〇五年(明治三十八)九月五日、某団体が日露戦争終結後の講和条約(ポーツマス条約)に反対する国民大会を日比谷公園で開催しようとした。当時は十万とも二十万ともいわれた戦死者を出したにもかかわらず、条約は不満が残るものとなった。当初のロシアへの要求である樺太全土の割譲や賠償金の獲得が実現しなかったからである。新聞論調もほとんどが条約締結に反対であった。警察は集会を禁止し、同公園を警官隊で封鎖する措置をとったが数万の群衆が終結し公園に乱入した。このとき警官隊と群衆とのあいだに乱闘が起る。さらに乱闘は広がりをみせ、二重橋前広場に移動した群衆と警官隊とのあいだでも起こった。国民新聞社(条約に賛成の論を掲載)や内務大臣官邸さらには路面電車、派出所、教会などが襲撃された。七日の夜にも本所警察署が襲撃されたが、この日にようやく事態は沈静化をみるにいたった。<七日までに警察・分署一一か所、派出所二五八か所が破壊・放火された。東京市内の派出所約七割が消失したのである。>筒井のまとめによると<逮捕者約二〇〇〇名、起訴者三〇八名、警備側の負傷者約五〇〇名、群衆の死者一七名、負傷者二〇〇〇~三〇〇〇名の可能性が高いと言えよう。>六〇,七〇年代の学生運動を思い出させるがその規模はより大きく、数日で終息したものの今日からふりかえると驚愕に値する。
  大衆は日露戦継戦を望んだのだろうか。政府は戦力・戦費の払底を知悉していたので条約締結はやむをえなかったのだろうが、暴動に参加した「群衆」にとっては政府決定は理解されなかった。筒井はさらに「群衆動員」が戦勝祝捷会の度重なる開催によって定例化したことが、当事件の背景にあったことも指摘する。一九〇四年二月から翌年六月までに東京において行われた祝捷会は盛況で、動員数は一回ごとに二三〇〇人~二一万二八〇〇人となっている。一九〇四年五月八日の祝捷会では二一人の死者が出ていて、翌年の日比谷焼き討ちは既に用意されていたとみるべきか。(このときの集合場所も同じく日比谷公園である)提灯行列といっても決して平穏裡ではなかったのだ。またこれら祝捷会や各地方開催の政治集会が新聞社・地方新聞社によってこぞって開催されていたことも記しておかなければならない。戦勝を追求・祈願することと戦勝国にふさわしい対価を非妥協的にもとめるべきことを新聞社は率先して主張し、大衆を煽った。
  また、わたしの特に目を引いたのが、事件の前日に集会主催者の一人の河野広中という人が他の人の連署とともに宮内省に提出した上奏文で、筒井の指摘によると二・二六事件(一九三六年)の青年将校による蹶起趣意書にきわめて類似しているという。すなわち天皇の神々しいまでの威光とそれを心底受け入れ一体化をなした国民(兵)の類まれな奮闘によって日露戦は勝利した。にもかかわらず政治指導者はこれら天皇の願いと国民の尽力を全く理解せず、屈辱的な講和条約を締結した。願わくは、天皇自身による直接の統治、御聖断を望むものだ。これは「君側の奸」と呼び捨てた政治担当者を「斬除」して天皇親政の実現を期すという「蹶起趣意書」とまったく同じ発想・姿勢にたつものだろう。河野の上奏文の引用された個所は次のとおり。

謹みて惟(おもんみ)るに征露の戦役はマコト(さんずいへんに旬)に無前の盛挙、曠古[空前]の大業にして其盛功は陛下の御稜威( みいつ)と陸海軍の忠勇精鋭とに是れ由る。……然るに陛下の閣臣及全権委員等深く之を思わず、講和の局面遂に今日あるに至りては、……閣臣全権委員は実に陛下の罪人にして又実に国民の罪人なり……仰ぎ願くは陛下宸衷より聖断し給わんことを

  天皇親政を渇仰するという政治的志向は、ほとんどの軍人、「革新」的イデオローグに共通していたのではないか。ときには政党政治家や新聞社、一般大衆もそれを望んだ。それはアジア太平洋戦争の終結までつづいたようだ。天皇・宮廷は政争に巻き込まれることを怖れて意識的沈黙と無作為をつらぬこうとしたともわたしには見えるが、例外もあった。この例外の印象が強烈であるがゆえに「天皇親政」は夢見られた。もとより、天皇権威のより一層の強化と神格化は時代の進行にしたがって高まり、ときには敵対する政治党派や軍内派閥にも向けられて利用されたのだ。

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