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大洋ボート

宇宙飛行士

  宇宙飛行士が母船の外で作業をしていて命綱が切れて宇宙空間に投げ出されたとする。どうなるのか、いろいろ空想してみる。
  もし母船との通信手段をもちあわせていず、しかも母船が救助に駆けつけてくれなければ、彼は母船からとおざかるばかりで酸素ボンベのなかの酸素が尽きれば死ぬことは必定である。酸素ボンベの量ともし携帯食糧を何日分かもちあわせていればその分だけは生きることができるが、以後は絶体絶命であることは変わりない。彼は錯乱するのだろうか、それとも一時的な錯乱状態から回復して落着きをとりもどすのだろうか。彼になり代わって、わたしがその立場にあるとして空想してみる。やはり死ぬことは怖い。これは逃れられない。地上でやりのこしてきたことがあったならば痛恨の思いも噴き出すであろう。
  だが、とわたしは考えてみる。死が恐ければそれを忘れることはできないか。眠れば忘れることが少なくともその間はできるのだ。眠っている間に死に就くことがあるかもしれず、それを怖れて可能なかぎり眠気をとおざけようとするのだろうか。それほど生の残された一刻一刻が貴重だと思わせられるのだろうか。身体を上下左右からとりかこむ星々の輝きに生の充実の反照を幻想することができるだろうか。空想であるから、わたしがその場にいてどんな心的状態になるのか、実際になってみないとわからないのだが、やはりと言うべきか、わたしは眠ることを志向する。眠りとは忘れることであり、中途で投げ出すことであり、誤魔化すことである。眠りから覚めれば記憶はよみがえり、やりのこしたことがあればまたそれに従事しなければならないのだが、眠りの間に死に至ることができれば幸福だと思いたい。

  だれでも一度は死ぬ。これは避けられない。死の向こうにあるのは「天国」やら「極楽」やらと呼ばれるが、実際のところはわからない。人が動物であった時代においては死体は野原に放置され、獣に食われるかそのまま腐敗にまかされるかしかなかったのかもしれないが、これが死の実相だ。つまり丁重に火葬され、墓に納められたとしても死が死であることは等価なのだから。しかし屍を放置することはあまりにも悲痛であり残酷であるという感情も人のなかにはあるのだ。死の世界が「天国」「極楽」でほんとうにあるのかはわからないが、そう見なすことで不安はいくぶんかは和らぐ。死に「やすらかな眠り」と形容することも同じ意味が含まれるだろう。眠りと死は別個のものだが。

  さらに空想。宇宙飛行士が携行する酸素ボンベやら食糧やらが無限の量と仮定したらどうだろうか。彼は寿命が尽きるまで生きるので、その点については地上の通常の生と変わりがない。だが他人との交信は永続に途絶えたままで、ここは通常の生とは著しくかけはなれている。死ぬまで監獄で暮らす囚人でも看守との言葉のやり取りはあるであろうから、想像を絶する生にちがいない。蛇足まで。
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国民・軍・政治

  戦争や侵略によって領土や経済権益の拡張、一国による他国の属国化等が正当性をもつものとして国際的に容認されていたのは第一次世界大戦までであった。そののち不戦条約の締結や国際連盟が創立されたことによって戦争忌避の方向が、充分な強制力をともなわないながら世界的に形作られた。イギリスやフランスはその潮流の形成に積極的だったと思われるが、日本においては一部の政治家をのぞいては特に軍部はこうした世界的傾向には無頓着だったようだ。一般国民もそうであったように思われる。日清、日露、第一次大戦と連戦連勝だった日本はその間に国力を増大してきので、国民の多くはその歩みを総じて肯定的にとらえたのではないか。つまりは軍部にたいする信頼が底流としてあった。
  国民は軍事の専門家ではない。某国との戦を仮定した場合、勝つのか負けるのか、獲得しうる利益や逆に損耗をこうむる人命や経済がどの程度になるのか、国民にはわからない。国民には専門性はなくまして情報はかぎられている。国民はそれまでの経験を土台としての軍への信頼にもとづいて軍に結集するしかないのだ。だが、軍はこうした場合の国民の「好戦性」を梃にしてはならない。あくまで冷静で客観的な軍事的判断によって和戦を判断しなければならないのだし、それに和戦を決定するのは最終的には政治の最高レベルにおいてなされなければならない。軍は専門的判断を政治に提供するにとどまるべきだ。軍には外交や、国内外における国民・他国民との協調や妥協を推進する専門性はない。逆にいえば、軍の専門性は政治の多くの専門分野のひとつに過ぎない。政治の分業システムのなかの部分に過ぎない。軍はなるほど戦争の準備をしなければならないのは理解できるが、その実行と適用を焦ってはならない。まして自画自賛であっても情緒的であってもならない。
  国民大衆は自力で政治思想を形成することはできない。政府機関や与野党や知識人らが喧伝するいくつもの政治思想から選択し追随することしかできない。沈黙するにしても、法律化されたことには従わざるをえない。あとは法律執行の事前事後においてその可否や結果について議会で議論・検証することが残されているのみだ。それすら行われないとき、つまり複数あるべき政治思想が一つを残して他が絶滅状態に陥れば、雪崩を打って一つの政治方向に国民全般が巻き込まれることになる。ファシズムや独裁の事態が到来する。
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