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桐野夏生『抱く女』

>桐野夏生
06 /17 2017
  杉浦直子は大学生で、大学の近くであろう吉祥寺という街にときどき姿を見せる。麻雀に興じたりジャズ喫茶を愛好する仲間がいるからだ。人数的には男のほうが多く、飲食をともにすることもあって、泥酔のあげく男と性的関係をもつこともある。直子にとっては性の敷居は低い
  時代は1972年後半で、連合赤軍事件が明らかになった年だ。学生運動の退潮期で、直子は学生運動に親近感をなお残すもののセクトに入って活動することはなく、そうかといって授業をこまめに受講することもなく、クラブ活動にも参加しない。学生時代のかぎられた時間の自由さを満喫したい気分なのだろう。大した目的もなく、ただ遊んでみたい。だが麻雀なら強くなければ面白くなく、金も減る。ジャズならばうんちくを傾けるほどの知識豊富な輩がいる。大音量のジャズ喫茶に小難しい本をもちこんで文字を追う学生もいる。何歩も先を行っている人やらマネができない人がいる。つまりは遊びといってもそこには壁がたちはだかるらしい。遊びとは自己本位の快楽をもとめることであり、その志向を持った人が集まれば、そこにおのずから「仲間」が形成されるということになるが、直子はどうやらそういう自然な仲間意識がもてない。それを直子がどこまで自覚するのかはわからないが、仲間意識をもっと共有したいという気があってそこに参加しつづけるのではないかと、わたしは読んだ。
  1972年。学生が言葉を失った時代かもしれない。言葉が見つけられなければ、せめて行動やら気分やらで、ゆるやかでも仲間意識を共有したいという漠然としたままの希望が頭をもたげるのは、わかる気がする。
  直子の性がゆるいのは、性が男によって自分という女が認容される重要な契機と感覚的に見なされるからで、それが延いては仲間意識につながるであろうとの希望に基づいている。泉という女友達との会話では「何かさ、女って男に欲せられていること自体に酔うんだよね」「男が自分を欲していることで、自分という女が成り立っているような錯覚を起こすんだよね。アイデンティティの確認してるのかしら」また「ラブレス」のセックスともいう。だがそんな直子に打撃を与える言葉が耳に入ってくる。遊び仲間の男の誰かが直子を「公衆便所」との陰口を言って、それが男たちに共有されているらしいのだ。直子にとっては侮辱以外ではない。男によって直子は「性の捌け口」として安直このうえなく扱われたので、それによって仲間意識が形成されるどころではないことが衝撃的にわからせられる。
  小説は直子に寄り添って書かれるので、男の学生が直子をどう見なすのかは直接の言及がないが、おそらくは扱いかねたのだろう。麻雀も強くなく、ジャズに深入りする気配もなく、それでいて自分たちに近づいてくる。ちょっと理屈っぽいところもある。誘いをかければ比較的楽に応じてくれる、というようにそれ以上には理解しがたい女だったのだろう。遊びにのめりこむことが男たちの中心目的ならば、他人を理解しようとすることなど思いの範囲外だったのだろうか。客観描写よりも会話に比重を置いた小説であり、直子と女性とのそれにおいては、直面する問題を掘り下げようとする意欲が双方ともに露わになるが、遊び仲間の男性との間ではそれは少ない。男が上辺を取り繕うのか、遠慮するのか、言葉に迷うのか、直子としては男の饒舌を期待しながらみずからは多く語らないのか、判然としない。直子を男たちがもてあましたと推測するしかないのだ。
  このことをきっかけに直子は遊び仲間からとおざかる。だが別の男と意気投合して飲んで泥酔したり、大麻に手を出したりする。なかなか足を洗えない。泉のボーフレンドが学生運動の関連で自殺する。こういうことも、あの時代あった。
  やがて直子は恋人と真にいえる男とめぐりあえるが、一方では早稲田の革マルに属する次兄が内ゲバに巻き込まれるという事件に遭遇する。ここからが後半部分で、小説らしくストーリーを追う展開になるが、やや平凡な印象が拭えない。わたしには前半部分が秀でていると読めた。あの時代、わたしも麻雀やジャズ喫茶の文化に少し触れてみたが、間もなく後退した。ゲームや音楽になじめなかったことが一番の理由だが、言葉をうしなった自分を意識させられたことと、ともすれば、それをすぐ目の前に居る「仲間」に無意識裡にもとめてしまうことがわかって自己嫌悪に捉えられたからである。

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seha

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