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古川隆久『昭和天皇』(2)

  昭和天皇の「聖断」が全面的に貫かれたのは二・二六事件と終戦の際といわれる。昭和11年(1936)<二月二十六日早朝、皇道派青年将校たちが、歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、近衛歩兵第三連隊の一部計約一五〇〇人の兵を率いて決起した。(略)高橋蔵相、斎藤内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監(真崎(甚三郎=筆者註)の後任)が殺害され、鈴木侍従長が重傷、牧野(伸顕=斎藤の前任=筆者註)も襲撃されたが難を逃れた。岡田首相は当初殺害されたと思われたが人違いで生存しており、あとで脱出した。そして決起部隊は、首相官邸を含む霞が関一帯を四日間にわたって占拠した(高橋正衛一九九四)。>(高橋の著作名は『二・二六事件』=筆者註)
  青年将校の主張は、政官財にはびこる「君側の奸」を除去して天皇親政を実現するというもので、長引く不況や農村の窮乏化が背景にあり、事件の報に接した社会や軍の一部には同情する空気もあったという。四日間の軍における様子見はこれが起因している。だが天皇は断固として即時鎮圧の方針を執ったという。「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校等、其精神に於いても何の恕すべきものありや」と、ときの本庄繁武官長に「反論」した。本庄が決起将校を弁護したからだ。<二十八日午前、陸軍首脳は、なお決起部隊の帰順にこだわっており、その際決起将校を自決させたく、その場合の勅使派遣があれば彼らも応じるであろうと天皇に申し出た。しかし昭和天皇は、「自殺するなら勝手に為すべく、此の如きものに勅使等、以ての外」と拒否し、本庄に対し「未だ嘗て拝せざる御気色」で、「直ちに鎮定すべく厳達せよ」と指示した。>
  陸軍青年将校の不穏な動きは宮中・天皇も前もって把握するところで警戒していたようだが、ここへきての天皇の怒りは凄まじく、感情むき出しである。彼等の「憂国」の想いや彼等に同情する軍人や国民への理解のわずかもなそうとはせず、ただテロを蛇蝎のように嫌って憎む、それだけであろう。わたしが「温室」とあえて呼んだ生育環境や思想としては当然の帰結かもしれない。軍人や国民が二・二六に直面した際の彼等の決起将校への「下から目線」というのか、事件がどんな風に彼等に映じていたのかというところまでは想像力を及ばさない。彼等には彼等の生活環境があって、そこでの日々の感慨と自然に関連づけて無関心も含めて事件を見るのであろうが、それらを観察すれば国家全体の漠然とした空気が嗅ぎ取れるのかもしれない。天皇一個人にとどまらず、政治にたずさわる者にとっては有用といえる。だがそこまで思いを及ぼそうとする感覚の余裕は、天皇は緊急時ということもあってもちあわせなかった。
  あるいは、身近で接する本庄武官長はじめ陸軍首脳の逡巡ぶりを隙とみて、一気にかねてよりの自己主張をありったけに突出させたのか。天皇・宮中は政治の渦に巻き込まれることへの警戒を怠らなかったのだが、二・二六の場合は「天皇親政」を目指すという、より一層の無条件的な天皇の「政治利用」であるから皇室のありかたに深くかかわる真性の危機と見做したのか。周囲の重臣が惨殺されたことへの怒りも当然ながらあるだろう。とにもかくにも、このときほど天皇が自己の感情と思想を、周囲をはばかることなく全面的に表出したことはない。
  自決の勅使を決起将校に出せばとの申し出にも、彼等との関係性を少しでも跡付けることを嫌って拒絶した。潔癖症のように衣服に何かが付着するのをあわててふり払うごとくだ。天皇の自決命令を受けとったならば将校は歓喜するのかもしれない。刑罰を一般的に司法から降されるのではなく、天皇自らとなれば、そこに天皇との強い結びつきができると彼等は信じるからだ。陸軍上層部もそう思っての同情にもとづいた申し出だったろう。三島由紀夫の「英霊の聲」にも、かかる勅令による自決の場面が空想として三島の願いがこめられて描かれていた。天皇も勿論そういうことを百も承知だったからこそとおざけて無機質な無関係性をつくり、貫こうとしたのだ。「未だ嘗て拝せざる御気色」という沸騰した感情に本庄武官長もたじろいだかもしれない。
  暴力によって歴史は動くが、短い言葉によっても動く。昭和天皇という人の素顔をこの場面で、わたしは見た気がした。
  二・二六は五・一五事件と異なり、一部部隊が組織として参画したのであるから当然陸軍全体の責任が問われるべきであった。天皇周辺は陸軍叱責の勅語を発しようとしたが、原案の言葉の峻烈さが天皇の意に反してかなり割り引かれたようで、天皇は不満だった。(1)「自分を、真綿にて首を絞むるが如く、苦悩せしむるものにして、」(2)「国体を汚し、其明徴を傷つくるものにして」という言葉が侍従武官府の修正案によって削除された。(1)は天皇みずからの激しい感情表現であり、陸軍にとっては不名誉かつ歴史的汚点と映ったのか。(2)は本庄武官長によれば、決起将校は天皇制を柱とする国家の在り方まで否定したのではないという反論がある。天皇と国家運営における意見相違があって、軍があえてみずからの意見を固守し行動したとしても、天皇の存在を否定することにはならないとするもので、二・二六決起将校擁護にもつながる論理だ。古川隆久はこの陸軍の横暴さを当然批判する。さて、この勅語は陸軍全軍にはたして伝達されたのか。寺内寿一陸相の意見で高級司令官までの伝達となり、一般的に知られることはなかったそうだ。陸軍の体面は保たれた。
  二・二六の前後から日中戦争、そして日米戦争開戦まで戦局は拡大の一途をたどる。昭和天皇は英米協調を重んじる平和主義者であったから、戦に傾斜しかかる場面ではことごとく慎重さを軍に要請し、ときには軍人を叱責したようだが、二・二六のときのような急進性は発揮しなかったようだ。天皇の影響力は健在であったが、軍と国務が一致しての政策決定ともなると、さすがに正面切っての反対はできなかった。またこの間の陸海軍と首相や外務省はじめとする国務間の政治的つばぜり合いはかなり複雑であり、本著のみでカバーしきれるものではなく、本著の目指すところでもなく、わたしの理解の届かない部分も少なくない。さて、昭和16年においては日米交渉が行きづまった。満州国の存立はともかくとして中国領内からの早期撤兵を日本は求められたが陸軍は応じず、開戦へとなだれ込んでしまった。ただ、天皇は戦争がはじまって間もない時期において、戦争の早期終結の準備をときの東条首相に指示している。
  だが、天皇も人の子というべきか。戦況の劣勢にもかかわらず反比例するように国民の戦意高揚がかさなる時期において、昭和天皇はそれまで見せたことのない、つまりは本著でこの段階までは描かれなかった顔を見せる。昭和19年<十月二十五日、ついにフィリピンのレイテ島で海軍航空隊による敵艦体当たりの特攻攻撃が始まった。十一月十三日、昭和天皇は梅津美治郎参謀総長に「命を国家に捧げて克くやって呉れた」と述べている(「真田日記」)(真田穣一郎=当時参謀本部第一部長(筆者註)>わたしはぎょっとしたのだが、考えてみれば無理もないことだと思った。国民の大部分が「鬼畜米英」「一億火の玉」などというスローガンのもと身命を傾斜させ、文字どおり擲っていたのだ。犠牲者の頻出にもかかわらず、国民自身のなかから戦をやめようという動きは表面化せず、むしろ戦意をふりしぼっていった。そういう時代であり、天皇もまた巨大なその動きに呑みこまれていき、国民との一体感を体得するとともに特攻の死者への敬意を忘れなかった。可哀そう、残酷という感慨も抱くのかもしれないが、そのうえでの「克くやって呉れた」ということだろう。
  古川によると、天皇の終戦構想が最初に表立ってでてくるのは昭和19年9月26日であるが、ただし無条件降伏を避ける「有条件降伏」であった。領土はゆずるにしても武装解除と戦犯処理は拒否しまた皇室を存続させるという条件で、そのためには局地戦に一度でも勝利し少しでも有利にしたうえで「講和交渉」に臨むという「一撃講和論」で、政府・軍においても意見の一致をみていた。だが如何せん「一撃」の実現されないままに時間はいたずらに過ぎていく。木戸幸一内大臣は何時の時期からか不明だが、降伏条件を皇室維持のみにしぼるよう説得をつづけて、やっとのこと天皇を同意させた。これが昭和20年5月3日のことである。だが天皇と政府・軍からは「有条件降伏」は表明されることはなく、依然として継戦が官民一体の意志でありつづける。ポツダム宣言受諾による終戦・降伏までに3か月を要する。
  乱暴かもしれないが、昭和19年のフィリピン海戦敗北の時点で、天皇が二・二六時のような決断を発揮してくれて「無条件降伏」でもいいから敗戦を受け入れてくれたなら、犠牲者はより少なく済んだことは明らかである。勿論、天皇がそう発言したからといって政府・軍がおいそれとは承知しないことは十分想定できるが、終戦は早まったかもしれないとの思いは抜きがたい。天皇にとっては戦犯にされるであろう軍人は忠誠者にちがいなかったし、皇室とは自分一人の命を指すのでもなかった。だが身近の人を擁護するあまりに広範な一般国民を犠牲にしたと糾弾されても仕方のないところではないか。終戦から今日に至るまでの歴史を当たり前のように知っているから、こんなことがいえるのかもしれないが。
  戦後、昭和天皇の退位論が天皇周辺からひそかにもちあがったようで、彼の戦争責任追及の内外の声に応える用意がととのえられていたのだ。だがアメリカ進駐軍は天皇の衰えない人気ぶりを見直して、戦後日本の安定的統治のために彼の地位を保証した。天皇自身もまた、退位した場合、類が他の皇族に及びかねないとの懸念からみずからが矢面に立つことによって批判を正面から受け止めようとした。
  読みどころの多い著であり、わたしが記した以外にも論点とすべき重要な個所がいくつもあるが後日にゆずりたい。ここまででお腹いっぱいになってしまった。また、陸軍の「暴走」ぶりに関する考察は本格的には為されないが、それは本著の担うべき分野ではないのだろう。



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古川隆久『昭和天皇』(1)

  現代史家によって昭和天皇の実像が彫琢される。著者は天皇にたいする一方的な排斥やまた真逆の擁護の観点からできるだけとおざかろうとし、おびただしい資料を駆使して客観性の定着に腐心する。だが天皇への評価や感想がまるでないのでもない。彼が平和主義者であり国際協調主義者であったことを持ち上げながらも、その追求の弱さを指摘することも忘れない。またその孤独が浮かび上がってくるし、日米戦争開始から敗戦までの期間の諦めや精彩を欠いた姿も見えてくる気がした。
  戦前戦中においては、天皇は一般国民によっては「現人神」であり且つ国家の最高指導者と見られていたのだから、その時代において国民を戦争に駆り立てた人物として見做されたことは無理ないどころか一般的だったといえるだろう。当然外国からも日本の「好戦性」の中心人物として見做されて、戦後は処刑論さえ台頭した。だがこれらは政治的な情報閉鎖のせいだ。天皇の地の声は一般国民には届けられることはなく、逆に天皇絶対主義のイデオロギーが戦争遂行の国策にともなって作られた。勿論、開戦の詔勅は天皇の名においてなされたのだから彼のいわゆる戦争責任は免れるものではないのだが。ともあれ、著者古川隆久によると昭和天皇の学術研究が本格的に始まったのは1970年以降という。それだけの時間的空白を挟まねば公開資料の充実が果たされなかった。
  創造され構築されるべき天皇像は宮廷によってすでに明治期から構想されたようで、帝王学とも呼ばれる教育によって昭和天皇にも結実させようとした。君主たる者は人格が高潔であらねばならない、質実剛健を旨とし贅沢を戒めねばならない、公平で個人的な好みで人を分け隔てしてはならない、知識豊富でなければならない、絶えず民の暮らしに気を配らねばならない、というような人物像が理想とされた。言葉はちがうが、わたしが読みなおせば記したようなことになる。主に儒教による「徳治主義」と呼ばれ、君主が高潔で立派であれば国は安寧するという見方だろう。これは、天皇という位そのものが、あらかじめ最高権力者であり、天照大神から連綿とつづく国家の最高位の神格者であるという記紀神話やそれを土台とした明治憲法の規定に逆らうものではないが、それらのみに安住して事足りるとするのではない。つまり開かずの扉の向こうに鎮座するという人物像ではない。存在だけを強固な影のように示せばよしとするのではなかった。一般民にできるだけ天皇の実像を公開することによってその威厳と権威を、また「人気」といわれる親しみを君主として広く定着させようとする意図であった。国民(当時は臣民や君民とも呼ばれた)の支持がないかぎり天皇制は存続が不安定になるという見方であった。もとよりそれを実現たらしめるだけの人格と知性を天皇が備えていなければならないという思いは天皇自身と天皇周辺に強くあったといわなければならない。
  昭和天皇は1901年(明治34)に生まれ、08年、学習院初等科に入学、1914年から21年までは東宮御学問所(高輪の東宮御所内に設置された)というところで勉学した。帝王学を学ばせんとする宮廷の配慮だろう。主な講義者は倫理学の杉浦重剛、「歴史関係」の白鳥庫吉、「法制経済」の清水澄(とおる)などであるという。さらに彼は21年3月から9月まで訪欧旅行に時間をさいたが、イギリスの「君臨すれども統治せず」という君主制度に共感を抱かされ、その親英的心情は生涯変わることはなかったという。たんに思想面での共感というよりも、イギリス王朝の人気と安定ぶり、さらにはイギリスという当時の第一級国家の繁栄ぶりも併せて、昭和天皇は羨望とともに幸福な気分を抱かされたのだろう。これらの学問や外遊によって昭和天皇の国際協調主義は、皇太子時代にはやくも錘をおろしたようだ。国際協調主義と御学問所における講義の関連性がこの著作だけではページがあまり割かれないため今一つ腑に落ちないが、またわたしはこれらの講義者の著作に触れる余裕もないが、天皇自身による確信がいちばんのウェイトを占め、彼の成長ぶりに接して宮廷の最側近の人たちも大いに意を強くしたのではないかと思えた。
  温室栽培という言葉が頭をよぎる。つまり、政治家や軍人など現役の政治・軍事に関わる人たちとは一線を画して、彼等との談論や進言を指しはませない場所で、彼の政治思想は彼の探求心もあって養成されたのだ。時の権力者である政治家や軍人(とりわけ後者)はみずからの政略的希望に合致する天皇像を願ったであろうが、土足で踏み荒らすようなことはできなかった。明治政府よりも皇室のほうがはるかに歴史が古いことは自明であるし、またその権威を憲法をつくったことにより計らずも政・軍担当者は認めざるをえなかったのか。宮廷の勢力もまたいたずらな政・軍の介入を勿論望まなかった。京都御所に政治的動乱から一歩離れてひっそりと伝統儀礼や文化の継承者としての役割を果たせば済むという時代ではなくなり、危機意識をにわかに持たされて、その結果やはり皇室・宮廷はその存続を第一義的に優先しようとしたのか、政治的には一歩も二歩も前に出る結果になるものの、やはりのその激動と混乱からは一線を画したかったのか、無知な筆者にはつまびらかにできない問題がいくつもある。
  「第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」「第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」「第一一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」「第一二条 天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム」大日本国憲法のこれらの条文を目にすると、天皇の権力は絶大で、誰にも逆らえない法制に映るが、実情はそうでもなかった。つまり軍人や政治家は自ら考え選択した政治的・軍事的方針を最善と少なくとも主観的には見做すので、天皇が反対意見を抱懐していて口に出したとしても容易には撤回しなかったし、そうしたとしても腹のなかではやはり自分の方針の妥当性を信じて疑わなかったのだ。
  満州事変(昭和6年(1931))満州国建国(昭和7年)五・一五事件(同年)国際連盟脱退(昭和8年)二・二六事件(昭和11年(1936))日独防共協定調印(同年)盧溝橋事件(昭和12年)ノモンハン事件(昭和14年(1939))第二次世界大戦(同年9月・ドイツのポーランド侵攻)日本軍北部仏印進駐、日独伊三国同盟調印(昭和15年)日米太平洋戦争開始(昭和16年)ポツダム宣言受諾による日本の降伏(昭和20年(1945))。
  これだけの激動と戦争の時代に昭和天皇は生きた。天皇は英米との協調を維持しようとしたので陸軍の大陸膨張に批判的であり、国際連盟脱退にも反対であったが、ことごとく押し切られた。「統治権」があるため、天皇は政府と軍の首脳に意見具申することができたが、不徹底な面もあった。古川の具体的局面での批判は筆者(わたし)の知識不足のために首肯すると受け売りになってしまうので今は書かない。言えることは、天皇側近が天皇と政・軍との激突を回避する傾向が抜きがたくあったことだ。もしも天皇が「激論」の末、押し切られることがあった場合、天皇のひいては皇室全体の威信低下を招くことが懸念されたというのだ。その恐れがあるときは、側近は、天皇を「開かずの扉」の向こうに隔離した。側近とは、宮内大臣、侍従長、侍従武官長、内大臣、元老を指し、このうち侍従武官や同長は軍からの派遣であるため、軍の意向に沿う意見具申を多く行ったようだが、それ以外の職掌の人々は天皇に概ね好意的で庇後に当ろうとした。
  1930年(昭和5)ロンドン海軍軍縮条約が締結された。日本に不利な条約で海軍は不満だったが、ときの浜口雄幸内閣は英米協調その他諸々の理由で締結を決意した。そのさいに天皇は浜口を呼び出して締結賛成の旨を述べ、浜口はそれによって気を大きくして締結への決意を最終的に固めた。(1)天皇の政府政策への具体的言及が政府の決定に影響を及ぼしたという例で、わたしは印象に残ったが、後日談ともいうべき事態が出来する。(2)ときの加藤寛治軍令部長(海軍の統帥部トップ)が天皇に二度にわたり会見を申し込むが、(3)鈴木貫太郎侍従長がこれを拒む、という動きである。加藤が何故浜口首相ではなく(浜口の加藤への説明のさいには加藤は反論しなかったと古川は記す)天皇に直截意見表明をしようとしたのかは不明だが、単なる抗議でなければあるいは天皇をみずからの手で動かそうとした、意見を変えさせようとしたのではないかという疑念が湧かないのでもない。(3)はそれを危惧した鈴木の行動か。古川はこの面会拒否を鈴木の独断であり「越権行為」と断定する。武官の皇室との面会の段取りは武官長がとりきめる規則になっていた。天皇側近のこの時代の天皇制内部からの維持存続の強引なまでの手法を見せられた気がした。(もっとも海軍内にも条約賛成派は多数いた)この条約問題では、国務側(政府)が軍部を押し切ったことになる。古川は天皇や浜口首相、それに元老西園寺の判断は正しかったと記すが、同時にのちに政府対軍の紛糾の種となる統帥権干犯問題が浮上してくるという指摘も忘れてはならないだろう。内閣が軍の方針に嘴を入れるな、という軍の主張で、帝国憲法第一一条、一二条を盾にする。大まかな国防計画は統帥部、予算措置は国務のそれぞれの専権事項と、帝国憲法では読めるようだが、軍縮条約締結がどちらの専権に属するのかが意見対立の根幹であった。統帥の関わりなしに決せられたことに海軍としては大いに不満だったのだ。


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