大洋ボート

三島由紀夫「剣」

  各種のスポーツ界における一流選手の条件とは何だろうか。まずは身体面における素質だろう。それぞれの競技に見合った体格が必要だ。それに筋力や持久力などのパワー、判断力と瞬発力、柔軟性がもとめられる。それらを土台として、向上心を以てたゆまざる鍛錬を自己に課して、全体的な自己のレベルを上向けていく。鍛錬(練習)を怠ると、たちまちにしてその水準は下がってしまうので手を抜くことはできない。そして実際の競技において自分でも思わぬほどの力の向上を目の当たりにすることができるようになる。相手との直接対戦の競技であれば、それまで互角の戦績だったものを難なく倒してしまえるようになる。こうなれば自信がつく。自由の感覚を、もしかしたら勝利を決めた瞬間に神秘すら遠望することになるのかもしれない。そしてまた慢心をいましめて鍛錬の時間に帰る。スポーツ体験としては、わたしは少年野球の世界しか知らない。あとはテレビでのスポーツ観戦から、こういうことを類推して記してみたので、誰でも書けることだろう
  三島由紀夫は昭和34年から剣道を始め、やがて有段者になったという。「剣」の発表は38年だからその間の体験が十二分に生かされている。わたしが先に記したことは彼にとっては至極当然のことかもしれず、「剣」ではスポーツ選手の精神的での素質やらその方面での鍛錬、また剣道部の同僚との人間関係に力点を絞って描かれている。
  国分次郎は某大学の剣道部の主将で、主将にふさわしい力量と人格の高潔さを買われている。秋の他大学との対抗戦に向けて、部員全員が合同練習に汗を流す。次郎にとって剣道に打ち込むことは「強く」なることは無論、それが「正しさ」を希求することにも合一化され一つになっている。個人には様々な欲望が渦撒いているだろう。世にもさまざまな誘惑があって、個人を招き寄せる。特に「若さ」は好奇心旺盛で、そういうものに引っかかりやすい。だが次郎にあっては剣道にしか興味がない。まったく恬淡とするのでもないが、目前に迫った試合に勝利すること、そこにのみ目標を据えることが彼にとっては自然体に近いものになっている。やがて結婚をして子供をつくり出世するという、誰もが夢見る「未来」は彼には眼中にない。つまり「幸福」と呼ばれる状態に興味なく、無視する。自分でも「強く正しい者になるか、自殺するか、二つに一つなのだ。」と極限するくらいだ。欲望が収斂されて禁欲に合流させているともいえるが、それを難なく身につけてしまえる精神的素質の持ち主として、次郎は描かれる。次郎はまた、そういう自分に課した厳しさが自然で当然なことだと思い、剣道部員にも同じ道を歩ませようとして疑わない。彼は清純ではあるが、寡黙でもある。つまり剣道部員相互の融和をより高めようとはあえてせず、厳しいが、自分に部員全員がついてきてくれるものと見做している。
  監督の木内はそんな次郎の正純性にもとづいた主将としての指揮に一抹の危惧を抱く。妥協性に欠けるようにみえるからだ。また1年生の壬生は次郎を尊敬してやまず、家族に毎日のように次郎の話を披瀝して、家族をあきれさせる。賀川はおそらく次郎とは同じくらいの年齢で、剣の使い手としては次郎に次ぐ2番手の位置を占める人だ。彼は彼なりに次郎に友情を抱くが、次郎は賀川から見ると壁をつくって深く交わろうとはせず、それが次郎という人の人となりと理解しえてもやはり不満である。嫉妬もあろう。彼等からの視線を多用して、次郎は描かれる。
  夏の合宿が伊豆半島の田子で行われる。禅寺を合宿所として近隣の中学校の体育館を稽古場として借りる。次郎は苛酷なスケジュールを部員に課す。竹刀を握るだけではない。朝食前の6時半からランニングや腕立て伏せではじまり、午後5時に実技が終わっても8時からは反省会があるという激しさである。きれいな海が目にちらつくが、次郎は遊泳禁止とした。「海が目に入るやうだったら、まだ練習に身が入っていない証拠なんだ。」と訓示する。
  事件が起こる。次郎が、監督の木内が視察に来るので港に迎えに行くために数人とともに留守にしたときである。賀川が部員に呼びかけ海水浴につれていく。監督が来ないうちならいいだろうと全員が応じた。ただ一人反対し、残ったのが壬生。憤怒にかられつづけて寺の本堂で正座をしつづける。「何か、強くて正しくて、晴朗なものが汚された。」だが反面「彼はずっとそれを予感していたやうな気もする。」どういうことだろうか。国分次郎という人に憧れ、金輪際ついていこうとする自分、その外面の体裁がしだいに偽善的に思えてくるのだ。次郎の傷つけられた誇りを自分の痛みのように感じるものの、折からの猛暑で汗まみれになる。耐えつづけること、その汗は、その源は無尽蔵なのか、そうではないのではないか。次郎についていこうとする人としての自分に代わって、本来的なありふれた人としての自分の姿がにわかに台頭してくるのだ。……わたしはイエスを裏切る弟子たちを連想せずにはいられなかった。
  賀川という人は剣の腕ではわずかに次郎に劣るものの、人間としては対等だという意識があり、自分なりの次郎への友情もあり、これは頑強であろう。
  禁を部員全員に破られた次郎の憔悴はいかばかりであろう。他人事ではなく、合宿の全行程を狂いなく終えることもまた次郎の自分に課した厳重な責務であり、それまで次郎は責務を放棄したり、他人によって破られることはなかった。信頼を寄せていたであろう壬生に裏切られたという事実も打撃だったろう。だが三島は、そういう次郎の内面を描かない。あっけないという言葉を使うしかなく、次郎は死を択ぶ。強いが脆い。これを美しいと呼ぶことには、わたしは躊躇いがあるが、感動に暫し立ち止まらざるをえない。秀作である。




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ブリッジ・オブ・スパイ

  1950年代後半の冬のベルリンの物情騒然としたさまが、一番に映像的に印象に残った。戦争の結果当時のドイツは東西に分割され、さらに東ドイツ領内のベルリンは唯一西側が支配する西ベルリンと東ドイツ領となった東ベルリンとに分割されていたが、ソ連軍が駐留する東ベルリンの住民がその苛酷な政治支配体制を嫌って西ベルリンに移住する事態が大規模に起ころうとしていた。そこでソ連は西ベルリンを壁で囲んで、その移住を阻止しようとかかり始めたのである。火がついたように焦燥にかられてあわてて西側に逃げ込もうとする東ベルリンの住民。難なく成功する人もいれば、ソ連兵に阻止される住民もいる。脱出できた住民はさらに西側の古ぼけたビルに上の階の人に手を指し伸ばされてよじ登っていく。まさに個人のその後の人生がこのいっときの運と不運によって大部分が決定づけられる瞬間だ。一方のソ連兵は、装甲車や戦車、さらには櫓に陣取った狙撃兵が警戒するなか、落ち着き払って任務を遂行するばかりだ。ブロック塀にセメントを塗って、一段ずつ積み上げていくソ連兵の粛々としたさま、その白く大きい冷たくも見える手が、たいへん憎々しくも見えた。彼らの日常的任務の無意識が、個人も敵対する国家も容易に突き崩すことのできない、たいへん冷酷な政治的現実をつくりあげつつあるからである。
  「壁」を中心とした俯瞰撮影では、ソ連兵やベルリン住民など多くのエキストラが動員される。また戦争終結後10年以上も経るのにいまだ瓦礫だらけの東ドイツの惨状も短く映される。予算規模の大きさがもとめられるのは必至で、「巨匠」と呼ばれるスティーブン・スピルバーグ監督だからこそ成しえたのであろう。
  書き遅れたが、映画の主題は米ソの罪人の交換で、それを交渉人として担うのが、保険会社の顧問弁護士のトム・ハンクス。米国内でスパイ容疑で逮捕されたソ連人と、ソ連領内で撃墜されかろうじて生きのこった偵察機のパイロット、さらに東ベルリン内でスパイ容疑で逮捕されたアメリカ人学生。ソ連人の国選弁護人を引き受けたところから、CIAによって彼に白羽の矢がたった。保険会社の弁護人のときはあまり気乗りのしない様子で交通事故の被害者に金を出し渋ったハンクスだったが、少しずつやる気を出してくる。しかし、おっかなびっくりの気持ちは最後まで彼を支配するようだ。CIAとアメリカはパイロットとの1対1の交換で十分と割り切るが、2対1という虫のいい交換条件にトム・ハンクスは固執する。人がいいのか、弁護士としてのまた愛国者としての責任感だろうか。
  彼が起用されたのは、国家職員ではなく民間人だからだ。初期の交渉においてトーダウンから入るのが適しているからだろうか。東ベルリン内のソ連大使館には、CIAの指示によって案内人無しに単独で行かされる。これはこころ細い。途上、不良っぽい若者のグループに囲まれる場面など怖い。
  映画の結果は書かないとして、東ベルリンを去る高架上の列車のなかから、ハンクスは壁を乗り越えようとしてソ連兵によって銃撃される住民数人をたまたま目撃し、涙目になる。ちょっと唐突な気がしたが、政治的現実の大きな壁全体をあらためて意識するのかもしれず、映画の主題の関連からすれば必要な涙目なのだろう。それに帰国してからの電車通勤の途上での窓外をぼんやり眺めるハンクスの眼差しがつながる。前後するが、ようやく自宅に帰ったとき、彼は妻と抱擁したのち、ベッドに俯せになって泥のように眠る。能力と度胸をすっからかんに使い果たした疲れが、どっと噴出して来たのであろう。この一連の演技、トム・ハンクスには説得力がある。
  60年前の話だからか、アメリカの家族は健全であたたかい。またアメリカという国家の抱える今日的な内外問題にはまったく触れないことは、映画の流れとしては当然なのかもしれないが、いささかの不満は残った。
   ★★★★
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