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三島由紀夫「翼」「真夏の死」

 「翼」は当文庫にしてわずか十八頁の短編であるが、非常に心惹かれるものがある。三島の自己解説によれば「戦中戦後を生きのびなければならなくなった青年の悲痛な体験を寓話的に語ったものである。私はこの種の短編で、むしろあらわな告白をしていたつもりであるが、当時この告白に気づいた人はいなかった。」とする。
  杉男と葉子は従妹同士で、年齢は二人とも十代後半で同い年かそれほどちがわないのであろう。療養中の祖母の隠居先の家によく行っては逢瀬をかさね、やがて淡い恋愛関係に自然に移行する。一方、戦争末期であるから東京などの大都会では度々の空襲によって多くの人が死に、それによって二人とも死の予感に支配された。単に怖れるのではなく、むしろ従容としてそれを受け入れようとしていた。生産不振によって東京の空はかぎりなく澄明になり、うつくしくなったが、それは杉男によって「死者の精霊の見えざる助力」によるのではないかと当たり前のように解釈された。日本全体が同胞意識の極限までの高まりに包摂されていた時期である。死者にやさしく導かれるように死に誘われるのであり、本人たちは残酷さよりも厳かさや雅やかさにむしろ抱かれる意識だ。だが、そういう特異な時期にかさなる恋愛とは、また十代後半という青春の真っ只中にかさなる恋愛とは、ただ死を受け入れるだけでは不満足ではないか。不満足という意識がないまでも、ひとりでにより大きい自由の空気をもとめてしまうものではないか。
  青春期の希望や幻想は途方もなく、それは至高のうつくしさを抱懐するとみなされるゆえに、逆に周囲には秘匿したいという欲求にも動かされる。それに肉体と意識がどこまでついていけるかはわからないが、少なくとも身丈よりも吊り上げられる。杉男は自身と葉子の「澄んだ目」に、そういう青春期特有の何の根拠もないものの楽天的な自信と確信があり、それによって世界の汚濁をことごとく浄化させられると信じてやまなかった。さらに「翼」である。二人は偶然に同じ電車内で一緒になり、背中合わせになって立ったとき、互いの背中に「溌剌たる別の力」を直観し、翼ではないかと羞恥とともに秘かな華やかさを相手に見出す。「澄んだ目」のありきたりさから奥かに手が届いた気になる。荒唐無稽ではなく、途方もない自由への幻想が杉男のなかで確信めいて露わになるのだ。「寓話的」とはこの翼のことに他ならず、自由というものの具象化だ。単に戦争の死を受け入れるばかりではなく、またそれを拒否するのでもないが、そこから逃亡することもまったく許されているという自由な翼。同胞意識に背くのではないものの現世から超越した特権的能力の持ち主で、甘美さのありあまる二人だと、杉男は幻想の虜になる。葉子の裸をせめて水着姿をみることで、翼の存在を確定したいと思いをつのらせる。だが杉男も葉子も互いの翼を信じつつも、自分の背に翼があること、また相手によってそれが信じられていることには長く気づかされない、ということも三島は書くことを忘れない。読者にとっては少し疑問でありまた歯痒い。恋愛においては相手の存在にその高みに何処までもついていきたいという意識は自然だが、自分もまたそれによって高められるという自己意識にまではなかなか気づかされない。謙虚さや自己卑下や「奥手」がそれへの直面を妨げるのかもしれない。恋愛を語るに足る体験的資格がとぼしいわたしではるが、書いてみた。かくして「翼」は自由とともに二人の絆をも具象化したものであろう。杉男は「奥手」であり、言葉によって相互理解を深められないうちに葉子は空襲によって死んでしまう。杉男は自分の肩の翼の存在を認めざるをえないのはずっと後のことである。それは過去が彼の肩にずっしりといつまでものしかかるようだ。
  ある限られた充実した時間は、その渦中にいる間はまるで上の空で、過ぎ去って一定の時間の隔たりを挿んでからでないと、その素晴らしさや深刻さは十分に客観視できないものかもしれない。杉男が後年気づくことになる肩の翼は、それが幻想であっても決して消滅することのない幻想であることを如実に示す。思い出の素晴らしさとはかなさが追いかけてきて、杉男に現在に立ち向かわせないがごとく憂鬱にし気だるさをもたらす。

  「真夏の死」は当文庫中、いちばん長く、短編というよりは中編、それも長編を凝縮したような趣のある中編というに適している。「ゆっくり筆馴らしをして書いた作品」と三島がいうように充実した一編。切れ味のいい包丁がつぎつぎに具材をてきぱきと切り刻んでいくような疾走感と力強さがある。朝子という女性に襲いかかった悲劇が冒頭にあって、それ以後の朝子の「悲劇」をめぐる意識の変遷を、また日常生活におけるその最終的な着地点を停滞なく描き切った秀作である。とはいえわたしにとっては難解さもあり、哲学的な風貌をももつ三島に接した気にもなった。
  朝子は伊豆半島の南端部に近い海水浴場に子供三人と義妹の安枝をともなって来ていた。波打ち際で波とたわむれていた六歳の清雄、五歳の啓子が高波にさらわれ、それを助けようとして海へ追っていった安枝も心臓麻痺を起して倒れる。結果、三人とも死亡し、やや遠くにいた下の三歳の克維のみ生きのこった。その間、朝子は宿の部屋で午睡していた。子供のお守り役を「老嬢」(未婚)の安枝に普段から頼んでいたからだ。つまり子供の死の直接の責任は安枝にあって朝子にはないことになる。だがそのことで朝子の悲しみと苦痛がやわらぐはずもなく、以後は、朝子が「悲劇」にたいしてどう向き合えばいいのか、どういう態度をとればいいのかと暗中模索し、自分を切り刻むように七転八倒するという経過が丹念に追及される。
  子供を二人同時に亡くしたということは、肉体を半分以上削ぎ取られたような欠損感があるであろう。朝子は錯乱し、他人に見えないところでは勿論泣きじゃくるのだが、駆け付けてきた夫とともに関係者によって事件が収拾されていくところから葬儀まで気丈にふるまう。しかし朝子は不可解さに大いに直面し、悲しみが一方的につのる中である種冷静さを以て凝視する。いくら泣いても泣き足りないのだが、泣くという自然な行為はまた悲しみの感情は、悲劇につりあうほどの力強さはなく、貧弱でしかない。朝子のこの自己印象は朝子個人にかかわるものだが、ひろく人間一般に当てはまる。また「悲劇」そのものがその非人間的な圧力を全開してさらに朝子を狂気におとしめないのか、自殺衝動に走らせないのか、という「何故」もあり、これも人間の一般性に広げられるだろう。何の罪もない子供二人が突然に死んだ。ここには根本的に非人間的な悪意が存在する。そういう得体のしれないものがこの世には存在してか弱い人間を時として呑みこむ。幸福な生活の蓄積など何の役にも立たなさそうに見える。不可解であり、怖ろしくもある。だが朝子が抱く不可解さとは人の命のはかなさ・あっけなさへのくやしさや悲しみも当然ながら、それとは別に「悲劇」にたいして人はいかに十全な精神的対抗をすればよいのかという問題意識であるようだ。朝子にはそれをにわかに発見できないもどかしさに引き摺られながら生きる。悲しみの渦中にありながらその核心部をつかみきって自己の感情として所有していく。核心部とのズレの即時の解消……。難解だが朝子のそれが切実な希望と化していく。

(略)守ろうとしたのは、死の強いた一瞬の感動が、意識の中にいかに完全に生きたかという試問である。この試問は多分、死もわれわれの生の一事件にすぎないという前提を、朝子の知らぬ間に必要としたのである。もしかすると彼女は、子供たちの死を見た瞬間に、悲嘆がおそうその以前に、すでに彼らの死を裏切っていたのかもしれない。


  「死の強いた一瞬の感動」とは何だろう。わたしは朝子自身の悲しみの感動ではなく、子供二人の悲しみの感動と受け取った。朝子が自分の悲しみにかまけてしまって子供たち自身の悲しみを「一瞬」にして受け止めることを忘れてしまったのだと解釈した。死者は自身では語れない。その無言のなかからわたしたちは悲しみと訴えを生者として聞き取って受け継がねばならない。過去にもどってやりなおすことは不可能としても、ようやくのようにそれを理解したうえでは何ができるのだろうか。死者の霊魂をこの世に呼び寄せることだ。立派な墓が完成しても飽き足りない気が無性に起こってきて、家族をつれて死の現場である浜辺を再訪する朝子。のちのちも繰り返されるであろうその行為が儀式と化したとしても、それに身を置くことに落着きと意義を朝子は見出すのだろう。
  だがこの終結部に達するまでの道のりをも三島は丹念に描き出す。生には生の快適さがあるものだ。時間の経過とともに朝子もそれを正直に感じずにはいられない。たとえば目覚めの朝が来て、窓の外の樋を雀の群れが歩く足音は朝子を微笑ませる。また朝子は芝居見物にさかんに通うようになったり、ミシン仕事に精出したりする。これは気晴らしという以上に、悲しみに忙殺された時間にたいして報われたいと願うからで、確実にそれが手に入るという目当てがあらかじめ用意されているのではない。また事件を忘れようとするのでもさらさらない。やがて朝子は四人目の子を懐妊し出産する。生はそのふんわりとした歩みを例外ないように朝子にももたらす。
  「真夏の死」は直接には語られないが「翼」同様、作者三島には戦時中が意識されているのかもしれない。「翼」は昭和26年、「真夏の死」は27年の作。あまりに大きい出来事は時間の隔たりを待ってしか十分に対峙できないということなのだろうか。少なくとも両作には『仮面の告白』の後半部がかもしだすある種のんびりした空気は希薄だ。


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松本清張「面貌」「噂始末」「白梅の香」

  徳川家康の子に忠輝という人がいたそうで、概略的な歴史記述には登場しない人物だから、わたしは知らなかった。「面貌」はその忠輝が主人公で、この短編がどこまで事実にもとづくのかわからないが、美形の百姓の女性に眼をつけた家康が側室にとりたてて生ませたのが忠輝である。皮肉なもので、忠輝は母親には似たところのない醜悪な面貌をしていて、家康は他の子供と同じようには可愛がらず、遠ざけたままにしていた。作者記述によれば、忠輝は自分の容貌が家康はもとより他人からは好まれないことを少年期から身に染みて知っていたとある。家臣のだれ一人とも親しい関係を築けなかった。だが「面貌」そのものが彼を不幸にしたとも思えない。彼が強いコンプレックスを抱きつづけたとしても、絶頂期には越後高田で六十万石を領している。家康の子の秀康が越前七十七万石、忠吉の尾張五十七万石と比べてもつり合いはとれている。家康は配慮を怠らなかった。家臣が忠輝に親しみをもたなかったのは、忠輝にしてみれば自分の容貌のせいとの思いがあったのはわかるが、家臣にしてみれば、忠輝が家康から疎んじられていることを知悉していて、家康亡き後の彼の身分の不安定さも視野に入っていただろうから、家康と秀忠の意向を尊重しながら忠輝に警戒心を抱くことは不自然ではないのだ。容貌にコンプレックスを抱く人物を松本はよく書くようだが、このあたり拘泥していてゆきとどかない気がする。忠輝が失脚するのは大阪夏の陣における忠輝軍西下途中の事件である。江州森山付近において忠輝の軍勢を追い越して行った二騎の武者がいて、無礼と思った忠輝軍の有志が追跡して斬殺してしまった。後にこの二人が秀忠の旗本であったことが判明し、忠輝は他家預かりの身分となり、何回かの移動の後、最終的には信州上諏訪地方の諏訪頼水の地で九三歳にて没したとある。武家の盛衰のはなはだしさが思われる。しかし、最後の数行まで面貌について書き忘れないのが松本清張である。
  「噂始末」は徳川三代将軍家光の上洛が背景になっている。一行の通行途上にある藩では宿泊を引き受けなければならない場合が生じたが、小さな藩にとってはこれが一仕事である。大人数であるために城内に仮屋に敷設するうえに、それでもまかないきれずに藩士の家に宿泊させねばならない。掛川藩の島倉利助もその役に与り、一人の武士を引き受けた。家には「容色に秀で」た若い妻と利助の母の二名のみで、当の利助はその日、将軍家光警固のために城にとどまって「徹宵」しなければならない。留守にしなければならないのだ。妻による接待はつつがなく済んだのだが、直後に悪い噂を流布した者がいる。妻とその武士が懇ろになったという。噂というよりも誹謗中傷にあたる類いだが、それは藩上層部にも伝わって家光帰郷のさいの同様の宿泊引き受けの役目から利助らのみ外される。利助にとっては面目をつぶされた以上に侮辱このうえなく、噂を流した当人を探り当てて斬殺し、藩の追っ手をも家に籠って白刃で迎え撃つという展開になる。武家の名誉へのこだわりの凄まじさ・苛烈さを要領よくまとめた好短編だ。無論、利助のような人ばかりではなく泣き寝入りする人も多かったのではないかと想像するが。
  「白梅の香」は大名の参勤交代が背景。「各藩の家来には定府(じょうふ)(江戸詰め)の者と国詰めのものとがあるが、国詰めの家来には江戸を知らない者が多い。定府の者も己れの本国の様子を知らない。」そこで大名が参勤の度に国詰めの家来から選抜して江戸へ同行させ、大名の在府の期間のみ江戸に留まらせる慣わしがあった。江戸を知ってもらうことや、江戸在住の同藩の家来との交流をはかるためであったか。そういう慣例のもと亀井藩(現在の山口県津和野)からは領主の参勤のさいに白石兵馬という二一歳の若侍が選抜メンバーの一員となった。兵馬は「眉目すぐれた若者」で、女性にたいへんな人気ぶりで、それは江戸に行っても変わらない。一方、兵馬は芝居見物に病みつきになる。その華々しさは地元津和野にはありえない「夢幻の世界」で、足繁く通うことになる。そこで年増の女性に目をつけられて、これまた夢うつつのように誘惑に乗ってしまう。居住する屋敷の者には無断外泊にあたったが、兵馬は言いつくろうしかなく、隠しおおせることができるとたかをくくった。だがこれがたちまち露見して、藩を揺るがす事件にまで発展する。……詳述は避けるが、ミステリー作家らしい鮮やかな筆さばきである。

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松本清張「西郷札」「シュウシュウ吟」「戦国権謀」

  「西郷札」は松本清張らしい構成たくみな一編。語り手は九州の新聞社の社員で、九州地域の文化資料の展示の企画を受け持つことになる。収集された資料のなかに「西郷札」なるものがあった。西南戦争のさなか西郷軍側が独自に発行した紙幣で、戦に資する物品をそれによって地元から買い上げるためにつくられたという。だが思うようには紙幣は流通することにはならず、西郷軍の敗北とともに「西郷札」は無価値となった。文化資料や骨董品の類でしかなくなってしまったのである。また、送られてきた西郷札には「覚書」なるものが添えてあり、筆者は西南戦争に参加し、紙幣の印刷も手伝ったこともある元薩摩藩士の桶村雄吾という人である。語り手は一読してひどく興味をそそられた。以下はその全貌の要約という進行をとる。わかりやすいように文語文を口語分に書き直すという手続きを踏んで。またときどきは「地の文」が引用の形で顔を出す。文語文が挿入されると平坦さから適度な緊張感がかもし出されて効果的だ。
  雄吾は失意の底から東京へ出る。俥牽き(人力車夫)の職をえてようやく生活が安定しかかったころ消息不明だった義理の妹(継母の連れ子)の季乃(すえの)とばったり出会う。俥のお客だったからで、高級官吏の妻として裕福な暮らしぶりだ。季乃はうつくしい女性で、そのために雄吾は同じ屋根の下にいる時はわざと邪険にしていたのだが、殺伐とした戦や雄吾の暮らしぶりを読んでここへくると、ぽっと灯りが点ったような気分になれる。家族の仲を復活させ、あたためあう二人。だがそれも束の間。季乃の夫の塚村(身分は大蔵省の太政官権少書記とある)が二人を邪推、嫉妬し、雄吾はじめ俥屋の主人やその知り合いの紙問屋の主人を策謀をめぐらせて陥れようとするのだ。西郷札を政府が買い取る用意があるという偽情報を「秘密裡」に三人に流して、小躍りさせる。当然のごとく現地鹿児島にとんで西郷札を買いまくる三人。……本文にふれられていたので知ったが、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎は、政府が旧藩札を買い取るという情報を得て当の藩札を買い占めて巨万の富を手にして財閥の基礎としたという。このことがフィクションであろう本編創作のヒントになったのかもしれない。
  松本清張は小心で嫉妬深いものの利巧で策謀には長けているという人物を描くのを得意とする人だ。雄吾や季乃のような善人よりも読者は自然とそういう人間像のほうにひっぱられる。もしかすると、松本自身の人柄も多分にそういう傾向を孕んでいるのではないかと邪推したくなるくらいだが、邪推であってもなくても感動に繋がることはない。巧妙な一編であることは確かにせよ。
  「シュウシュウ吟」の「シュウ」はワープロにはない。口へんに秋と書く。二文字つづけて記して虫や小鳥の鳴くか細い声を意味するそうだ。この短編も幕末から明治にかけての激変の時代が背景になっている。頭脳明晰でありながら、人として誰からも受け入れられず、毛嫌いされてとおざけられる、そんな呪われたような運命を変転する人物が描かれる。石内嘉門という御徒衆(軽輩)を親に持つ男で、同じ日に佐賀鍋島藩の息子・淳一郎、老中の息子・松枝慶一郎が生まれた。嘉門は十代のころであろう、儒学の講義を受けて並外れた理解を示し、若殿の家庭教師のような役目にも抜擢される。だが理由は読んでいてそれほど輪郭がはっきりしないが、若殿からきらわれ疎んじられる。儒学の師範もその才能を認めながらも「可愛気のない子」と切り捨てられる。そんな嘉門の唯一の友が語り手である慶一郎であるのだが、女性をめぐって二人のあいだで悶着があって嘉門は慶一郎の前から姿を消す。時すでに明治で、慶一郎も直大と改名した淳一郎も明治政府佐賀藩のなかで順調に出世をとげる。やがて慶一郎と嘉門は東京で二十年の月日を隔てて偶然の再開を果たす。「西郷札」の義理の兄妹とまったく同じだ。嘉門は変り果てている。板垣退助率いる自由党に所属して、政府批判の過激な記事を機関紙に書きまくり、慶一郎を名指ししての攻撃も厭わなかった。(当時、慶一郎は司法少丞という高位にあった)だがまたしても自由党の仲間からもうとまれて、なんと警察のスパイになってしまう。
  人物像が不鮮明で、受けを狙いすぎた書きぶりが不満だが、こういう人はいるかもしれないという感慨は残るか。自信過剰で出世欲が強く、相手かまわずどんどん押してきて閉口させる。家庭環境からくるのか、人との融和のすべと幸福を知らずに育ったと、あてずっぽうで補足してみたくなる。わたしもふくめてそういう傾向は大なり小なり持ちあわせているのだが。人間関係が苦手ならば、なるべくはそれを避けてひっそりと生活すればいいのにと思うが、欲望や復讐心が強すぎるとそうもいかないのか。
「戦国権謀」は徳川家康・秀忠の二代の父子の将軍に、同じく父子二代にわたって仕えた本田正信・正純の話。二人ともに同時に老職出頭人(複数居る老中のなかでの筆頭格ということか)という地位にあったことから、その権勢が頂点をきわめた時期があったようだが、最終的には、正純は秀忠によって改易(罷免)されたうえ、罪人として他家に預けられて幽閉の身におとしめられる。なぜか、正純は作者によって「シュウシュウ吟」の石内嘉門と共通点ある人物として描かれる。嘉門ほど極端ではないにしても、正純もまた頭脳明晰ながら人間関係における交情を形成することを怠ったからで、本人もそれに頓着しなくてもよい時代がながくつづいたからだ。正純も正信同様、家康につかえた経験があり、家康の政治や人事における志向をたいへん正確にしかも素早く理解して執行したことは父正信に負けず劣らずで、家康の信頼をうること十分であった。秀忠にたいしても正純は家康の意向を正確に反映させる助言を行い、瑕疵はなかった。だがそれは、秀忠にしてみれば父家康の権威を笠にきた押しつけとして、不快さをともなって受け取られる接し方であったようだ。平凡な器量に怜悧さをもって教え諭すという正純の自信が、秀忠にとっては息苦しく、憎々しい側面もあったのだ。だが正純はそういうことを軽視した。だから家康と正信があいついで死去した後、最高権力者となった秀忠が正純にたいして手のひらを返す態度をとりたくなるのは、読者にとっては容易に呑みこめる。
  一方の親の正信は「友人同士」と作者に記されるほどの信頼を家康からうることができた。一向一揆に味方して一度は家康に歯向かった身であるにもかかわらず、だ。また正信は出世欲においては恬淡であったことが記される。禄高の増量を家康から勧められても辞退して、家康を安心させたとある。それにたいして正純は秀忠からの同じ勧めを受け入れた。当然の報奨だと理解したのだろうが、権力者は自分の権力からの転落と臣下の反逆を、神経過敏なほどおそれるものかもしれない。それにしても武家の地位は不安定だ。「上」の恣意によってどうにでもされる存在だ。正信・正純父子もその権力によって多くの同僚や臣下の地位を剥奪した。
  松本清張は成功者よりも多く敗亡者に着目する。時代の激変という背景もさることながら、敗者となってしまった者の性格や資質にその因をもとめるようだが、そこには敗者への同情よりもむしろ隠された冷淡さをわたしは受け取ってしまい、いい読後感をえられないのは残念だ。博学の人ではあるのだが。


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