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三島由紀夫『愛の渇き』

  『愛の渇き』の発表は昭和25年(1950)6月で、三島由紀夫の長編小説にかぎっていえば前年の『仮面の告白』の次作の位置をしめる。その時間的な接近があり、またわたし自身つづいて読んだこともあり、両者の類縁性を強く印象づけられた。無論、両者はそれぞれ独立した小説である。『仮面』は幼少時から二十歳過ぎまでの人生を「私」が性を基軸にして事実という見せかけをもって一人称で語るという形式なのにたいして、『愛』の主人公は若い未亡人・悦子であり、作者三島は悦子をときには応援しながらも悦子との距離をとりつづけることを忘れない。だがそのちがいは表面的で、『仮面』で「私」が現実という土俵で成しえなかった行動を、小説という虚構を借りて女性主人公に引き継がせ、思う存分にやらせたのではないかと見た。『仮面』において書けなかった、書こうとしなかった、腹蔵されていた行動願望が一気に放出されたものとして読んだ。想像力とは断念された行動を輪郭づける。また三島の豊富な読書体験が、自らの肉体を本能のように貫くにまかせた同性愛を、男女の通常の恋愛に置きかえることを容易ならしめたのであり、その点でも並外れた筆力である
  『仮面』において「私」の思慕する相手は近江という何歳か年上の同級生(何年か留年している)で、その同年齢の男子には見られない壮年に近い肉体に「私」は虜になる。非理性的で、やくざっぽいところが窺われるのもその魅力を増す。だが「私」は彼に近づくことができず、まして思いを告白することなどできない。その面影を胸に刻み込んで抱擁しあう妄想をくりかえすことがもっぱらだ。やがて「私」は近江を断念するときがくる。「私」が非行動的であり、同性愛者としての出自がばれることを怖れるのも無論のことだが、「私」が重要視することが他にある。直接的には近江が退学処分を受けて姿を消して断念せざるをえなくなるのだが、断念はその直前からのようで、その理由のひとつは嫉妬である。近江は「私」からだけではなく、同級生全般から人気があり憧れの的となっていた。だれにでも経験があるのだろうが、嫉妬ほど厄介なものはない。片思いの相手をあきらめたつもりでも、相手が自分以外の人と仲のいいところを眼の前で見せつけられると平常では居られなくなる。不快を胸の奥深くたたみこもうとするが心理操作ができないのだ。愛の名残りが嫉妬という別の心理を本能的に掻き立てるようだ。だから当の相手が眼の前から姿を消せばほっとする。これは同性愛でも異性愛でもまったく同じだろう。嫉妬については、もう一つある。これはわかりにくい面もあるが、相手を競争相手として見做せばわかることがある。病弱で、貧弱な肉体の外見しかもたない「私」にとって近江はあまりにも遠すぎる存在なのだが、眼の前にいられると劣位意識を刺激してくるものだ。同性愛者=男色者は同性が相手だから、相手の外見に少しでも近づきたい、相似でありたいと願うものだそうで、この感情が同性愛に無縁の者にとっては即解できないものの、学業や仕事の方面に置きかえるとわかる気もする。あまりにも実力のちがいを見せつけられると、一緒に居たくない気がしてくるのは自然だろう。
  『愛の渇き』において三島はかかる嫉妬感情を反転させ、悦子をしてその真っ只中にのめりこませた。つまり嫉妬のつらさを乗り越えてまで、相手を強引に奪い取る存在として悦子を屹立させた。それが実現できるかどうかは二の次で、ともかくもそういう存在を小説の中に定着させてみたかったのだ。
  さらにもう一つ。『仮面の告白』の「私」には理性にたいする両価的な見方がある。述べたように思慕する相手には頑健な肉体とともに野生=非理性を望んだ。そうでなければ勃起しない。眼鏡をした男にはまったく惹かれなかったとも記される。だが相手を全面的に獲得したいと思ったならば、まずは接近して説得しなければならない。あなたの願いを全部受け入れてついていく、またあなたもわたしにたいしては同じでなければならない、そうでなければ生涯を仲陸奥ましく共に暮らすことはできない。たとえばこういう説得とその実現が愛であるならば、それは言葉を行使することで約束を交し合うことで、それこそが理性といわれるもので、相手にも理解と了解可能な理性をおのずから要求してしまうことになる。そうなると意に反して、相手の男は野性的ではなくなる。不可能ではあるが「私」は理性による会話なしのいきなりの相手の強奪を夢想するしかない。「そこで私はいつになっても、理智に犯されぬ肉の所有者、つまり、与太者・水夫・兵士・漁夫などを、彼らと言葉を交わさないように要人しながら熱烈な冷淡さで、遠くはなれてしげしげと見ている他はなかった。言葉の通じない熱帯の蛮地だけが、私の住みやすい国かもしれなかった。」とある。だがやはり『愛の渇き』の悦子はその反対を行く。言葉を行使して相手との愛を実現しようとする。この強引さが作者をして小説を推し進めさせるエネルギーとなる。
  悦子を精一杯気ままにふるまわせるような環境を作者はつくった。舅の杉本弥吉は元商船会社の社長で、引退してから大阪郊外に一万坪の広大な土地を購入して、農業で生計を立てている。そこに悦子は未亡人となった後、寄食する。他に長男で無職の謙輔とその妻の千恵子、シベリアに抑留されたままの三男・祐輔の妻浅子とその子供二人、園丁の三郎、女中の美代が同居している。悦子は弥吉と肉体関係があるが世渡りのための方便と割り切るようで、弥吉を「外部」と見なして恥じることはなく、また二人の関係を同居者は知るところだが皮肉っぽい眼差しはあっても非難はせず、黙認する。そういう環境にあって悦子が執着するのが三郎という二十歳未満の青年である。彼は『仮面』の近江をそっくりそのままもってきたような頑健な肉体を持った野性的で非理性的という特徴を有しており、さらに近江のそれに加えて「朴訥」で口数少ない。近江が周囲にふりまいたような横柄な態度を一家に見せないのは彼が雇用人の身分でその「階級差」からして当然だが、やはり無意識さはあり美代と仲良くなって妊娠させてしまう。嫉妬に苦しむ悦子だが、二人の仲を引き裂いて三郎を我が物にしようとして物語は展開する。悦子が三郎を好きなことも、その後の行動の目的も弥吉以下一家の全員の知るところになるが、やはり黙認する。
  紆余曲折がある。美代の妊娠が一家に知れたとき、弥吉は自身の体面のためにも二人を結婚させようとして、悦子にその要請を三郎にさせる。ところが三郎は乗り気ではなく、母も反対しているという。勿怪の幸いと喜んだ悦子は妊娠中の美代に暇を出す。薄情そのものだが、嫉妬の対象が眼の前から姿を消す快感に逆らえない。嫉妬の対象は『仮面』のときは愛する当の近江であったが、ここでは三郎ではなくむしろ美代である。弥吉も悦子を手放したくない一心で、悦子のふるまいを肯わざるを得ない。一家の長である弥吉の庇護を受けた悦子はやりたいようにやれる。そしていよいよ悦子の三郎にたいする「愛」の告白となる。三郎は天理教信者であるにもかかわらず「愛」は自身の理解の範囲外で、難解な観念でしかなく、代わりに悦子の自身への執着を見てとって肉体的強奪で応えようとする。悦子の望んだのは二人しての逃避行だろうが、三郎はそれを理解できずに安直な一時しのぎをもってその場を逃れようとするのだ。三郎の肉体に強い執着を持つ悦子であるが、一旦「愛」という理性の旗を掲げてしまうと容易には降ろせないということだろう。悦子は三郎を拒みつづけるうちについに三郎を殺害するに至る。妥協するどころか、悦子は理性なるものをさらに先鋭化させた結果だ。
  三島の力量は目論見どおりに細大漏らさず書ききってしまえるところにあるが、この結末はあまりにも概念的過ぎて見えなくもない気がした。つまり、書いたように三島が内部に貯めこんで『仮面』には必然的に書かれなかった、自身の世界における理性と肉体との関係についての考察の延長線上にあるものとしての物語性が『愛の渇き』においては構築され展開されているのだが、それ以外のあらたな現実が提出されたとはいえない。作者がこうだと思う現実が『仮面の告白』と同一だ。贅沢な物言いになるが、新しい感動にまで読者は攫われていかない。
  ケチをつけるばかりではない。文学はこうでなければならないと大いに共感できた場面があった。怖れの対象が同時に不可解かつ言いようもなく引き込んで止まない磁力で居合わせた者に働きかけることがある。『仮面』においてその一つが「私」が幼少期に遭遇する夏祭りにおける神輿を担いで練り歩く若者衆の一団である。あらかじめの了解がなされていたのであろう、その一団が「私」の家の門内に侵入してきて前庭が踏み荒らされる。大人に引っぱられて二階に避難する「私」であるが、子供だから当たり前の恐怖心とともに『仮面』の主人公らしく見るべきものを眼に焼き付ける。「が、唯一つ鮮やかなものが、私を目覚(おどろ)かせ、切なくさせ、私の心を故しらぬ苦しみを以て充たした。それは神輿の担ぎ手たちの、世にも淫らな。あからさまな陶酔の表情だった。……」とある。『愛の渇き』においては、作者は悦子をしてこの不可解さと磁力を投射してやまない若者の一団に「投身」させる。同じく祭りの場面を近くで見守るうちにそうなるのだが、中心部には三郎もいて、『仮面』においては自ら積極的に近づくことのできなかった近江の再現された姿であり、両者が二重写しになって反転される。神社前の広庭の中央には篠竹が組み合わされた篝火が燃え盛り、獅子舞の面と衣装を冠った先頭の数人に何百人という若者が提灯をかざして血気盛んについていく。三方にある鳥居に囲まれたその広場で獅子は乱暴狼藉の進み方をして、ときには取り囲む見物人のエリアにまで雪崩れこむ。興奮した見物人のなからもひしめき合いの渦に混ざり合う人々もいる。
 

 悦子の足は、彼女の意志の羈絆を離れて、このひしめき合う一団のあとを追った。うしろのほうで謙輔が、悦子さん、悦子さんと呼ぶ。千恵子らしいけたたましい笑い声も、これにまじってきこえる。悦子は振向かない。彼女は内面的なものがあいまいな不安定な泥濘の中から立上がって、彼女の外面へ、ほとんど膂力のような一種の肉体的な力になってひらめき出るのを感じた。人生には何事も可能である、普段の目が見ることのできない多くのものを瞥見し、それらが一度忘却の底に横たわったのちも、折にふれては蘇って、世界の苦痛と歓喜のおどろくべき豊饒さを、再びわれわれに向って暗示するのであるが、運命的なこの瞬間を避けることは誰にもできず、そのためにどんな人間も自分の目が見得る以上のものを見てしまったという不幸を避けえないのである。……悦子は今なら出来ないことは何一つなかった。頬は火のようである。無表情な群衆に押されながら、正門鳥居のほうへ半ばつまづきながら駈けるうちに、彼女はほとんど最前列に在った。襷をかけた世話役の団扇が胸に当っても、その打撃は一向に感じられない。麻痺状態とはげしい昂奮とがせめぎ合っていたのである。


  悦子はまもなく三郎の背にたどり着くが、三郎は悦子に気づかない。その「浅黒い肉付きの見事な背中」「その肩甲骨のあたりの肉の揺動は、羽搏いている翼の筋肉のように眺められる。

  悦子の指はそれに触れたいとひたすらにねがった。どういう種類の欲望かはわからない。比ゆ的にいうと、彼女はあの背中を深い底知れない海のように思い、そこへ身を投げたいとねがったのである。それは投身者の欲望に近いものであったが、投身者の翹望するのは必ずしも死ではない。投身のあとに来るものが、今までとは別なもの、兎にも角にも別の世界のものであればよいのである。


  怖れかつ異常なまでに惹きこまれる対象は、いつまでも記憶に引っかかる映像ではあるが、そのまま放置するのではなく、逆にそれを押し戻してみたい、力をためてそのなかに果敢に没入してみたい、という欲望にかられるのだ。実際の現実の場面においてそれを為すことができるのならそれもよい。だが現実とはあまりにも雑駁な要素がまぎれこんでいる。また現実という俎上においては不可能な場合もあるだろう。それを文学は対象を的のように絞り込んで挑戦する。たとえ虚構としてしか成立しなくても、作者にとっては一歩も二歩も踏み込んだ成果がえられれば、かまわない。文学的欲望の進展となる。引用した部分は三島の筆がもっとも生き生きして、小躍りしているみたいだ。


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犬二匹

祈りが逃げる
尻尾を巻いて逃げる犬の
黒々とした尻尾が
脳漿に刻まれる

とぼけが熔ける
ハンダ棒がじゅっと熔け
板につく
慇懃が板につく

飼い犬の額を押して
ドアを押して入っていく
ごまかして胡麻を撒いて
芝生にはたっぷり水を撒いて

よしよしよし

    12:47 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

陰謀

今日はいい天気ですね
そうですね
明日は雨ですか
そうですね

高層ビルの長い首
キリンよりもずっとずっと長い首
列車でも走らせようと云うのか
苦しい姿勢で見上げた後
互いに顔を見合わせる暫しの感嘆
音符や風船
その幸福色

造ってはこわしこわしては造る
何一つ造りもしないこわしもしない
それはあなた
陰謀をガムのように奥歯に隠した風情のあなた
    22:19 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
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