安部公房「空中楼閣」「闖入者」「水中都市」その他
小説・エッセイ・戯曲
安部公房は言われるように私小説要素のきわめて少ない作家であり、空想やパロディを駆使して作品によっては荒唐無稽に受けとられる独特の物語世界をつくりあげる。同じことだが、だれにでも固有の時代や環境があって人によってはそれらへの反抗があって結果固有の自己の核が形成されるのだが、書かれたものからそれらへ直接的に遡行することが不可能である。のみならず、個々の作品の字面は理解できたとしても、作家をして書かせたところの彼の根本的な欲求が何なのか即座につかみとることがたやすくはない、やや難解さをもった作家ということができようか
「空中楼閣」は失業中の主人公が住むアパートの前の電柱に「求む工員 空中楼閣建設事務所」というビラが貼られてあるのを主人公が眼にするところから始まる。仕事内容も所在地も記載されていないので普通の人なら一笑に付すのが関の山であるはずだが、なぜか主人公の青年は執着する。職探しのために藁にもすがる思いというのではなく、青年はむしろ空想壁の強い人らしい。世間や社会といったものがときには自分にだけ好都合に物を運んでくれる場合があるとの思い込みだ。アパートの住民にのみ、もしかしたら自分にのみそのビラは注目されるために貼られたのではないか。青年は何の当てもなしにこの事務所なるものを探しもとめるちょっとした探索行が始まる。道中の詳細は省くが、「空中楼閣」の言葉に少なからず反応する何人かに青年は出会う。同じアパートの住民で気象台に勤める男は、それは高気圧のことだという。大きな屋敷に住む政治家は新たな独裁体制確立のための原理という。知り合いの詩人は子供たちが夜ごと見る夢のなかの塔をまさしく「空中楼閣」と勢い込んで断定し、それを消え去らないように昼間に定着させるための具体策を立案・実践するのだとして主人公をも勧誘する。さらには工場前で焚火を囲んでストライキの真っ最中の青年労働者の群れにも遭遇する。スト決行中のビラの中に例のビラが発見されると、青年はスト破りと誤認されて暴行を受け気絶する。気づくと海の中を泳いでいて、自分の住むアパートの前の電柱に辿り着き、今しも例のビラを貼り付けている「軍服の男」を発見する。憎悪をつのらせた青年はナイフで男を突き刺すが血ではなく白い砂が流れ落ちるばかり。逆に男によって青年は殺される。
ながながと筋書を書いてしまったが、何を読み取るべきだろうか。「空中楼閣」という言葉への人それぞれの思い込みがあってのそのすれちがいということもあるが、それよりも青年の被害者意識の特異性にわたしは注目した。「軍服の男」はたぶらかすことに巧みであったのではなく、それをもたらしたのは青年の空想癖とお人よし加減であるが、青年はそれに最後まで気づかないということだ。それともそんなことをふり返る暇もなく疲労して襲撃したのか。主人公の青年は作者そのものではなくその分身とみなしたい。安部公房は1924年生まれで、戦争を青少年期に通過した世代に当たる。「軍服の男」という設定は戦争を何らかの意図で反映したものかもしれない。
「闖入者」は主人公のアパートの部屋に真夜中九人の家族連れが押し入ってきて、自分たちの部屋と主張しそのまま居座ってしまうという話。勿論主人公の青年は追い出そうとするが多勢に無勢、「家族」には屈強な若者もいて腕力ではかなわないと来る。アパートの管理人や派出所の警官にも相談するが相手にしてもらえない。絶望的な状況が最初に主人公に現出してついには最後まで変わらないということではカフカの諸篇を容易に連想させる。カフカとのちがいは、カフカにおいては執拗に抵抗する粘着質が主人公に備わっておりやがて悲哀がにじみ出てくるのにたいしてこの短編の主人公はやや淡白で、ドタバタ喜劇の印象をもたらす。(勿論カフカにもその要素はある)わたしが注目したのはこの「家族」の作者の書きっぷりで、一見ばらばらで言い争いが絶えないものの最後には合意が成り立って「団結」が維持されるという点で、主人公の心模様にもまして作者は盛り込む。そこからもたらされるのは主人公の家族内でのみ成立しうる親和からの疎外感であるのかもしれないということ。自分だけが何かしら変わった人間ではないかとふと疑いたくもある孤独感だ。無論、青年は家族の仲間に成りたがっているのではなく、わたしの勝手読みかもしれないが。結末は省略するが、「空中楼閣」と同じく主人公のひ弱さと卑小さが読後感としては残る。それも作者の計算内だろうが。
「水中都市」はめずらしく作者の書きつつあるさなかの自在感を感じさせる。安部公房は事前に筋書を完璧なまでに構築したうえで書き進めるタイプの作家ではないかと思わせ、つまりは書く前に書き終わっているような印象をわたしは抱いてしまうが、ここには書く「現場」の楽しみといったものが流れ出しているように思えた。また前二作よりも少し複雑でもある。一人称「おれ」の前口上で始まる。<おれは魚にはなりたくない><水に沈んだ風景を見るのがおれは好きで、それはおれの空虚さを埋める可能性を有している>。かいつまんで言えばこういうことで、例によってこれだけでは何を指すかわからないが、やがてこの口上どおりのことが起きる。
主人公には「現実」の何たるかを知りたいという願望があり、職場の同僚である間木も同じ思いを持っている。かぎられた経験の中から個人にもたらされる言葉は断片であって、現実という大きな枠組みとは無縁だという。間木は自分たちの勤務する工場の水に沈んだ風景を絵に描きつつあって、主人公もそれに注目している。物語が動きはじめるのは主人公の父を自称する男が彼のアパートに押しかけてきてやがて居ついてしまうというところからだ。「闖入者」とのちがいは、相手が一人だから追い返そうとすればできそうにも見えるものの主人公はそうせずに相手にしないまでも居座るにまかせるという状態が何日かつづく。だが父が「妊娠」したと告げ、やがて「脱皮」して魚になって事態が急変する。アパートの部屋が「水っぽく」なって主人公と間木は水の中を泳ぐはめになる。彼等は魚になったのではなさそうだが、どうやら人として水中を自在に泳ぎ回れる能力を自然に身に着けたらしい。そこで地上で顔なじみの共産党の新聞売りやら刑事やらが出てきて、また登場しないものの警察に逮捕された父の話が出てくるという騒ぎがあり、やがて間木の描いた絵と同じ風景に出くわす……。筋書はどうしても粗くならざるをえないものか、もっと上手く書けないものかと、とくにこういう荒唐無稽な話について記すと、そんな思いが湧いてなんだか馬鹿馬鹿しくなるが、それをおくと、父がぱんぱんに膨張してやがて魚になるあたりから作者の思想性やらからは自然に離れることができて自在な気分にひたれる。環境が変わり、個体として特異な能力を、降ってわいたように身に着けることができる。それだけでは何ら「現実」を把握することにはならないが、より接近することができるのではないか、とにかくも楽しさはあるという思いにはさせてくれた。主人公の切望はなんら進展を見ることはなさそうだが。
「鉄砲屋」も才筆で感心させられると同時に、ここで笑えよと言われるような押しつけがましさがなくもない。武器商人が小さな島の島長に与太話をもちかけて銃を大量に売りつけ、やがて隣の島との抗争にまで引っぱって行き自滅させる、という話。「“馬の目”島」の住民は日本人でガラパス人の商人はアメリカ人を暗示する。外国人劣等感に凝り固まった島長がやすやすとだまされる。戦争批判がこめられているのか、いや島長はあまりにも低レベルで、文字で書かれた安っぽい落語の印象がのこった。
強調文
「空中楼閣」は失業中の主人公が住むアパートの前の電柱に「求む工員 空中楼閣建設事務所」というビラが貼られてあるのを主人公が眼にするところから始まる。仕事内容も所在地も記載されていないので普通の人なら一笑に付すのが関の山であるはずだが、なぜか主人公の青年は執着する。職探しのために藁にもすがる思いというのではなく、青年はむしろ空想壁の強い人らしい。世間や社会といったものがときには自分にだけ好都合に物を運んでくれる場合があるとの思い込みだ。アパートの住民にのみ、もしかしたら自分にのみそのビラは注目されるために貼られたのではないか。青年は何の当てもなしにこの事務所なるものを探しもとめるちょっとした探索行が始まる。道中の詳細は省くが、「空中楼閣」の言葉に少なからず反応する何人かに青年は出会う。同じアパートの住民で気象台に勤める男は、それは高気圧のことだという。大きな屋敷に住む政治家は新たな独裁体制確立のための原理という。知り合いの詩人は子供たちが夜ごと見る夢のなかの塔をまさしく「空中楼閣」と勢い込んで断定し、それを消え去らないように昼間に定着させるための具体策を立案・実践するのだとして主人公をも勧誘する。さらには工場前で焚火を囲んでストライキの真っ最中の青年労働者の群れにも遭遇する。スト決行中のビラの中に例のビラが発見されると、青年はスト破りと誤認されて暴行を受け気絶する。気づくと海の中を泳いでいて、自分の住むアパートの前の電柱に辿り着き、今しも例のビラを貼り付けている「軍服の男」を発見する。憎悪をつのらせた青年はナイフで男を突き刺すが血ではなく白い砂が流れ落ちるばかり。逆に男によって青年は殺される。
ながながと筋書を書いてしまったが、何を読み取るべきだろうか。「空中楼閣」という言葉への人それぞれの思い込みがあってのそのすれちがいということもあるが、それよりも青年の被害者意識の特異性にわたしは注目した。「軍服の男」はたぶらかすことに巧みであったのではなく、それをもたらしたのは青年の空想癖とお人よし加減であるが、青年はそれに最後まで気づかないということだ。それともそんなことをふり返る暇もなく疲労して襲撃したのか。主人公の青年は作者そのものではなくその分身とみなしたい。安部公房は1924年生まれで、戦争を青少年期に通過した世代に当たる。「軍服の男」という設定は戦争を何らかの意図で反映したものかもしれない。
「闖入者」は主人公のアパートの部屋に真夜中九人の家族連れが押し入ってきて、自分たちの部屋と主張しそのまま居座ってしまうという話。勿論主人公の青年は追い出そうとするが多勢に無勢、「家族」には屈強な若者もいて腕力ではかなわないと来る。アパートの管理人や派出所の警官にも相談するが相手にしてもらえない。絶望的な状況が最初に主人公に現出してついには最後まで変わらないということではカフカの諸篇を容易に連想させる。カフカとのちがいは、カフカにおいては執拗に抵抗する粘着質が主人公に備わっておりやがて悲哀がにじみ出てくるのにたいしてこの短編の主人公はやや淡白で、ドタバタ喜劇の印象をもたらす。(勿論カフカにもその要素はある)わたしが注目したのはこの「家族」の作者の書きっぷりで、一見ばらばらで言い争いが絶えないものの最後には合意が成り立って「団結」が維持されるという点で、主人公の心模様にもまして作者は盛り込む。そこからもたらされるのは主人公の家族内でのみ成立しうる親和からの疎外感であるのかもしれないということ。自分だけが何かしら変わった人間ではないかとふと疑いたくもある孤独感だ。無論、青年は家族の仲間に成りたがっているのではなく、わたしの勝手読みかもしれないが。結末は省略するが、「空中楼閣」と同じく主人公のひ弱さと卑小さが読後感としては残る。それも作者の計算内だろうが。
「水中都市」はめずらしく作者の書きつつあるさなかの自在感を感じさせる。安部公房は事前に筋書を完璧なまでに構築したうえで書き進めるタイプの作家ではないかと思わせ、つまりは書く前に書き終わっているような印象をわたしは抱いてしまうが、ここには書く「現場」の楽しみといったものが流れ出しているように思えた。また前二作よりも少し複雑でもある。一人称「おれ」の前口上で始まる。<おれは魚にはなりたくない><水に沈んだ風景を見るのがおれは好きで、それはおれの空虚さを埋める可能性を有している>。かいつまんで言えばこういうことで、例によってこれだけでは何を指すかわからないが、やがてこの口上どおりのことが起きる。
主人公には「現実」の何たるかを知りたいという願望があり、職場の同僚である間木も同じ思いを持っている。かぎられた経験の中から個人にもたらされる言葉は断片であって、現実という大きな枠組みとは無縁だという。間木は自分たちの勤務する工場の水に沈んだ風景を絵に描きつつあって、主人公もそれに注目している。物語が動きはじめるのは主人公の父を自称する男が彼のアパートに押しかけてきてやがて居ついてしまうというところからだ。「闖入者」とのちがいは、相手が一人だから追い返そうとすればできそうにも見えるものの主人公はそうせずに相手にしないまでも居座るにまかせるという状態が何日かつづく。だが父が「妊娠」したと告げ、やがて「脱皮」して魚になって事態が急変する。アパートの部屋が「水っぽく」なって主人公と間木は水の中を泳ぐはめになる。彼等は魚になったのではなさそうだが、どうやら人として水中を自在に泳ぎ回れる能力を自然に身に着けたらしい。そこで地上で顔なじみの共産党の新聞売りやら刑事やらが出てきて、また登場しないものの警察に逮捕された父の話が出てくるという騒ぎがあり、やがて間木の描いた絵と同じ風景に出くわす……。筋書はどうしても粗くならざるをえないものか、もっと上手く書けないものかと、とくにこういう荒唐無稽な話について記すと、そんな思いが湧いてなんだか馬鹿馬鹿しくなるが、それをおくと、父がぱんぱんに膨張してやがて魚になるあたりから作者の思想性やらからは自然に離れることができて自在な気分にひたれる。環境が変わり、個体として特異な能力を、降ってわいたように身に着けることができる。それだけでは何ら「現実」を把握することにはならないが、より接近することができるのではないか、とにかくも楽しさはあるという思いにはさせてくれた。主人公の切望はなんら進展を見ることはなさそうだが。
「鉄砲屋」も才筆で感心させられると同時に、ここで笑えよと言われるような押しつけがましさがなくもない。武器商人が小さな島の島長に与太話をもちかけて銃を大量に売りつけ、やがて隣の島との抗争にまで引っぱって行き自滅させる、という話。「“馬の目”島」の住民は日本人でガラパス人の商人はアメリカ人を暗示する。外国人劣等感に凝り固まった島長がやすやすとだまされる。戦争批判がこめられているのか、いや島長はあまりにも低レベルで、文字で書かれた安っぽい落語の印象がのこった。
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