大洋ボート

片山杜秀『未完のファシズム』



  日本陸軍の軍事思想の紹介と考察の書で、この方面には無知同様のわたしには啓発されるところがあった。
  第一次世界大戦期において日本は「漁夫の利」を占めて大いに潤った。世界的な物資不足のおり日本は輸出を増大させ、設備投資もにわかに大規模に行われはじめた。その分欧米列強との国力の差が縮まり、大国の仲間入りが意識されはじめた。だがたとえばアメリカと比べるとその差はまだまだ歴然としている。アメリカが「持てる国」なら日本は「持たざる国」であることを免れない。そこで到来するであろう次回の戦争にたいして日本国家はいかに体制を整えて対処すべきかが研究された。陸軍においては「皇道派」と「統制派」と呼ばれる二つの派閥が存在して、それぞれが特徴的な軍事的姿勢を明らかにした。前者の代表的人物として紹介されるのが小畑敏四郎(としろう)で、一九二八年の『統帥綱領』において「短期決戦・包囲殲滅戦」を主張した。これは鍛え抜かれた不屈の精神力と体力と作戦の巧妙さをもって敵を一気に壊滅させることを主眼とする戦争である。その際敵の軍団はできれば弱小であることが望ましい、つまりがっぷり四つで対峙することは避けて全軍的で短時間で完遂される奇襲攻撃のみが推奨される。一方の「統制派」の代表として紹介されるのは石原莞爾。日本を「持てる国」にするために生産体制を国家的規模で統制し計画経済化して、軍事大国化をいち早く達成しようとするものである。短期決戦による勝利などとても望めないというわけだ。また両派に共通するものとして兵における士気の絶対的高揚が条件づけられる。わたしには両派とも好戦的姿勢が露わにしか見えないが、著者の片山によるとそうでもない、「顕教」にたいする「密教」なるものが腹蔵されていたという。そういうものかと思った。
  皇道派は日本はそう簡単に「持てる国」にはなれないから長期持久戦に追い込まれるような戦はすべきではない。よほど敵が弱小でないかぎりは戦を避けるべきだという「密教」があった。また国民の自由を縛るような計画経済化にも反対であった。統制派もまた裏返せば「持てる国 」に成らないうちは戦に踏みこんではならないという「密教」があったという。しかしこの「密教」的な肝心の部分は国民的にはあからさまには流布されずに好戦的気概のみが喧伝されたことは知られるところであろう。
  一九三一年の満州事変以降、日本は戦争の泥沼に踏みこんでしまい、後戻りできなくなった。もとより好戦的気分が国民全体を蔽い、後戻りの論議など微塵も起きなくなった。一九四〇年はじめ「生きて虜囚の辱めを受けず」のフレーズで有名な『戦陣訓』が発表・配布され軍の教材として使われた。片山はその作成に深く関わり、東条英機のブレーンでもあったという中柴末純(すえずみ)を紹介する。片山によると中柴は「日本陸軍の歴史の中で最も神がかった精神主義を唱えた」人物である。読んでいて嫌になるが、もはや戦略的見地などまったく後退している。ただただ兵の精神性を喧伝顕彰するばかりで、天皇の絶対性と結び付けられて兵一人一人の死が天皇の全体的な生を実現する、同時に日本国家の建設と持続を永続ならしめるというものである。勝利も敗北もない、勝利があるとすれば死に突入して日本兵の精神的優位性の証とすることだという。死ね死ね死ねというのだ。国家的ナルシズムというべきか。ここからは玉砕も神風特高も自然に視野に入ってくるであろう。鬱陶しい。ただこういう空気を中柴という人がひとりで創り出したのではなく、国家全体の空気に同調しようとしたにすぎないのかもしれないが。
  題名の『未完のファシズム』とは明治憲法の制約によって軍部も内閣も天皇も独裁体制を敷くことができなかったという見解からくる。強いてそれを実現できた可能性があるのが天皇であったが、天皇は消極的であったという。同じ主題は他の研究者によって追究されているのかもしれないが、あまりページは割かれていない。

スポンサーサイト
    14:12 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

後日譚

直線を
引き出しから取り出す
埃を指のブラシで払う
頭が丸くなっている
伸びしろはまだまだあるのだろう
誰かが手をつけるかもしれないから
神を自称する両手で隠す
鋏の直線

栄養のアンバランスな血が滞留している
直線の頭の球面
黒い汗にじませた少年が見上げる
わたしが忘れた夏
いたずらめいてしゃがみ込む鋼管の内
遠くには西瓜
贋の未来に恍惚となる
わたしはわたしを暫し忘れるが
寧ろその時にこそ
衆目の視線に晒されているのではないかわたしは
眇めと豚と友情のかぎりない悪臭には
習性によって鈍感である
逃げても逃げきれない
言葉にリボンをつけて返さなければならない
悠長さの欺瞞 
健康の倦怠
手傷は武器になりうると嘯く直線
引き出しからはみ出た
紙魚
    13:35 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

春日和

頷いただけ
移動したのでも
壁に釘を打ち付けたのでもなかった
些細な出来事
どうしてそうなったのか今
なつかしい
銅版画の少し以前の時間にはもうもどれない
頷いただけ
天から降ってきた空耳が
別の蛹の空耳にべったりとはりついた
頷いただけ
鳥はこの空を今ものどかにとびまわっているが

窓の向こうを掠める影
手に鳶口をもった大男の後ろ姿
ふさふさした
白い暈がついていく
毛の一本がはなれてゆらゆら
毛からさらに毛が生えて
春の馥郁とした大気の心棒のなか
きっと獲物を探しているんだろう
わたしは巻き尺を垂らしてぐるっと一周する
それから何も撒かない
大きな岩の畔に咲く花
金色の露が
大きくなり小さくなり
滑り台からゆっくり落下する
失敗した幼い詐術にあれこれと悩む時間があるんだろう
とぼとぼと
わたしたちに帰宅すべき家があるのは幸福
頷いただけ
ふてぶてしさはかえって育つ
チューブを押すとどろっと貌を出す虫歯
穢れた血を総入れ替えしなければならないのに
    13:28 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

吉村昭「鯛の島」「珊瑚礁」

  「鯛の島」は瀬戸内海の小さな島が舞台。爆撃などの直接的被害をこうむることはないものの、戦中から戦後にかけての時代の濁流が島の住民を容赦なく巻き込んでいく。その様子が母子家庭の長男の清作という少年の視線をとおして描かれる。
  戦時の「総力戦体制」とは前近代性と一体不可分のものであった。これが人権尊重の法体制が曲がりなりにも行き渡っている現在からみると非常に忌まわしく見え、嫌悪感をそそられずにはいられない。昭和十八年戦艦陸奥が島の付近の海上で原因不明の爆発を起こして沈没した。何が起きたのか、島民の誰一人として知る者はないのだが、やがて警察の血眼の操作がはじまり、女子供を問わずほとんどの島民が苛酷な捜査に晒される。漂着物の厳重な管理を命じるのはもとより、警察は疑惑の目を島民に注ぐ。容疑者でなくても連行し、暴力を加えて情報を得ようとするのだ。清作と母も警察施設に連泊させられる。ひどい話というしかない。
  もうひとつ取り上げられる前近代性は「楫子」(かじこ)と呼ばれる小さな漁船の漕ぎ手に従事させられる「七歳から十三歳」の少年である。動力のない船だから漁師が漁に専念する間、船の方向が一定でなければならないからだ。漁師は少年の親に前借金を渡して、五年、十年もの間、それをさせる。学校に行かせることもしない。ちょうど農山村の若い女性が親によって売春施設に売られるのと同じ仕組みだ。少年たちにとってはきつい仕事で脱走騒ぎがときどき起きる。とはいうものの島民にとっては何代も前から営まれている「伝統」として疑うこともしない。だがこれが敗戦によって一変する。一人の楫子少年の死亡事件がきっかけで、アメリカ進駐軍の民主主義施策宣伝のために楫子制度が「人身売買」として問題視される案件となったからだ。このときも警察はこざかしく素早い。島の区長が連行・逮捕されて新聞記事にもなる。島としては「楫子」に月給制を採用するなど大幅に譲歩し改めるが人が集まらない。そこで戦災孤児三人を島に連れてくることになる。だが清作少年からみた彼等はまったく異貌で理解不能な存在である。
  「鯛の島」はこのように「戦後」のどん底を清作と島民が戦災孤児に見いだして終わる。つまり彼等は働かないし、その気がまるでない。大人の指示にしたがわないどころか、反抗することも身についている。窃盗や狼藉をすることが平気で、愉快でたまらない。吉村昭は「当然、異常な環境の中で、かれらの性情は歪み、人間としての感情も失われた。」と書くしかない。わたしもここへきて内心唸ってしまった。
  「珊瑚礁」はサイパン島の陥落の一部始終が、やはり十代前半の少年の視線をつうじて描かれる。住まいのある町が大規模な空爆によって焼き尽くされ、夜空に濛々とあがる炎を家族とともに山麓の防空壕から茫然と眺める。これがはじまりだ。やがてアメリカ軍は日本軍の抵抗を排除して上陸し、艦砲や空爆とともに地上からの砲撃や射撃を間断なく加えてくる。町をあらかた制圧したアメリカ軍は攻撃の目標を兵や民間人が逃げ惑う山麓部へと変えてとどめない。銃砲の炸裂音を耳にした人々は逃げ惑い、壕や洞穴をみつけては一時避難をくりかえす。団体行動ではなく、家族や小さな集団などの思い思いの行動で、義明少年も家族七人とともに父に先導されて動きまわる。どこが安全かそうでないか、皆目わからない。ただ山の地理に詳しい父の勘に頼るばかりだ。多くの人が死に、少年も死体を目撃することが稀ではない。その間五か月、吉村昭は「その日から、時間的な感覚は失われた。」と書く。アメリカ軍の攻勢から数日後のことのようで、わかる気もするが、わたしたちの想像を超えたものがそこでは支配するのだろう。
  生きようとして逃げるのだが、おびただしい死体や短い時間の後に死にゆく人を間近に視認すると、はたして未来に生があるのか判然とはしない。むしろ死に近づいて行っているのではないか、だがそんなことをあれこれ思う暇はなく、ただ逃げたり食料や水を確保したりの身体の動きがあるばかりだ。こわいことはこわいにちがいないが恐怖を固定化することもかえって体を縮こまらせる、そういう本能にも近い知恵が働く、ただただ体を動かすのみで人を考えさせまいとする環境があるのかもしれず、同じことを執拗に繰り返す以外には選択できない。時間の感覚が、さらに感覚そのものが鈍化するようだ。長姉がつれた嬰児が泣き叫んだのでその音を消すために長姉はためらいない様子で絞殺する場面がある。義明少年もほかの家族も、彼女を非難することもなく、無感動そのものだ。そういう歯車が家族に共通して回転していてそこに全員が同調して乗っているという、異常といえば異常にちがいないが「非日常のなかの日常」というべきだろうか。同情にさそわれる。滅多に父にさからわない母が山を下りる、つまり降伏することを頑強に主張して父は受け入れる。これも日常ではみられない家族の変化だ。「友軍」の援助に期待しつづけた父だが、父についていく以上のことは考えられない少年にとってはその心変わりは理解できない、またその必要も感じないのであろう。
  彼等は無事アメリカ軍に保護されて臨時の収容所に入れられる。島の住民の集団自決や日本軍の玉砕攻撃などの報に接しても、嫌というほど死をみてきた少年にとっては心を動かされることもない。悼みの感情が麻痺して久しいのだ。「珊瑚礁」は、このように戦争を無事に五体満足でくぐりぬけられてもその残酷な実相が少年の眼をとおして、吉村独特の冷静かつ淡々とした筆致で描かれる。
    14:38 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
プロフィール

seha

Author:seha
FC2ブログへようこそ!

カレンダー(月別)
04 ≪│2015/05│≫ 06
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -
最新の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
月別アーカイブ
全ての記事を表示する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
ブロとも申請フォーム
ブロとも一覧
ブログ内検索
RSSフィード
リンク