大洋ボート

吉村昭「脱出」「焔髪」

脱出脱出
(2013/06/13)
吉村昭

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  戦争体験といっても何もかもがよくわからないままに通過してしまった、無数の死や負傷を周囲に目撃しながらも偶然にも本人は五体満足のまま生き残ってしまった、こういうことも凄惨さを身体に刻印されてしまい、たとえば後遺症との長い戦いに苦しまなければならなかった人々が多く有る一方で、体験としてはやはり数多いのだろう。ここに収められた五篇の短編はいずれも主人公はそのような運命に流される。しかも一篇をのぞいて彼等は当時十代前半だった少年である。
  「脱出」は樺太(現サハリン)の小さな漁村から北海道東端部に船で文字通り脱出するという話。八月十五日の天皇の玉音放送によって戦争終結が全日本国民に知らされたが、その後もソ連軍は樺太・千島列島方面への進撃を中止させることなく寧ろその勢いは増した。だが小さな村では正確な情報が入ってこない。南樺太はソ連によって日本に租借されこれまでどおりの生活ができるという希望的意見や、逆に住民がソ連軍に連行されて重労働を科せられるなど憶測が交錯し、見通しは定まらなかった。安定した生活をそこで長期間営んだ経験があれば人々はそれがこれからも支障なくつづくだろうという希望を捨てがたいのかもしれず、環境の激変を信じたくないのだろう。現在の平和と当時の「戦時のなかの平和」の心理にも共通するものがあるのだ。敗走してきた兵が村に逢着してきたとき、ようやくのように北海道への脱出が試みられる。しかも一挙にではなく「試し」として。光雄という少年も何番目かの小さな船での脱出行に同乗し、稚内かその付近の町に無事到着する。地元の人は樺太からの避難民に親切であり、配給食糧を自分たちの分を削って分けてくれたり、仮の住まいも提供してくれる。光雄たちの「仕事」はあとからくる避難民を手助けすることが主。死体の運搬や焼却もある。せっかく船でたどりついて来ても餓えやソ連軍の銃撃によってすでに死に絶えた人も多いのだ。またせっかく本土に逃れ来ても同胞救助や漁具を持ち帰るために危険を顧みずに何回も樺太の地元に戻る勇敢な漁民もいる。あわただしい混乱の時期で、光雄少年はやがて与えられた漁業関係の仕事に精を出し糊口をしのぐ。精一杯の様子がわかる。樺太からの避難民のあいだではソ連軍の残虐さや日本人の集団自決の噂話が繰り返され、光雄の耳にも入ってくる。
  どう考えていいのかわからない、というよりも腰が据わらないというのが光雄少年の心の世界だろうか。環境の激変に耐えて冷静であろうとすることだけが、光雄に課題としてできることだろう。そんな少年に変化が起きるのは、大きな鮫の胃袋から女性の指輪が発見されたことを漁師に知らされ見せられる場面で、想像力をかきたてられる。わけのわからなさがより大きなものとして少年に迫ってきて捉えられるのだ。女性は生きたまま鮫に食われたのか、死んでからなのかは無論わからない。女性の恐怖(生きていれば)や鮫が女性の肉を食らうときの悦楽、こういうことをわたしは無用にも想像させられたのだが、もしかすると少年も同じなのかもしれない。筆致は吉村特有で淡々としている。恐怖感もあるが、それ以外に少年の性の目ざめをも暗示するかのようだ。ひどく損傷した屍を嫌というほど見ている少年にとっても、同列に見られない、たじろぐ事態だろう。人間の興味は外部の全方位に均等に放射されるのではなく、特定の外部の対象が向こうからやってきて個人を捉えるようにしてはじめてかきたてられる、別世界に誘われるようにして。人間の興味には凹凸があって、それをだれでもが体感し通過するのだろうとの印象をもった。
  「焔髪」は東大寺の仏像が戦時中に爆撃による火災を避けるために「疎開」させられるという話。文部省の指示もあって文化財保護の観点から疎開に賛成する派と、長い歴史において前例のないことはすべきではない、災厄は運命として受け入れるべきだという思想を頑強に主張する派とがはげしく対立した模様だが、そこは前置き程度にふれられるだけ。これは追究すれば思いテーマになることはわかりきってはいるものの、避けたのは作者の方針だろう。それよりも造りが繊細で損傷しやすい仏像の運搬の往復の場面に紙数が費やされる。今回知ったが、仏像の大部分は表面の形態が麻布と漆だけでできているそうである。土で像をつくってそれを麻で巻き漆塗りをほどこすことをくりかえしたのちに土を抜き取って内部の空洞を木材で補強して完成に至る(脱活乾漆法)。だから人間の集団によってゆっくりと丁寧に運搬されなければならないが、人手不足の折で、刑務所の囚人にそれを依頼する。山奥の寺に運ぶために坂道や難路があって時間がかかる。同伴する主人公の僧侶が、その途上囚人に嫉妬と羨望を抱くのが、やはりそういうものかと思った。空襲があり食糧難の時代にあって刑務所の囚人という存在はそれらから保護されている。一般人と立場が逆転しているのではないかという腹立たしさであり、またそういう時代の不思議さである。
   戦争が終わって仏像は寺に帰還し、僧侶は梱包を解いて見慣れたはずの仏像とあらためて対面する。ここが本短編の読みどころで、「脱出」においてわたしが指摘した興味の凹凸にも照応する。

  技師がかたく結ばれた縄をとき、布を開ひらいてゆく。朱色をした焔髪を逆立てた頭部があらわれ、鋭い光をたたえた眼、強く張られた鼻翼についで、内部の赤い大きくあけられた口がのぞいた。玄照は、あらためてその形相が激しい忿怒の相をしめしていることを感じた。


  仏像は何回対面しても主人公玄照にとっては深く新たな感動と謎をもたらしてくれるものとして描写されている。いつまでも狎れることができずに緊張にさらされるのだが、外部との無数の関係のうちのもっとも親しみある対象でもある。
脱出 (1982年)脱出 (1982年)
(1982/07)
吉村 昭

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王国

問われたことは覚えている 青い空虚な矢を盲滅法にあらゆる方向に放ちつづけた壮大ないたずらもしくは遊びでしかなかった わかりきったことをたとえ心のみの次元であろうとはじめからやり直すことは徒労でしかなかった 窒息しそうなほど無聊だったかかる雑音と瓦礫と無駄そのものの熱量のなかから問われたことを全記憶の芯として措定しかえしたのはしたがってずっと後だった 見て見ぬふりして通り過ぎたのは問われたのに対して思わずも問い返そうとしたから それが日常水準的な憎悪をはるかに超えた肉体反射的な敵愾心だったから 問われたいくつかの硬質の眼差しがやわらかい肉の壁に見えて奥所を開示されてそそられてしまったから しかしそれらは生成直前の粥状の今一歩判別不能な意志や感情の形態であり無かったこととして思わず引き下がったこともわたしとしてはごく当然であった 生成されようとしたのかもしれない新たなわたしにはわたし自身目もくれようとはしなかったから矛を収めたという自覚はなく あやふやなもう一人のわたしがわたしから彷徨い出た宇宙遊泳的な一瞬の出来事だったといえる もしその一瞬をふりかえって実在として肯定し濁流に乗ってしまえばどうなったのかこれからどうなるのかという仮定なり推論なりがわたしを捉えた 問いそのものを問うた者の実在を押し返してそれは圧殺してしまうことにちがいなかった こわごわわたしは結論を呑みこんだ 青い空虚な礫をあらゆる方向に投げつづけた壮大な遊びもしくはいたずらが何事も無かったかのようにいやさらに自己肥満して薄汚れたナルシズムの旗をたかだかと掲げ永遠のごとく持続することにちがいなかった かかる仮定なり推論なりは唾棄すべきであったかもしれないものの隠れ家に籠るようにわたしは拘泥し溺れた  

無自覚のなかに後日「発見」された「矛」を獣性を肯定するがごとくに肯定し濁流に乗ってわたしは光の王国に直線距離で到達した わたしは内蔵物の細かい部品ではなく存在そのものを問われたと瞬間に病的に判断したのだから押し返そうとすることは仮定としてありえた 実践ではなく空想の甘さがまさった わたしはわたし一人の世界を築き上げて自閉した 透明な膜一枚で隔てられた向こう側に光はたえず供給されたが人が一人もいない 紐の切れ端がわずかに覗いた 変化を待つともなしに待ったものの当然のごとく無かった 行き止まりであった 判断は挿入しようがなかった 窒息しそうなほどの長い無聊がつづいた
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悪癖

怠惰の敷石に挑みかかるのではない光は昨日毛むくじゃらの影と影が熱い雨の中で交合しときには傷つけあうその鳴き声の甘さは密閉されて漏れずかえって彼等との意思疎通は完璧であり壊れた家具の下敷きになってのある種ひしゃげた充足のもと鼻水滴らせてそれを眺めるのが今日のわたし頬に絞まりなく何処までも緩みっぱなしである鏡を覗き込んで刺され貯えられたつもりの意志は角が削げ落ち
大太鼓小太鼓の悪性のリズムを自らに叩き込むことを運命のように選択したのは納得させられるにせよリズムのどてっ腹に貝殻のように付着した映像と人にいくらも接近できなかった記憶の湿った綿埃のなかに埋もれたままでは決してないが「光は昨日」の真実味さえ第三者に問われると液状化しかねない判断は終了したもののリズムの鏡をこなごなに破壊することに無頓着だった阿呆の半生怠惰の敷石に挑みかかるのではなかった判断の不徹底が飽き足りなさを招来せしめて空気にはじめて触れる粘膜のようなものが他人として塔としてわたしのなかに居座るこの馴れ馴れしさを踏み台にして跳躍しわたしはあるいは消滅しなければならず……
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