大洋ボート

妻への家路

  文化大革命が終わり、政治犯として捕らえられていた夫(チェン・ダオミン)が妻(コン・リー)のもとへ20年ぶりに帰ってくる。だが妻は記憶喪失に陥っていて夫を思い出すことができない。夫は妻の記憶を蘇らせようと懸命の努力を払うが……。新聞の映画紹介欄でこういう記事に接したとき、たぶん泣くだろうと思った。悲劇だからだけではなく手練れのチャン・イーモウ監督とコン・リーのコンビだから観客を魅了せずにはおかないだろうと予想したからである。期待は裏切られなかったし、何回もうるうるしてしまった。
  冒頭は、収容所から脱出したらしいチェン・ダオミンが妻に会おうと家の近くに身をひそめる場面。激しい雨のなかパーカーの頭巾で頭と顔を覆って落着きなく周囲を警戒するチェン。のっけからこの雨にうるうるしてしまった。人のこれからの激しいであろう動きを予感させる気がしたからだ。映画館の座り心地のいい席におとなしく縮こまるように座っている自身が引っ張られていくような気にもさせられた。官憲が追ってくる。集合住宅の何階かの家の前に辿り着くが娘にばったり会う。だが娘は父を拒否する。政治犯である父を憎むからだ。チェンはふたたび扉の前に行って下の隙間から手紙を滑り込ませる。翌朝、駅で待つことを書いて。この駅の場面が力強い。ラッシュアワーの時間帯で人々がそれぞれの思いを抱いて急ぎ足に駅内を移動する。チェンとコン・リーの思いも多くの人のなかでは豆粒のようなものかもしれないが、そんな心細さをはねのけるようだ。それどころか、人々や列車の動きのあわただしさと力強さがまるで二人に乗り移るようでもあるではないか。だが逢瀬寸前のところでチェンは追跡してきた官憲に捕縛される。密告者がいたからで、これはのちに明らかになる。
  この短い前半部がインパクトがあり、やがて夫が帰郷を果たしてから先に書いた内容の長い落ち着いた後半部に移行する。前半部でさらに記さなければならないのはバレーダンサーである娘のことで、文革期に盛んに制作された革命劇に彼女は主役に抜擢されかけたのだが、父の汚名によってそれも叶わなかった。残念にはちがいないだろうが、観客としては、レッスンの場面に見入った。若い人の肉体を懸命に鍛えて未来を自分の手でもぎとろうとする姿勢にやはりうるうるした。わたしは文革など勿論体験したことはないが、わたしの若い時代とどこかで繋がっているという思いも湧いてきて、なつかしさすら感じたものだ。どんな暗い時代にあっても懸命に生きたのであれば、さわやかな思い出になるのだろう。
  手を変え品を変えて夫は和解した娘にも助けられて妻に自分を思い出させようとするが、叶わない。わたしはじりじりしたのか、そうではなく、うっすらとしたしかし確実な幸福感をそこから受け取った。収容所から解放されて妻のもとへ戻ってこれた、しかも妻のために精一杯のことをしてやれる。これはやはり幸福ではないかと思わざるをえなかったからだ。妻は夫の顔は覚えていないが、手紙の文字は覚えていることが知られてチェンは数限りなく手紙を妻に書き、それを読む様子も身近で見られる。夫をひたむきに追慕する妻の姿が一点のブレもなく伝わってくる。
  老け役に挑んだコン・リーもいい。老いるということは子供に戻ることではないだろうか。それも元気で跳ね回っているような子供ではなく、とおくをぼんやりと眺めているときの子供の姿だ。実際の老人を見ての印象ではなく、コン・リーの演技をみてのそれである。
  ★★★★
スポンサーサイト
    14:21 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

大江健三郎『万延元年のフットボール』(2)

考えてみればおれはいつも暴力的な人間としての自分を正当化したいという欲求と、そのような自己を処罰したいという欲求に引き裂かれて生きてきたんだよ。そのような自分が存在する以上、そのような自分のままで生き続けたいという希望を持つのは当然だろう? しかし、同時にその希望が強くなれば強くなるほど、逆に、そのようなおぞましい自分を抹消したいと願う欲求も強まって、おれはなおさら激しく引き裂かれた。安保の間、おれがわざわざ暴力の場に入りこむことを引き受けたのは、しかも学生運動家として、不当な暴力にやむなく反撃する弱者としての暴力との関わり方から、逆に暴力団に参加して、どんな意味でも不当な暴力をふるう立場に立ったりしたのは、このような自分をそのまま引き受けて生きたいと、暴力的な人間としての自分をそのまま正当化したいと望んでいたからなんだよ……(p302~303)


  これは蜜三郎が鷹四の同伴者の星男という少年から盗み聞きしていた話をうちあけられる場面だ。その時はすでに鷹四と蜜三郎の妻菜採子とは「不倫」関係にあり一緒に寝ていた二人の会話を少年が傍で聴いていたからだ。「不倫」くらいでは大江の小説においては驚くに値しないが、それはおいて、ここで語られる暴力とは、自分の死をたえず意識してその可能性を近づけるためにあるということだ。反体制暴力を実践することにおいても死の可能性はあり、その思想を希求するためにあえて死を避けることを厭わないという立場もとりうるが、鷹四はそうではない。ここでは「敵」は警官隊のみならず暴力団と一緒に学生に敵対することで反体制勢力をも「敵」に鷹四はまわしてしまう。そのことによって死はよりいっそう可能性として自らに近づく、近づかせたいということだろう。「敵」の存在に憎悪を燃やすのではなく、また「敵」を打倒して社会的ビジョンを構築しようとするのでもない。また死を自らにふさわしい到達点として意識するのは彼の罪責意識からくる。それならばあっさりとS兄さんのように「自殺」してしまえばいのではないかと突っ込みたくもなるが、やはり鷹四は死を恐れる。死に近づくために自らを駆り立てるもののやはりそこから引き返すことを繰りかえすようだ。

その時、おれは大きいグラスに一杯のウォッカを飲みたい熱望を感じて、はじめておれの頭を自己処罰の欲求が充たしていることを理解したのさ。おれは強い酒を飲んで酔っ払うと、相手の見さかいなしに撲り合いをはじめるからね。おれは、わざわざ黒人居住区の酒場に撲り込んで来たが奇怪な東洋人として、逆に撲り殺されてしまっただろう。しかし大男の給仕がおれの前に来た時、おれはジンジャー・エールを一杯、頼んだだけだった。おれは自己処罰の欲求を感じると一緒に、眼もくらむほど恐ろしかった。おれはつねづね死を恐れている、しかもそういう暴力的な死がもっとも恐ろしいんだ。それはS兄さんが撲り殺された日以来の、克服しようのないおれの属性なんだよ……(p304~305)


  星男の話のつづきで、鷹四がアメリカ滞在時に黒人居住区におもむいたさいのエピソードで、カウンターの向こう側の巨大な鏡に50人くらいの黒人が映っていて東洋人の鷹四をめずらし気に眺めたときの恐怖感を吐露している。これが鷹四の死にあこがれつつも同時に激しく恐れる「属性」である。
  鷹四はスーパーマーケット略奪騒動が終息に向かい始めたころ事件を起こす。読み終えた後だから腑に落ちるが、引用した会話をまるでなぞるかのようだ。鷹四が騒動に同伴している少女をレイプして岩で撲殺してしまったという。これ以後は大江ならではの血しぶきが現前するかのような残酷さで、秀逸な描写力で、読ませる。鷹四は村民にリンチされ殺されるのに値すると自分で言う。現に鷹四は指先2本を嚙みちぎられ顔も血にまみれた状態だ。だが即座にそれにつづく蜜三郎の推理というよりも断定が読者の理解を超えて(わたしにとっては)凄みがある。少女は事故死したに過ぎず、それを好機にして鷹四があえて自分の犯罪にすり替えたもので、いつわりの自己処罰と断ずる。安保でもアメリカでも自己処罰を目指しはしたもののお前は生きのこった。死に近接した行動に自分を投入することが自己処罰を希求したことの自己証明になってかえって生き延びる口実となる。つまりは鷹四の狡猾さだと指摘するのだ。おまえは決して死ぬことのできない人間だ。おまえだけではなく、人間だれしも罪責意識をそうそう長持ちさせることはできない。曽祖父の弟でさえも一揆の現場から逃亡したあげく平穏な生活に甘んじたではないかと、蜜三郎は自分の人間観も披瀝しながら非難するのだ。軽蔑どころか嘲弄であり罵倒であるだろう。蜜三郎は鷹四にたいして先に書いたように冷淡で鈍感であり、さらにここでは激しい憎しみを抱く。読者は鷹四が死んでしまうのではないかと危惧し、蜜三郎自身ももしかしたらという気にもなるようでもあるから少し異様である。「死んではならない」と言うのと「おまえは小心だから死ぬことなどできない」と言うのとでは天地の差があることは蜜三郎も自覚があるはずだから、あえて後者の物言いをするのが異様なのだ。だが、と留保しなければならない。蜜三郎の鷹四への罵倒は納得すべき部分があるにはある。
  蜜三郎に偽装工作を言い当てられて以上の会話が二人の間で交わされる前に鷹四は罪責意識の根っこになっている「本当の事」を告白する。十代のころ同居していた白痴の妹が自殺した原因は自分がつくったという内容で、衝撃的で、はじめて知った蜜三郎を動揺させずにはおかない。蜜三郎は別に弟鷹四に同情する必要はないどころか、激しく憎むのももっともな部分がある。くわえて妻を寝取られたこともあり、平穏な山村でスーパーマーケット略奪を組織して、あわよくば兄・蜜三郎を巻き込もうとしたこともあるが、そのときどきにおいては蜜三郎は鷹四に目立った非難はせず、「非参加」を決め込んで沈潜するかのようで無気力そのものにさえ見えるから、積りに積もった憤懣が最後になって爆発したと受け取るべきだろうか。それにしても、たとえば鷹四が規律違反をしたメンバーの青年をリンチする現場を蜜三郎が目撃する場面があるが、彼は弟に何一つ言わずに見過ごして通り過ぎる。こういう鷹四への接し方が蜜三郎の常態であるかのようなぼんやりとした認識を読者がもたされるので、最後になっての罵倒が異様に見えてしまうのだが。
  読者は蜜三郎よりも鷹四の人間像に魅力を感じて読み進む。鷹四のような騒動をたえず巻き起こす人間が身内に居座ることはだれでも御免こうむりたいと思わせるが、またそういう思いを蜜三郎に大江は背負わせ、反目し合う兄弟という設定が効果を上げて、鷹四の像は完成する。小説という虚構のなかでは暴力を実践する人間はその思想的環境をも合わせて掬いとることができたならば磁力となり、大江も本作で充分それを成し遂げたようだ。だがそれにしても、という思いは残る。死を覚悟した鷹四が「おれの眼をやるから」と隻眼の兄のためになかば懇願するように提案するが、兄・蜜三郎は電気に触れたように即座に断固拒否する。不浄を受け入れまいとするのだろうか、わからないでもないが、情愛が足りない気がする。「おまえはどうせ死ぬことはできない」と言う替わりに「絶対に死ぬな」と言えば直後の展開は変わるのかもしれない。多数派的と言いうる蜜三郎の反応だが、わたしには冷淡かつ卑小に映った。高望みだろうか。この蜜三郎の追い詰め方によって鷹四は劇的に死に急転直下して、小説としては衝撃度を増すことになったとはいえるが。蜜三郎という人物に食い足りなさを感じた次第であり、小説を効果的たらしめるために大江はあえて彼をそういう存在に貶めたのではないか。 
  作家としての大江はとびぬけて想像力豊富で鷹四のような暴力的人間を巧みに描出することができ、またそのような人間を愛惜する。だが生身の人間としての大江は鷹四のような人の画策する煽動には巻き込まれたくない。また思想者としての大江は非暴力抵抗運動を社会的に賞賛する。こういう関係が本作においてわたしには見えた気がする。だがこの3点セットに共感しえたのではない。思想者としての大江が蜜三郎を通してはじめてのように露わになるのが終章である。
  鷹四の運命が決したので本作はほとんど終わりだと思ったが、曽祖父の弟の軌跡が明らかになる。たいして重要事でもないだろうとわたしはあしらうような読み方をしていたが、書き手大江にとってはそうではなかった。彼は万延元年の一揆の後、敵味方の多数の死者・負傷者を見捨てて逃亡したのではなく現地の山村の某所に留まりつづけ、さらには明治4年に起こった「騒擾事件」において再び指導者として村民のなかに「仮面」を着けて登場する。そうして運動全体を非暴力的に推進して成功に導いた後ふたたび姿を消したという。曽祖父の弟は尊敬に値する「非転向者」だったというのだ。この推理をも交えた事実によって蜜三郎は、今さらのように鷹四の先祖を「模倣」!した行動はまちがいではなかったとふりかえるのだ。わたしは蜜三郎と鷹四の兄弟の物語のつもりで読んでいたので、最後になって余計な接ぎ木を加えられた気がした。清廉で立派な人物が先祖にいることはたしかに心が洗われて導きの光になるのかもしれないが、ある種の政治への安易な合流とも受け止められかねないという危惧を持った。先祖を頂点にして人々を合流させてゆるやかな集団的連帯意識を育もうとする気配を蜜三郎に嗅げないでもない。蜜三郎は平穏をのぞむあまりに鷹四や友人や妻など他者の苦痛を想像する努力を怠っていたと自省するが、作者によって種明かしを見せられた気になる。そういう人物像を小説のために自分をモデルにして作ったということだ。そしてそういう低空飛行する蜜三郎を安寧に導かれる気分にさせるのが曽祖父の弟の軌跡である。こちらの世界ではなく向こう側にある世界から光を投げかけられて救われた気分になるのだとしたら、ちがうのではないかとの疑念を抱いた。
    09:43 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

大江健三郎『万延元年のフットボール』(1)

万延元年のフットボール万延元年のフットボール
(1967/09/16)
大江 健三郎

商品詳細を見る

   400頁足らずの長編小説で全体が13章に区分けされているが、わたしにとって読みどころと成りえたのは1章ならびに11章以後の、語り手蜜三郎の弟鷹四の運命が急転し、やがて物語が終結にたどりつき蜜三郎によって総括される部分のみであった。その間の中盤と呼べる部分は非常に長く感じられて大江の『個人的な体験』にもまして晦渋さを加えてくる文体にも辟易させられ読みづらかった。文体にのみよるのではなく、とりあげられる事象のひとつひとつが突っ込み不足で故意に謎を残して読者を後々の展開まで引っ張って行こうとする。それはいいにしても、謎の解明の材料をその場で読者に同時に与えられるのではなく、さらに語り手の蜜三郎が「下降」志向であって眼の前の事象に深い関心を払うことを忌避しがちであり、怠惰な探偵さながらだ。また彼は夫婦関係も含めて自身の傷を凝視もしなければならならず、そのうえ謎や事象はいくつもつぎつぎと露わになっていくので、読者はそのひとつひとつを重要事かそうでないかわからないまま記憶しなければならず、終局にたどりつくまでは骨が折れ、投げ出したくなる気にもなり、退屈さは避けられなかった。
  蜜三郎は深夜から夜明けにかけて自宅の裏庭にある工事中の浄化槽の穴倉に身を置く。これが第1章である。障害を持って生まれた第一子を養護施設にあずけた。さらには英文書籍の共同翻訳者である友人が心に変調をきたして自殺した。それも顔を赤く塗って肛門に胡瓜を挿入しての縊死という異様なありさまで。この二つの出来事が蜜三郎にこのうえない憔悴をもたらし、そのような奇態な行為に走らせ、無意識の自殺衝動でもあることを彼自身気づかされることにもなる。ここにかぎっては文体の観念性が効果をあげている部分だ。蜜三郎は「熱い「期待」の感覚」をもとめて浄化槽に居つづけるがそれはかなわず、土の壁面を爪でひっかくに至る。友人の自殺の真相が探られるのではなく、以降はその事実をたえず蜜三郎がふり返らされるのみ。
  2章以降は蜜三郎と鷹四の生家である四国の小さな山村に舞台が移される。アメリカ帰りの鷹四が兄を誘って「帰郷」するのだ。生家の倉屋敷を売却するのに立ち合いを兄に要請したからであり、あわせて憔悴した兄のために故郷での「新生活」を提案し、さして気の乗らないままに蜜三郎も妻とともに同意してのことだ。鷹四は暴力的反体制運動に執着する人であり、1960年の安保反対のデモにも参加した履歴を持つ。鷹四は村の青年を組織してスーパーマーケット略奪を画策しやがて村の住民全体を巻き込むことに成功する。鷹四の念頭には万延元年(1860)に農民一揆を指導しやがて行方不明になった曽祖父の弟のことがあり、尊敬と親近感を抱いており、兄の助力も得てその足跡のさらなる詳細を探ることも宿願としている。また終戦直後の村民と朝鮮人との抗争事件において「贖罪羊」となって死亡したS次兄さんにも強い関心をもつ。(「贖罪羊」とは朝鮮人に死者と犠牲が出たために、それに釣り合わせる形で解決に導くために贖罪の意味をこめてS次兄さんみずからが死を選択する心づもりで暴力の渦に肉体を差し出したこと)鷹四のこういう関心はたとえば左翼がマルクスやレーニンの言動に強い関心と執着を払い、自らの言動の足場にしようとすることをわたしに連想させるものである。
  わたしは鷹四の人間像に興味をもって読んだ。それ以外には指摘したような退屈さでうんざりしてしまった。スーパーマーケットの略奪行動ひとつにしても、いくら雪に閉ざされ電話が不通になった小さな村といっても警官がひとりも登場しないのは首を傾げざるをえず、現実に起こりそうでない小説的寓話としか受け取れなかった。また外部への関心を積極的にもとうとしない蜜三郎が語り手であるために生々しさが排除された平板な記述にならざるをえないのだ。さて鷹四である。暴力的行動が執着の対象であるどころか、その渦中に絶えず身を置くことに彼はみずからの存在意義を見出すのは何故なのか。また彼が蜜三郎に言い出そうとしてなかなか言い出せない「本当の事」とは何かである。これは12章で明らかにされる。彼もまた痛ましいほどの罪責意識に普段から責め苛まれる青年であることが露わになり、農民一揆の指導者だった曽祖父の弟への尊敬や反体制イデオロギーのみから死に直結するかもしれない暴力に身を置くのではないことがわかる。彼がどんづまりの選択として自らに課すのは「自己処罰」としての死であるらしい。
   わたしがすぐに思い出したのは大江の『性的人間』に登場する十代後半の痴漢少年である。痴漢という犯罪行為に存在意義を措定し素裸のうえにトレンチコート一枚を着衣して電車内で大胆にやらかす。それも摘発をあらかじめ逃れうる安全な痴漢では少年の哲学からは逸脱していて、摘発されたうえ、社会的非難を一身に轟々と浴びるべき行為にかぎりなく近くなければならず、さらにそれを成し遂げてから「嵐」のような詩を書き上げることが生涯の目的だという。少年はやがて女児を誘拐して痴漢仲間のJや老人をはらはらさせながらも駅内の線路に投げ出された女児をどたん場で救助し(少年が女児を故意に投げ出したのかもしれない)自らは轢死するという流れであった。どす黒い犯罪者志願であった少年が最後に見せた救助行動で、少なからずわたしは感動を与えられたが、少年のそもそもの痴漢犯罪志願の動機が何なのか不明なことと、仲間のJや老人が少年を眩しく眺めることは当然かもしれないが、作者大江健三郎がこの少年をいかに評価するのかもわたしには今一つわからず腑に落ちなかった。作家が親近感をこめて人物像を彫琢し作品のうえに完成させるのはそれが犯罪者であっても全く自由であることはいうまでもなく、それを書いたから作家がイコール犯罪者であるなどと馬鹿なことはいわない。作品上で作家と登場人物の関係を必ず書かなければならないとも思わない。社会的衝撃をもたらすことが作家の目的の一つであってよいのだが、大江健三郎は戦後民主主義や非暴力抵抗運動を礼賛する人でもあり、生身の大江というのではなく、そういう思想者としての大江と痴漢少年や本作の鷹四との関係性を窺うことにわたしの興味は誘われた。つまりは蜜三郎は大江そのままではないにしても大江自身をモデルにした人物であるから(障害児の誕生は既知だが友人の自殺も事実であるらしい)、彼と弟鷹四との関係性が大江と鷹四との関係性にダブるのではないかと思ったからである。
   結論から言えば、鷹四の人物彫琢は十二分に成功しているのだが、そこまで物語をたどりつかせるために語り手蜜三郎を随分冷淡で鈍感な人物像にしてしまったのではないか。 

    07:13 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

アメリカン・スナイパー

  ブラッドリー・クーパー演じるクリス・カイルという人物は実在したという。ロデオ大会参加に熱情を燃やす屈強な肉体の持ち主だったもののケニア在のアメリカ大使館爆破の報に接して愛国意識に目覚め、アメリカ軍特殊部隊シールズに志願入隊し、やがて狙撃兵としてイラク戦争におもむく。冒頭の場面では、歩兵が建物の一軒一軒に侵入・制圧する作戦の間、見晴らしのよい建物の屋上から監視し、手榴弾を投げつけようとした女と子供を見事に射殺する。このようにして何回かのイラク派遣において計160人ものイラク人を射殺し、アメリカ軍を大いに擁護した。絵に描いたような戦場ヒーローでありカイルは称賛を浴びる。このことだけとりあげて連鎖にしても戦争アクションとして十分に成立するであろうが、周到なクリント・イーストウッド監督だから戦争における「心の病」を同時に描くことを忘れない。むしろそちらにフォーカスをあてることにこそこの映画の眼目がある。そして「心の病」はカイルの周辺の兵士に蔓延するのみならず、カイル自身をも知らず知らずに蝕んでいく。
  戦場の場面とはちがって一見些細なことである。帰国の際に妻が見ていたイラク戦の実写ビデオをカイルも見る。同じような場面の2回目で銃撃戦の音響が鳴り響くがテレビ画面には何も映っていない。つまりその音響はカイルの心のなかでのみ鳴り響いていると容易に呑みこめるが、家庭の休息の場にあってもカイルは戦場の緊張を維持しなければならないという義務意識に迫られるからなのか。わたしはむしろ戦場の記憶から逃れようとしても逃れられないカイルをイーストウッド監督は描き出したいのではないかと思った。幼い子供同士のパーティの場面。比較的大きい犬とカイルの娘とがじゃれあっていると見ていたカイルが、娘が噛まれるのではないかとの妄想に支配されて犬に殴りかかろうとして妻に制止される。その犬はおそらくは安全とみなされたからこそパーティに同伴されているのに。みずからが戦場において子供を射殺した記憶が急激にこみあげてくるのであろう。またカイルと同じく意気揚々としてイラク戦に参加した弟の憔悴した姿に出会う場面もある。
カイルは「心の病」に全面的に支配されるのではないが、そうした人物もいる。退役軍人のなかにはめずらしくない存在かもしれず、退役後彼等へのボランティア活動に精を出すカイルはその類の人物に遭遇するのがラストの場面。カイル個人の悲劇としてではなく、アメリカ全体の悲劇の一環として描かれる。アメリカ全体が戦争によって疲弊し「心の病」に蝕まれているという現状認識だ。
  クリス・カイルは家族にも同僚にもやさしい好人物だ。銃の照準を覗き込みながら携帯電話で本国の妻と会話する場面は、寂しさをまぎらわす意味もあるものの家族を忘れまいという妻と自身へのメッセージでもあるだろう。小さな携帯ではるかにとおいアメリカと手軽に通話できるというのも、そういう時代なんだなと思わせる。映像といい主張といい、とくに目新しさはないもののまとまりはいい。「ハート・ロッカー」にあった軍人の嫌味な職人的自慢もない。
  ★★★★
    13:39 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top
プロフィール

seha

Author:seha
FC2ブログへようこそ!

カレンダー(月別)
02 ≪│2015/03│≫ 04
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
最新の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
カテゴリー
月別アーカイブ
全ての記事を表示する
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
ブロとも申請フォーム
ブロとも一覧
ブログ内検索
RSSフィード
リンク