大洋ボート

やくざの詩

やくざの詩 [DVD]やくざの詩 [DVD]
(2005/03/21)
小林旭、芦川いづみ 他

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  小林旭が恋人を殺した男を追って旅をする。残された手がかりはただ一つ「ゲルニカ」という珍しい銃の弾で、小林はそれをペンダントにして身につけている。とある酒場でピアノの弾き語りをしていたところ銃撃事件が起こり、使用された銃が弾の特徴によってゲルニカであることが判明する。
  小林旭よりも悪役の垂水悟郎にかなりスペースがさかれて、彼のほうがむしろ主役に見えるくらいだ。前半の早い時間あきらかになるからばらしてもいいと思うが、彼が小林の恋人を銃殺した犯人である。セリフが聞きづらいが、ちょっかいをだそうとして抵抗されたので「気まぐれ」に撃ってしまった。その後悔、さらに今まさに小林旭に直近まで迫られていることの恐怖、また右腕を事故でなくしたことの社会的劣等感。それらのマイナスの感情が積み重なって垂水を責めさいなむ。といっても、垂水は兄の二谷英明に面倒を見てもらう以外に生きるすべを知らない。二谷はやくざ同士の抗争を利用して拳銃を密売して儲け、垂水は二谷の指示どおりに動いて抗争を外側からあおる殺し屋である。
  垂水悟郎の役は書いたようにいくつかの感情がかさなる複雑さがあり、力量に自信のある俳優ならやってみたくなる役どころではないだろうか。垂水は当時劇団民芸に属していたから例外ではないと思われが、どうもぎこちない感があって見づらい。熟しきらないのは、下手でないならば時間的制約があったのだろうか。この時期の日本映画は、ひとつの映画会社で1週間に2本の上映スケジュールで制作していたので、シナリオ制作もふくめて日数や予算にかぎりがあって、丁寧な取り組みがともすればないがしろにされたのではないかと、推測したくなった。
  小林旭や二谷英明、それにやくざお抱えの飲んだくれ医者の金子信夫、その娘の芦川いづみなど日活映画専属の俳優陣は手慣れた空気が醸しだされて安定している。
  1960年制作。
  ★★★
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吉村昭「星への旅」「白い道」

星への旅星への旅
(2013/06/13)
吉村昭

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  「星への旅」はいわゆる「自殺サークル」の話。人生にたいする無力感や倦怠感を抱いた若い人たちが寄り集まって親密になった末に集団自殺を遂げる。新聞記事でたまに目にすることがあるが、発表が「昭和四十一年八月『展望』」とあるから読み物としては早い時期になるのかもしれない。もっとも「自殺サークル」なるものはこの短編にも紹介されているように戦前の「死ノウ団」など古くからあったようで社会現象としては目新しくはない。題材の新奇さを好んでとりあげる吉村昭らしい一編。
  圭一は大学受験に失敗した予備校生。通学のために毎日駅には足を運ぶものの無力感に支配されて電車に乗る気になれない日が多い。放心したようにベンチに座っていると同じ年代の三宅という男に声をかけられ、誘われるままについていく。三宅の仲間数人が待つ別の駅に降り圭一も加わるが、彼はそこに「妙な気分のくつろぎ」を見出す。彼らは圭一に「無関心」であり、見た目にも「悲しみ」をたたえていて、圭一は自分と同じような悩みを持つ人たちの集まりだと直感する。小説は圭一の視線をとおして彼らの人物像や結末にいたるまでの旅の様子を描写していく。画塾、美容学校、予備校、定時制高校などに籍を置く彼らは全員が学生であり、しかも圭一と同じく学校をサボタージュして顧みないのだ。彼らは自分と同じような人間と時間を共有することにやすらぎを感じるようだ。反面、無力感を払拭する試みもやった。パーティをしたり同じ家に住んだり、と。槇子という女性は整形手術を何回もした。戦争や麻薬に強い願望を口にする者もいる。しかしながら回りまわって結局は「死」に至りつく。喜びはなく震えが来るが、なぜか抵抗する者はいない。人生にたいする鬱陶しさの感覚が体にへばりついているからだ。
  共感できる部分は若い時代の無力感で、わたしにもその記憶はあるが、それ以上に自殺までもっていかれると退いてしまう。読者をいくらかでも説得させようとすれば掘り下げた心理描写が必須だが、作者はそれをはじめから自らに禁じているように読める。自殺への共感に与しないからではないか。かといって死から強引に引き戻そうとする作者の意図が書かれるのでもなく控えられる。比較的細かく書かれるのが旅の先々での描写であるが、淡々としすぎて共感を覚えることもない。圭一が脱出を想起することも描かれるが弱く、星の風景が死へのあこがれとしてにわかに置き換えられるが抒情性にまではとどかない。無力・脱力感の網から依然として抜け出せないからだ。わたしとしては佳作とは呼びたくない。
   「白い道」は作者がモデルかもしれない戦争期の話。徴兵検査を控えて病弱でもある語り手「私」は長兄のもとに寄食している。その兄に頼まれて父に食料を届けにいった。母はすでに癌で死亡して、父は以前から関係のあった愛人とともに疎開先の市川というところで暮らしている。その帰路バスを待つ長蛇の人を目にして「私」は徒歩で浦安の長兄の家に戻る。その途上で四十前後の男と道ずれになる。気さくそうな男だが、身の上話を聞くうち「私」は嫌悪感を抱くことになる。
  東京都内(当時は「市内」といったのか)で男は空襲に遭い、火の海と化した一帯を家族とともに夢中で逃げ回った。子供を連れた妻はたまたま近くにあった池に漬かったが、男は「勘」でそこは危険だと思って妻と子供を見捨てて別の場所に逃げた。火が静まった後池に戻ると妻と子供は無事だったが、衣服は焼けて裸だったという。「私」は妻にとって自分たちを捨てて逃げた夫はもはや「夫」ではなく、妻としての夫にたいする感情は消滅してしまい、他人に過ぎなくなってしまったと妻の心を想像するのだ。「この男には人間としてなにか重要なものが欠けているように思えてならなかった。」と記す。普段はいくら人当たりが良く立派なことを言ったとしても、肝心要のときになさねばならないことをなしえなかったならば、その一事をもって人は評価される。自戒しておきたい。戦争中はこういう話はごろごろあったのだろう。「私」も子供時代に家が小火に見舞われたとき家族に忘れられたのか、逃げおくれて短い時間ひとりぼっちになったことがある。また「私」の家族も上の兄三人はすでに家から離れて独立し、父の愛人の存在が明らかになり、さらに母の死以後つながりが希薄になったと感想が抱かれるが、それらの自分の身の周りの話の後に男の話が来るから効果的だ。男は「私」と同じように疎開先にいる妻子に手土産の石鹸を風呂敷包みに入れて会いに行くところである。
  B29の編隊が青空を轟然と飛行するのを歩行中目視するのも戦争期らしい。方角と仰角(約45度)がぴたり一致しないかぎりは被弾の心配はないと「私」は他の歩行者よりものんびりしている。
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吉村昭「鉄橋」「透明標本」

星への旅星への旅
(2013/06/13)
吉村昭

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  吉村昭は特異な職業にたずさわる人に興味をしめす。一般人には縁遠いその仕事の内容をわかりやすく記述してくれて読者の興味をひくだけではない。その分野において他の追随を許さないすぐれた能力の持ち主をとりあげて、そこにある固有な欲望やこだわりを描く。彼はやりたいことを存分にやりつつある存在で自信家であり、反面孤独でもある。独自に道をきわめたことからくる秘密を人には明かそうとはしないし、さらに現在に満足できずに未踏の領域に踏みこもうとして緊張をときほぐすいとまがない。自分の道以外には無関心であるから家族や身近な他人の意外な行動に驚かされることもある。逆にそれらの人々からは当然ながら彼の真の姿が見えにくいということでもある。
  「鉄橋」は不可解な轢死で人生の幕を閉じた強豪ボクサー北尾の話。といえば同じ死に方をしたピストン堀口というボクサーをわたしなら連想するが、彼と小説の人物がどこまで事実的にかさなるのかは不明だ。北尾はロードワークの際に利用する山道の近くを走る列車に轢かれて死亡した。有名人だったのでマスコミはかまびすしい関心を示したが、自殺か事故死か、にわかには判然としない。しだいに作者吉村は、マスコミに正直に吐露しようとはしない北尾周辺の人物を登場させて、彼らの北尾にたいする思いをとおして北尾の人となりをあぶり出していき、さらにそれとは一種断絶した周辺人物さえ知ることのない北尾という人の核心を、作者の知るところとして描き出す。この部分も作者の想像力による独自のものか、それとも綿密な取材によってヒントをえた末に形成されたものかはわからない。
  北尾の最後にあたる試合は新人ボクサーが相手だったがKO負けを喫してしまった。またこのときの打撃によって網膜剥離を生じさせてしまい、北尾はその治療と療養中の身であった。また妻の「不倫」もあって身辺は穏やかではなかった。世間は試合以外のそれらのことを知らされなかったが、ボクサーとしての能力の衰えを痛感したことからくる自殺説が浮上しつつあった。しかし決定打となる証拠がない。また俊敏な北尾がたとえ線路上を歩行していたとしても走行中の列車から身をかわすことは容易このうえないとおもわれて、事故死説にも簡単にはうなずけない。このようにミステリアスな展開があって、そのうえで北尾自身にしか知られることのない彼の独自な世界が記されていく。
  北尾には身体能力の衰えはなかった。相手が繰り出すパンチから身をかわす技量は依然として健在でありその自信は揺らがなかったどころか、もっとその技量を伸ばす余地があると自分では思い込んでいた。簡単に勝つことに飽き足らないものを感じていたのであり、相手のパンチから普段なら100下がるところを99にしてみたいという欲望がわいてきて、それに逆らえず試した結果のKO負けであった。いたずら心だろうか。だが彼はそれを諦めることはなく今一度試みてみたいという欲求がふたたび頭をもたげてきて、あろうことか列車との競争に踏みこんだである。視力も回復して機関車の先頭部の文字も鮮明に見えた。あたかも新人ボクサーのグローブの皺が鮮明に見えつづけたように。衝突寸前に身をかわす自信がみなぎってきて、そのイメージに彼は魅せられた。能力のずばぬけた職業人の自信というか自惚れというか、獣じみた闘争心というのか、余人にはまったく想像できない独特の世界がここにはあって、感心させられ、あっけにとられる。
  「透明標本」は大学医学部に勤務し、死体の解体と人骨の標本作りが専門の男の話。実際の現場には近づきたいとはおもわないものの読み物として眼の前にあると好奇心をそそられる。倹四郎は何ゆえそういう職業に就くことになったのか、彼の父が彫金師であったことに由来している。父は関東大震災のさい、火事で焼失した人家跡から人の死体を盗み出して持ち帰り、大腿骨をつかって仕事をした。勿論犯罪だから警察に摘発され身柄を拘束されることになったが、そのときに父を手伝っていた倹四郎の眼には人骨の美しさがえもいわれぬものとして刻まれた。それまで普段接していた象牙には比べようのないほどだったので「新鮮」な死体を使っての全身の人体骨標本づくりが彼の生涯の切望となる。ただこれだけが彼の欲望の究極で、そのためには犠牲を厭わなかった。死体に接するから強烈な悪臭が体にしみこみ、容易にはとれない。また隠しおおせられることなく職業がばれることもあり10回も結婚しなければならなかったとある。「新鮮な死体」を思いどおりにすることとともに彼の職業的研究はその新鮮さをいかに再現し保持できるかということにも注がれ、薬品の選択やら調合やらを兎の頭蓋骨をつかって実験を繰り返した。しかも自宅でそれをする。ブリキで内壁を覆って外部に匂いが漏れないように施工して。
  仕事熱心というよりもそこにはふるえるような好奇心が潜んでおり自分でもどうにもならないくらいの倹四郎ののめりこみようで、読者は感心しあきれるばかりだ。60歳を超えてもその切願をいまだはたしえないまま諦められないし、「新鮮な死体」は学生用の実習教材やその他需要が多く、責任者の教授も倹四郎の切望にこたえてくれない。また人骨標本が彼のおもいどおりにつくられたとしても給料が上がるわけでもないのだ。だがとうとう彼の願いがかなう時が来る。詳述は避けるが、父のような犯罪に類するやり方ではなく、合法的だがなりふりかまわぬやり方で、非人情の誹りは免れないだろう。「好事家」とか筋がとおっているとか言ってしまうと褒めることになるのでしないが、職人的なこだわりは確かにある。また倹四郎がその実行に一抹の後ろめたさを抱くことがせめてもの救いとなる。
  二つの短編に共通するのは、自分やモノにたいする執着が異常なまでにふくれあがりながら、他人との関係には関心を示さなかったり希薄であったりする人物像である。

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大江健三郎『個人的な体験』

個人的な体験個人的な体験
(1994/11)
大江 健三郎

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  大江健三郎の第一子が障害を持って生まれた男性であることは大江の読者なら知るところである。そのことを題材にして生まれてからそれほどの時間を置かずにこの長編は書かれた。もっとも鳥(バード)とニックネームで呼ばれる主人公は障害児の父であるものの大江本人そのままではないことは読みすすむにつれて推測できる。障害児の親になったとしたらどうだろうか。家族にのしかかる負担はその子の人生と同じ長さの時間となるであろうから、またどんな具体的な困難が待ち受けているかもわからず、想像を絶するにちがいない。引き受けて育てなければならないという常識や義務意識は親には当然のように存在するものの、できればその子を手放したい、逃げてしまいたいという相反する意識も心のすみには、たとえ空想的であっても派生するのではないか。そのほうが楽に生きられると思えるからで、わたしも心全体のそういうありようを否定するつもりはなく、生身の大江にも子の死を願う気持ちが微細であれあったとしても不思議ではなく、非難されるべきでもないだろう。大江は子にたいする後ろめたいそういう気持ちを拡大再生産して鳥(バード)という人物に押し付け造形した。
  子の死を願うとはいったいどんなことか、また当然そこに焼き付けられるであろう罪責意識を背負わなければならず、それを傲然と確信犯的に引き受けて払拭できるのか、それともそれを引きずりながらごまかしたり緩和しようと試みるのか、鳥(バード)が選んだのは成り行き的に後者だ。子の死を願いつつ子の存在からできるだけとおざかろうとする。家族とは別のパートナーの火美子という女性とともに一時的に暮らし引きこもること、火美子との性的快楽に没入することだ。また火美子はたんに「性のエキスパート」ではなく鳥(バード)の意向を理解したうえで賛同してくれる友人として描かれ、子と家族を捨てての鳥(バード)のアフリカへの逃避行の同行も約束してくれる。主人公にとってというよりも一個人にとっての我儘を全面的に受け入れてくれる異性であり、理想という以上にこれほどの好都合はなく、架空の人物像か主人公の分身的存在であることは見抜けるのだが、それでもって小説が荒唐無稽に陥ることは決してない。これはたんに「嬰児殺し」(終わり近くではその実行に着手するところまで行きつく)という個別の出来事に限定されるのではなく、またそれが現在進行形であるか否かにもかかわらず、わたしたちが有するかもしれない罪責意識とどう向き合うか、また向き合わずにごまかずか緩和するかという普遍的命題にまで、この小説はとどいているからだろう。罪責意識をひきずりながらももしかしてそれが雲散霧消してくれるかもしれない小さな世界、この世でありながらもこの世ではない別世界がおぼろげに浮かび上がる。さみしいが甘美さもともなう、もしこういう場所があればいいなと魅了し迷わせる世界だ。
  鳥(バード)は長男誕生直後に担当医師から赤ん坊が「脳ヘルニア」であることを告げられる。脳組織の一部が頭蓋骨からはみでていて別の専門病院で手術を受けなければならず、それまでの数日間は栄養をつけて手術に備えておく必要があるが、衰弱死する可能性もある。またたとえ手術が無事成功したとしても赤ん坊は健常児ではなく「植物人間」になってしまう可能性も否定できない。そう告げられたときから鳥(バード)の苦悩と迷走がはじまる。赤ん坊は妻の手元から特別の育児室に移され、妻は子の障害の事実を知らされずに内臓検査のために子は移されたと言われて、産後の回復のためにベッドに伏している。妻に付き添う義母は障害のことをすでに知っている。鳥(バード)は必要以上に病院にはいかず、義母や医師と最小限とおもわれるやりとりをするのみだ。彼は予備校の英語の講師で、そこと病院と火美子の宅との往還の数日間。だがさらに「期待」と「予想」に反して赤ん坊は衰弱せずにすくすく育ち、これがまた鳥(バード)を悩ませる。衰弱死を願うことの後ろめたさとともに赤ん坊が生きるというこが生々しい恐怖心として彼に浸入してくる。
  性にまつわることを記さねばならない。鳥(バード)は彼の大学の同級生でありインテリっぽいところがあって鳥(バード)とリラックスして議論できる力があって、それも注目しなければならないものの、二人の性交渉のほうがより丹念により精細に大胆さをまじえて描かれる。大江健三郎は政治や社会とともに性の問題にも関心を持ちつづける作家であり、「セヴンティーン」では高校生の少年のなかで性的高揚感と政治的過激性を結びつけた。「性的人間」では原始的でアンモラルな性に着目し、それが人生の全目的であるかのような人物を造形した。これらの人物は大江その人そのままではないとしても大江の性にたいする執着をそれぞれの主題に則って拡大したものであり、この『個人的な体験』にあってもちがった主題のもとにみちびかれてそれは展開されている。ここでは男女間の親和性に性の親和性がどれほど多く資するかという主題である。もっとも火美子ははじめから鳥(バード)に親和的であるから、それは鳥(バード)にとってより切実になる。作者は鳥(バード)に託して性を解説する。性欲には大きく分けて二通りあり、ひとつは激しい反社会性をともなう。性とは異性(通常は)に惹かれて「愛」を抱くかどうかにかかわらず近づいて奪ってしまおうとする際の原動力そのもので、その距離の縮め方が一方的で暴力的であれば相手の意思は無視されるので、これはおのずから反社会性をみちびく。実践しようとしまいと心にそれは生まれ出るので誰にでもわかることで、それは政治や宗教における実践にともすれば伴いがちな反社会性を連想させるものでもある。もうひとつは少し書いたような性における親和性だ。仲良くなった男女を長く穏やかに生活させる媒介としてそれは資する。反面、性における激しさや反社会性は後退することになる。小説に書かれた言葉どおりではなく、わたしなりに引きとっての概略のつもりだ。
  ヴァギナと子宮が妊娠と赤ん坊を連想させて鳥(バード)が萎えてできないと言って弱気になると、火美子はそれなら背面からやってみてはと提案し、それが功を奏する。火美子は出血するが、鳥(バード)は反社会性を思い出すことによって攻撃的になれた。それによって鳥(バード)が回復軌道にのるとさらに通常の性交へと移行し火美子は「オルガスム」に達する。火美子にとってはオルガスムの追求が人生上の大きな目的のひとつになっている。
  「セヴンティーン」や「性的人間」は大江の性への執着という部分をさらに部分的に分割しそれを小説というフィクションのなかで拡大再生産してできた。これらは生身の大江とはかなり隔たった人物であろうから、安心して小説のなかで野放図に拡大して終結まで突っ走らせることに何のためらいもなく済んだ。ところが本作は大江の私生活と直結する主題だから、嬰児殺しを実践させるところまでは踏み込めなかったのかもしれない。家族が読むことをおそれたのだろうか。あと一歩盛り上がらずに尻切れトンボの終わり方をするので、こういうことも思ってみた。とはいえ、戦後文学の傑作のひとつであろう。最後に大江独特の文体の力が全編にみなぎっている。少し長いが、引用する。

 

 鳥(バード)は一人で車寄せに出ていった。雨は上がり、風も衰えてきていた。空に乱れ動いている雲も明るく乾いている。すでに、夜明けの薄暗がりの繭から脱け出しきった、輝く朝だ。夏のはじめらしい大気のいい匂いがし体じゅうの筋肉も臓器もぐったりする。建物のなかの夜のなごりの優しさに甘やかされていた鳥(バード)の瞳孔に、濡れた舗道面や茂りにしげった街路樹から照りかえす朝の光が霜柱みたいに硬く白っぽくおそいかかる。その光にさからってペダルを踏みつけ走りだそうとして鳥(バード)は跳躍台に立っているような気分におそわれた。確実な地面から切りはなされ孤立している眼も昏む気分。かれはクモにつかまった弱い昆虫さながらじっと痺れていた。きみはこのまま弱い昆虫さながらに自転車をかけってどこか見知らぬ土地にいたり、数百日のあいだアルコール飲料に漬かっていることもできる、といういかがわしい天啓の声を鳥(バード)は聴いた。朝の光にさらされ、いかにも不安定にかしいだ自転車の上で鳥(バード)は揺れ、次の声を待っていた。しかしその声は二度とひびきはしない。(p34~35、()内は引用者で、ふりがなの代用)


  「輝く朝」「夏のはじめらしい大気のいい匂い」が体じゅうをぐったりさせるとは、いかにも大江らしい強引な喩だが、これは病院にシステムに象徴される表向きなんの支障もなく快適そうに流れる日常社会全体への怖れと後退願望の表現だろう。夏の「朝の光」を冬をあらわす「霜柱みたい」と書くのも同じだ。さらに「いかがわしい天啓」という変な言葉づかい。読みにくいが、主人公の憂鬱さを片時も忘れずに定着させるため、降ってわいた「非日常」を描き切るために独特の文体が全軍躍動する。

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