大洋ボート

ダンス・ウィズ・ウルブス(1990/アメリカ)

ダンス・ウィズ・ウルブス [DVD]ダンス・ウィズ・ウルブス [DVD]
(2010/07/14)
ケビン・コスナー、メアリー・マクドネル 他

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  西部劇があまり作られなくなったのは1960年代前半あたりからだろうか。その理由を知る者ではないが、とくにインディアンと呼ばれた現地住民との騎馬戦を描いた作品がいちじるしく減ったようだ。ベトナム戦争の長期化もあって弱小民族いじめとダブったからか。それとも単にマンネリと見られたのか。西部の開拓された小さな町でのたとえば保安官のような正義漢とならず者との対決というネタはひきつづき受け継がれて、ときどきは作られたようだが。
  本作はめずらしいことに軍人であるケビン・コスナーが親交を深めたインディアン、スー族の味方をしてアメリカ軍騎兵隊と一戦交えるという物語に特色がある。インディアンにたいする白人移民が侵略者であるという見方は、本作の制作年あたりでは広く浸透していたであろうから、それほど違和感はなかったのではないか。逆に衝撃度もまた深くはなかったのかもしれない。
  わたしが気に入ったのはロケ地の風景だ。従来のジョン・フォード監督の作品群なら、モニュメント・バレーと呼ばれる赤茶けた土の砂漠と独特の形状の岩山がセットになった土地がもっぱらであり、西部劇の固有性の大きい要素であったのだが、本作では一転して草原だ。丈の低い草がなだらかな起伏のある地を毛布のように覆っている。それにさまざまな形状で浮びあがる雲。これらの風景が西部劇としてはなかなか新鮮だ。さらにはバッファローの群れ。疾駆して土煙を立てるのがわかる。どうやってこの野生動物を集めることができ撮影できたのか不思議なくらいだが、そのうえ何頭かを矢やライフルで狩猟する場面もある。残酷さよりも壮大さをわたしは受け取った。題名にもなっている狼も出てくるが、これはさほど重要な役割ではない。
  俳優陣では気の触れたようにさまよっているところをコスナーに助けられ、インディアンに預けられて育ちやがてコスナーの妻になるメアリー・マクドネルという人が印象的だった。はじめの恐怖におののく表情から最後には妻として板についたそれに変わっていく。ケビン・コスナーはしばらく見なかったが、俳優としてはか細い声であることを思い出した。
  上映時間が3時間に達する長さにもかかわらず、出だしの部分が省略気味でよく飲み込めない。南北戦争のさなか北軍のコスナーが南軍の陣地の間近で自殺志願のように馬を走らせる無謀さ。やがて希望の赴任地をえらぶことを許されるが、これまた自殺志願のように最前線の砦をえらぶ。案の定そこはインディアン(スー族とは別の部族か)に襲撃されて廃墟と化している。「省略」というよりもアクション映画固有のスーパーヒーローと受けとるべきか。
  ★★★★
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松本清張「鬼畜」「カルデアネスの舟板」「1年半待て」

張込み (新潮文庫―傑作短篇集)張込み (新潮文庫―傑作短篇集)
(1965/12/17)
松本 清張

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  「鬼畜」は鬱陶しい短編。主要人物三人すべてが悪人だからろくなことにならない。竹中宗吉は腕のいい印刷職人。印刷技術についてはわたしはまったくわからないが、察するに古い時代においては手書きによる精密さが要求されたのではないか。「石版の製版技術」において彼の住む地方の業界では、宗吉はちょっとした有名人だった、とある。十代で住み込みからはじめてやがて自分の店をもつことになる。裸一貫からの叩き上げである。下請けから出発し、やがて発注先のメーカーから直に注文をとるまでになり、工場も少しずつ大きくして順調そのもの。貯金も増える。だが、それまで仕事一筋だった宗吉は遊びを覚える。すでにお梅という女と結婚していた身であったが、料理屋の女中の菊代という女を愛人にして、子供を三人もつくる。金は潤沢で、菊代に不自由はさせなかった。要求を入れて家ももたせた。宗吉とお梅との間には子はいない、またお梅は菊代の存在をまったく知らない、この間八年。だがやがて宗吉の商売は暗転する。新型の機械を近隣の印刷所が導入したことによって仕事をうばわれるのだ。菊代に渡す金も無くなり、しだいに足が遠のく宗吉。やがて菊代が子供三人をつれて宗吉の家に乗り込んでくる。
  お梅と菊代の二人の女は絵に描いたように冷酷そのもの。子供を押し付けあうのだ。引き受ける気は二人にはまったくなく、菊代は子供をおいたまま姿をくらます。お梅は宗吉に子供の「始末」を暗に強要する。宗吉には、お梅に愛人と子供のことを隠しつづけた ことと、商売がどん底に堕ちたことへの後ろめたさがある。自分自身のしたことが自分に跳ね返ってきたさいの責任感が少しはあって、正面切って二人に言い返すことができない。小心者の宗吉は子供への同情をつのらせながらもお梅の要求どおりのことをずるずると実行する……。
  子供は親の持ち物ではなく、独立した人格であるから自分勝手に「始末」することなど許されるはずもない。宗吉に欠けていたのはそうした公共心だ。そうは言っても、宗吉に一抹の同情が湧かないでもない。わたしたちは大部分の善人にかこまれてようやくのように安穏な生活ができるのかもしれないからだ。周囲が悪人ばかりだと、わたしたちの「個」もそれに多かれ少なかれ影響を受けずにはいられないのか。子供への虐待や育児放棄が新聞紙面を埋めることがあるが、またかと思って読み流すことがしばしばだが、本短編に接してやはり暗い気分になった。宗吉は頭を地面にこすりつけてでもお梅に育児への協力を乞うしかなかったのではないか。何年かすれば子供も自立する。
  「カルデアネスの舟板」は、身過ぎ世過ぎにたくみで高収入をものにする大学教授の話。玖村(くむら)武二は歴史科の教授で左翼的史観の持ち主。戦後の早い時期に教科書の執筆者となりその印税収入で裕福な暮らしぶりを満喫していた。しかしながら彼は戦中に皇国的歴史観の主張者で大政翼賛会にも属していた大鶴惠之輔教授の弟子格に当たる人で、当然戦中は大鶴と同様の歴史観であったものの、戦後に国家体制が激変して反国家的=左翼的歴史観が勢いを増すと、戦中の考えを引っ込めてにわかにそれに同調する主張をはじめた。変わり身が早いのだが、本人にとってはその変節ぶりが露骨にならないように気を使ったつもりだ。パージを受けて田舎の実家に逼塞する大鶴を講演会のついでに玖村が訪ねる場面がはじまりだ。玖村は大鶴から大学復帰への助力を依頼され、引き受ける。玖村としては表面上の義理をはたすだけのつもりだったが、その働きもあって大鶴は復帰をはたす。面白いことに大鶴もまた硬骨感ではなく、生活の豊かさに目のない輩で、にわかに戦中の歴史観をかなぐり捨てて左翼的歴史観にすりよってくる。その手法を玖村から手ほどきを受けようとする。一等地に立派な家を建て蔵書も豊富な玖村が羨ましくてしようがない。一方、玖村にとってはそういう大鶴がしだいに煙たい存在になってくる。
  歴史学にかぎらず思想というものが売り物になることの典型的な例がここにある。やがて文部省があまりに度が過ぎた左翼的史観によって書かれた教科書に業を煮やし、指導を強化して一部の教書書を不採用とし、執筆者の一部も排除される事態が発生する。すると用心深い玖村は、今度は逆に右の方向へ微修正をかさねるという策を弄するのだ、勿論目立たないようにするつもりで。大鶴もまた玖村にならって同じ策をとろうとする……。呆れた。教科書の著者になると売れることは決まっているから給料外の豊富な金をうることができ、また参考書でも売れれば同じだろう。わたしは、学者は節操を重んじてもらいたいと思う、必要以上の金銭ではなく名誉をえてもらいたい。しかし現在でも学者のこういった傾向ははびこっていると想像がつく。話としては面白いというべきか。やがて玖村と大鶴とのこうした関係が犯罪と結びつく事態となるが、ここはやや説得力が薄いように思えた。松本清張だから犯罪や事件にして小説を終わらせることが定式のようだが。
  「1年半待て」は松本の小説にしばしば登場する男殺しの女性が主人公。さと子は生命保険会社の優秀な外交員で収入も多いが、それに比べて夫の要吉は仕事をしたのは結婚当初だけで、あとはさと子に生活費をたよる怠惰に陥り、さらには酒に溺れ暴力をふるうというどうしようもない男になってしまう。詳細は書かないが、当時(1957年発表)は現代ほど離婚が容易ではなかった時代背景があると推測する。

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ジャージー・ボーイズ

  楽しかった。映画館に頻繁に行ける時間がもてない身分だが、この楽しさは「スラムドッグ・ミリオネア」以来か。
  1960年代前半に大ヒットを連発したポップスグループ「ザ・フォーシーズンズ」の軌跡をベースにしたものの、たんに伝記性にとどまらない、わたしたちの人生にも共通する喜怒哀楽や波乱万丈が見事に定着されていて普遍性がある。長い人生が2時間弱の時間に凝縮されて、つぎつぎに予期せぬ出来事が到来し、はらはらさせて、観客は思い当たることが多くあって自分のことのようにスクリーンに入って行ける。
  彼等は若い頃から歌手志望でアマチュアバンドとして小さな舞台に立っていたが、マフィアとつながりのあるチンピラでもあった。強盗をはたらく場面があって、これがなかなかの見もの。深夜無人の店舗から大きなロッカーを盗み出したものの車の後部トランクに入りきらない、それに重いから車が後ろに傾いてしまい、かまわず逃走しようとするものの案の定捕まってしまう。ある者は刑務所行き、ある者は執行猶予となる。面白くおかしいこと、反社会的なことをやってみたくなる年頃だ。わたしは強盗はやらなかったが若い頃は同じような気分に支配されていたので何の抵抗もなくみられた。若い頃の環境と仲間意識がこういう行動をとらせる。それにこれは映画だということ、映画はハメを外すことが許され観客を喜ばせる。この導入部の出来事の表現がすぐれていて、もっと映画を見たい、もっと面白くなれという気分にさせる。
  最初3人だったグループだが、四人目のメンバーを誘うところも面白い。その男ボブは作曲ができるという評判で、出会ったときにピアノの弾き語りを3人に聴かせる場面。その歌声に見せられてリードボーカルのフランキーがバックコーラスを即興でつけると、ボブもたちまち気分よくなって歌いつづける。お互いの才能と素質を見抜きあう瞬間だ。歌い手同士の共感と盛り上がりとはこんな素晴らしいものかと納得させられる。ここで彼等は、歌手としての上昇のきっかけをつかんだのだろう、わたしたち観客も応援する姿勢にもっていかれる。そして最初のヒット曲「シェリー」をひっさげてのデビュー。フランキー・ヴァリ役のジョン・ロイド・ヤングの歌声が素晴らしい。実在のヴァリと似ているもののコピーなどではなくヤング自身の歌声だ。この歌声が魅了することによって「ザ・フォーシーズンズ」をなぞるという伝記性は超えられ、映画の「現在進行形」の心地よい緊張がさらに豊かになる。歌手をモデルにした映画は多数にのぼるが、俳優が元歌にあわせて口パクで歌うのだったら、これほどの盛り上がりは創れなかっただろう。歌いながらスタンドマイクをもってリズミカルに体を揺らすヴァリと3人。これもあらかじめ振り付けしたのではなく歌の心地よさから自然に派生した印象だ。歌がたんに仕事ではなく、それ以上に彼等は上昇と成功の真っ只中にいることが力強く表現されている。
  以後はさらなる成功とともにメンバー同士の確執やフランキーの家族の問題が浮上してくる。前者においてリーダー格のトムの金銭問題がクローズアップされるのだが、トム役の俳優の人相が少しずつ悪くなっていくのにも感心した。微妙にメイクや髪型をかえているのか、そうでないのかわからないが、とにかくもそうみえてしまって唸った。
  その他にも発見がある。アメリカの60年代というと、ケネディ大統領暗殺事件やベトナム戦争の泥沼化などの時代背景があるが、それらはとりあげられず、ことさら60年代を印象付けることはしない。当時の旧式の自動車を走らせる、これだけで「昔」であることがわかって簡潔だ。あとは画面の丸いモノクロテレビくらい。それにクリント・イーストウッド監督の俳優時代のポスターがほんの一瞬映されて喜ばせる。ナレーターの代わりに画面に向かって俳優が背景説明をするのも成功した工夫だ。最初はトムがその担当で、ずっと彼がするのかとおもわせておいて、4人組のほかのメンバーもそれをする。本作がはじめての工夫ではないかもしれないが。さらに最後の大団円ともいうべき出演者全員によるダメ押しの合唱。まだ歌を聴かせるのかといううんざり感はまったくなく、いいなと感じる以外ない。クリストファー・ウォーケンがダンスするのも憎い。このように、意外性が小さなものから大きなものまであって。つぎつぎに到来して観客を飽きさせない。中心部には勿論、歌の威力があって、苦難と不幸をのりこえていけそうな温もりがある。
   ★★★★★
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