大洋ボート

松本清張「張込み」「顔」「声」

張込み―傑作短編集(五)―張込み―傑作短編集(五)―
(2013/05/17)
松本清張

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  松本清張が長編推理『点と線』で一躍流行作家となったのは昭和33年(1958)であるが、それ以前にも多くの短編を世に送り出している。本文庫に収められた8編は1955年から1957年の間に発表されたものだそうだ。
  冒頭の「張込み」は題名どおり、刑事が、殺人犯が立ち寄りそうな民家に連日張込みをかけるという話。その家の主婦はかつてその殺人犯と恋人関係にあったが、結ばれることはなく、20歳ほど年上の男のもとに後妻となって嫁いでいる。刑事はその家を監視できる場所にある宿を取るのだが、聞き込みするうちに女のあまり幸福ではなさそうな暮らしぶりを知ることになり、ほのかな同情が湧いてくる。はたして殺人犯となった男はたずねてくるのか……。張込みをはじめ、刑事の地道な捜査の実情は多くの本によって広く知られることになったが、当時としては新鮮であったのかもしれない。また逆に時代背景をしのばせる場面もある。「三等車」というのがあったのだ。刑事は夜行列車のそれに乗って横浜から九州に移動するが、目的地に着くのが翌日の深夜である。そんなに時間がかかったのか。また翻訳のつけられた方言も少し登場する。方言というのも衰退しつつあるのだろう。
  「顔」は薄給の劇団員が主人公。しかし劇団が映画会社と契約を結んだことからこの劇団員にも映画出演のチャンスが訪れる。最初は端役であったものの、監督に目をつけられて重要な役に抜擢される。だが彼にはかねてより怖れていたことがある。彼は殺人者だったからで、被害者の女性は発見されて身元も割れたが、犯人は警察によっては特定されずに迷宮入りとなった。そのまま売れない役者なら彼は安心である。だが映画に出て顔が知られるようになったらまずい。何故なら犯行現場に行く途中の汽車で、彼と同行した被害者は知り合いの男に偶然出会って、彼も顔を隠したものの目撃されてしまった。目撃者に映画を見られて気づかれたら彼の運命は暗転する。かといって役者として売れて高収入を得る魅力にも打ち勝ちがたい。そこに主人公のジレンマがある。彼は生前の被害者から知り合いについて聞かされて、少ない手がかりから探偵社をつかって身元を割り出したうえ、毎年その調査を依頼するという念の入れようだった。やがて彼はその男性の殺害計画を練ることになる……。あとの展開は書かないが、面白いことには目撃者は彼の顔をまったく覚えていなかったのである。かといって主人公の思いが杞憂だったのではない。目撃者は主人公の出た映画を見て、顔以外のことを鮮明に思い出したのだ。ああ、そういうことならありそうだと思わせる見事な意外性。それに顔を知られる舞台がテレビではなく映画であることが当時らしい。
  「声」は電話交換手の女性朝子(ともこ)が主人公。大きな会社や組織が外部との電話連絡において必要であったようだが、今ではそういう専門職を聞かなくなった。これも時代だ。朝子が所属する新聞社の某社員に依頼されて深夜ながら相手先に電話を入れるところがはじまりだ。だが女性はまちがえて電話帳の一段ずれたところに掛けてしまい、電話には男が出たが「こちらは火葬場だよ」と言って不快そうに切ってしまった。のちにこの電話先の家が殺人事件の現場であることが新聞記事に出て、朝子も知るところとなって警察に通報する。朝子の会社には300人の社員がいるものの、朝子はすべての社員の声どころか、外部から頻繁にかかってくる社員の知り合いの声も記憶しているというたいへん耳のよい女性である。おかげで社員のゴシップ的なネタも把握している。くだんの殺人現場の声も鮮明に記憶していて、二度目に聴くチャンスがあれば言い当てることができると言う。偶然がかさなって実はその声の主は朝子の身近なところにいるのだが、朝子は気づかない。ここが面白く読めた、そんなものかと思ってうなってしまった。ネタばらしは控えるがちょっとした機知がある。あとの展開も控えるが、当時の国鉄の田端機関庫が舞台として出てくる。機関車用の石炭を集積した「貯炭場」があったそうな。これも今はたぶんなくなっているのだろう。そこの石炭粉が「被害者」の肺から発見されるが、これは犯人のアリバイ工作。
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NO

  1988年、チリのピノチェト大統領は自らの信任投票を実施することになった。軍事独裁政権といわれた強権的な国家運営が支持国のアメリカなどから批判されたためである。投票日までの期間,支持派(YES派)と反対派(NO派)のあいだで激しい宣伝戦がくりひろげられる。両派は1日15分間のテレビCMの放映枠をあてがわれ、反対派に雇われたのが広告会社のガエル・ガルシア・ベルナル。妻が反ピノチェト派の活動家だったので無理もない。同じ広告会社には支持派もいて、CM制作において両派に分かれてしのぎをけずることになる。
  反対派がはじめに制作した見本CMは、政権のそれまでの苛酷で無慈悲な弾圧ぶりを喧伝するものであった。ニュースフィルムをバックにして、ナレーターが虐殺者、逮捕者、拷問者の人数を語る硬派的性格のものだった。ディレクター格のベルナルは異議をとなえて、明るくユーモアのある内容にしなければならないと説く。たとえば、中年夫婦がベッドにそろって居並んで、上半身を起こした状態でカメラに向いて、夫が妻に営みを迫ると妻は「NO」を連発する。すると夫は苛立ってやはり「NO」を連呼。ずいぶんくだけた中身に変えた。また虹と「NO」の文字を組み合わせたロゴマークも作る。それにたいして支持派はもっぱらピノチェトの偉大さを前面に押し出すというオーソドックスなもの。
  わたしは古いことだが、60年代の東京都知事選を思い出した。美濃部という人が初当選したが、そのときの選挙戦略が「イメージ選挙」といわれるもので、統一された明るい色の幟をもって、同じく統一されたユニホームの選挙運動員が風船などを手にして走りまわったと記憶している。詳しいことは忘れたが、こ難しい政策論議を回避して明るさとのんびり気分を演出したことが、美濃部の勝利につながったようだ。その後、「イメージ選挙」は保守・革新を問わず、ほとんどの選挙戦で模倣される。選挙戦が宣伝戦略としてはじめて位置づけられた選挙で、だからわたしのなかではこの映画のネタとしての新しさは、それほどではない。
  電子レンジが出てくる。またベルナルは小さなレールを走る鉄道模型を家庭で楽しむ。家電製品と奢侈品で、ピノチェトという人はクーデターで政権を奪取した軍人で、反対派にたいする弾圧にも遠慮がなかったようだが、このような「先進国化」も推進した人でもあり、その路線は国民も評価したのだろう。だが同時にピノチェトなしでもその路線は十分に推し進めることができると国民は踏んだのではないか。反対派の大規模な集会にピノチェトは危機感をつのらせて軍隊をつかって弾圧を試みる。またCMでは反対派のベッドでの夫婦のやりとりをまったく模倣したものをつくって、ただ「NO」の代わりに「YES」と言わせるものを流すが、まったくのちぐはぐぶりで、ここまでくると反対派の勝利は確定した観がある。
  はじけたところのない、真面目で地味な映画だ。
   ★★★
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大江健三郎「セヴンティーン」

性的人間(新潮文庫)性的人間(新潮文庫)
(2014/03/14)
大江 健三郎

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  十七歳の高校生の主人公が、急進的な右翼政党に入党するまでの心の軌跡が描かれる。まるで自分のことが書かれているかのような気分で読んだ。というのもわたしも高校生のとき左翼過激派に属した活動家だったからである。右も左も関係なく、その主観的な上昇の気分はほとんど同じである。もっとも大江健三郎は多分に主人公に軽薄さと少年らしい有頂天の気分を付与し、冷静さを奪っている。右でも左でも、たとえ過激派であっても、もっと冷静沈着な人物はいたにちがいないが、わたしはふりかえってみてお世辞にもそれに値する人間ではなかったので、主人公に身近さを感じた。大江はそれまでにも「他人の足」「人間の羊」等で、政治的オルガナイザーの熱情と欺瞞をたくみに描いたが、この「セヴンティーン」の主人公はそれらの前例をはるかに幼稚にし、また急進化し、暴力志向的につくりなおされたものである。大江は政治的に上昇しようとする人間の内心の不満や苛立ちや見栄を若い時代から見抜いていたのだろうが、逆にそういう人間への文学的な親近感もまた距離をとりつつも溢れかえっているようにも思える。渡辺広士の解説によると、発表は1961年1月である。
  十七歳の誕生日を迎えた時点から本編ははじまるが、なんと主人公は風呂場で「自涜」(マスターベーション)に励む。これはそれ以外にのめりこむことを見つけられずに、本人は恥ずかしさと後ろめたさを自覚しつつもやめられない常習的悪癖。これが劣等感の根っこにある。さらには家族や進学校の同級生にたいする劣等感がある。父はアメリカ的自由主義を自認し、子供にたいしては放任主義の立場だが、息子からみると冷淡に映る。主人公はそのときはどちらかというと左翼に漠然とした親近感を抱くが、自衛隊の病院で看護士をする姉の自衛隊擁護論を言い負かすことができない。学校にあっては勉強で秀才たちにどんどんおいてきぼりにされる……。家族のことはともかくも、勉強での劣等感はわたしにもあった。いくら勉強に精出してもかなわないだろうと思わせる同級生がごろごろいた。それにわたしには明確な大学進学の意志がなかったので、やる気が沸かなかったということもある。父が鉄工所を自衛していたので、いざとなればそこで働くことも視野に入っていたのかもしれない。そんなことで、わたしも主人公と同じく、高校生活は暗くて孤独な一面があったことは共通していた。
  主人公は学力テストの日に遅刻してさんざんな成績に終わる。さらにその日の午後に行われた体育テストでは、八百メートル競走で小便を垂らすという大失態をやらしてしまう。黒々とした跡を運動場に残すのだ。当然、教師や同級生の嘲笑の的になる。だが「新東宝」とあだなされる勉強も比較的できて人気者の同級生から「《右》のさくらをやらないか」と呼びかけられて、主人公に転機がおとずれる。「皇道派」代表の街頭演説に参加すると日当がもらえるというのだ。普段冗談を言ってクラスの連中を喜ばせる「新東宝」の意外な面を知るどころか、彼の真剣なへりくだった眼差しに接して、主人公は孤独感を癒される気がする。さらには「新東宝」への優越感さえ生まれてくる。これも即座に納得できる。自分が思いがけなく「個」として尊重される場面に出会うことがなにかしら貴重に思えてきて、手放したくない気にさせられるのだ。わたしも先に組織に属していた人から誘われたときには、そういう気になったものだった。
  そして主人公をうちのめすように「回心」に導くのが「皇道派」逆木原国彦の演説である。その第一印象は「ひどい」もので、だれ一人聞いていないにもかかわらず、熱狂して怒号をくりかえすというしかなかったのだが、世界にたいする「敵意と憎悪」がしだいに自分の肉体に乗り移ってくる。

いつも自分を咎めだてし弱点をつき刺し自己嫌悪で泥まみれになり自分のように憎むべき者はいないと考える自分のなかの批評家が突然おれの心にいなくなっていたのだ。おれは傷口をなめずっていたわるように全身傷だらけの自分を甘やかしていた、おれは仔犬だった、そして盲目的に優しい親犬でもあった、おれは仔犬の自分を無条件にゆるしてなめずり、また仔犬のおれに酷いことをする他人どもに無条件で吠えかかり咬みつこうとしていた。しかもおれは眠いようなうっとりした気持ちでそれを行っていたのだ。そのうちおれは夢のなかにいるように、おれ自身が現実世界の他人どもに投げかける悪意と憎悪の言葉を、おれ自身の耳に聴き始めた。それを実際に怒号しているのは逆木原国彦だ、しかしその演説の悪意と憎悪の形容はすべておれ自身の内心の声であった、(P166)


  このように政治的アジテーションが主人公に感銘を与え,同心一体の境地にまでひっぱりあげてしまう。ここまで一気に急上昇してしまうものなのか、多くの人に共通はしないであろうが、孤独感などの飢えを意識する少年にとってはありうる、それが感動であり快感であるということは確かな説得力がある。はじめのほうで記したが、本編は1960年の安保闘争の約半年後に発表された。その大きな渦のような混乱さめやらぬ時期であっただろう。その頃からか、政治運動は大衆化した。テレビの普及によってその行動の派手さがひろく伝えられるようになり、関心もそこにより多く注がれた。わたしも安保のデモ隊の残像が事態が終息した後もながくあった。主人公もまた右翼の演説の攻撃性に圧倒されるのだ。政治的関心といっても文献をこつこつ読み漁ってから参加するというのではなく、たとえ錯覚であったとしても最初に受けた視覚やら聴覚から流入してくる感動を起点して入っていくのだ。のちに文献にあたったとしても、その「感動」を手放すことはないから客観的視座は減殺される。
  主人公にとってはもはや勉学の遅れをとりもどす努力をかさねて親を喜ばすという選択肢はない。同級生との距離をちぢめるよりも《右》の正統性により近づくことで、劣等感を霧散させようとする。主人公に言わせれば「私心を捨てる」ことだ。その根っこにあった「自涜」でさえ、そこからとおざかろうとはせずに逆にその快感を最大の快感として、天皇に直結させることもする。有頂天で盲想のきわみであったとしても少年にとっては真実にちがいない。逆木原に勧められてトルコ風呂(ソープランド)に右翼の制服を着用したまま行って、ことに達する場面。
 

 おれの男根が日の光だった、おれの男根が花だった、おれは激烈なオルガスムの快感におそわれ、また暗黒の空にうかぶ黄金の人間を見た、ああ、おお、天皇陛下! 燦然たる太陽の天皇陛下、ああ、ああ、おお! やがてヒステリー質の視覚異常から回復したおれの眼は、娘の頬に涙のようにおれの精液がとび散って光っているのを見た、おれは自涜後の失望感どころか昂然とした喜びに浸り、再び皇道派の制服を着るまでこの奴隷の娘に一言も話しかけなかった。それは正しい態度だった。この夜のおれの得た教訓は三つだ、《右》少年おれが完全に他人どもの眼を克服したこと、《右》少年おれが弱い他人どもにたいしていかなる残虐の権利をも持つこと、そして《右》少年おれが天皇陛下の子であることだ。(p180)


  本短編は一方通行である。いくら政治的信条を堅固にし頑迷にしようとも人は弱いもので、孤独や挫折に見舞われることがほとんどではないか。折り返し点を通過してのち、ふたたび人は政治などの大きな舞台から自分を観念的にでも切り放して自分を見つめる事態に遭遇するはずだが、そこまでは描かれない。ただ、これは本編の欠点ではなく、「政治少年死す」という続編が書かれてそこに委ねられていると聞くが、発売禁止の措置がとられたままだという。

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大江健三郎「性的人間」

性的人間(新潮文庫)性的人間(新潮文庫)
(2014/03/14)
大江 健三郎

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  「性的人間」は前回とりあげた「戦いの今日」から5年後の1963年の発表だそうだ。(本文庫・渡辺広士解説による)その間にも大江健三郎は多くの長・短編を書いているが、ずいぶんと変貌したものと思わざるをえない。初期においても創作性が強いが、それでも作品のなかの人物は、すべてではないにせよ現実世界に足を着いた何処にでも居そうな人々が多く描かれていたのだが、この中編には一見してそれらしい人物はみあたらない。さして重要な指摘ではないが、これは主人公Jの別荘に集まるメンバーが彫刻家、カメラマン、詩人、俳優、歌手など独立して動く人物であることからくる印象だろうか。わたしたちの日常とはかなり遠いと思った。漁村の女・子供がそれにあたるともみえるが、やはり独特にデフォルメされて主要人物らの観念に照応する側面だけが拡大して描かれている。これはJがまさに性の世界にのみ関心を抱き、没頭しようとする「性的人間」として描かれるためで、その影響下にある周辺の人々もそろって性とその秘匿性を意識している。その限定性と抽象性が放射されるからだろう。
  性にのみ関心を抱きつづける人間はいるにちがいなく、Jもまたそれらしく受け取られそうだが、じつは最初の妻の自殺に強い後ろめたさを持っていて、このことが小説を観念的に上昇させている。痴漢になったJは性の世界に没頭しつつも、同時に自己処罰の欲求をみたし妻への贖罪を完成させるという仕組みになっていて、この観念の充実ぶりを読者はみせつけられるのだ。性の限定された世界を引きずりながらもまったくの別世界が最後に書きとめられる。
  Jは、小説の書かれた年代を思わせる古い言葉づかいだが「性倒錯者」である。ホモ・セクシュアルであり、妻以外の異性と関係をもつことも平気であるようで、それを苦にされて最初の妻に自殺されてしまった。だがJはそういう性的嗜好を変えようとはしない。むしろ二番目の妻にそれを認めさせることがその後の自身の平穏さを保障してくれるものと期待する。二番目の妻は映画監督志望で、鉄鋼会社社長の息子であるJは裕福でスポンサーにはうってつけで、その理由から蜜子というその女はJと結婚した。一番大事なのは映画作りで、そのためには夫の異常性愛にも眼をつむる。また自身の不感症もオルガスムスからとおざかるためにはかえって好都合と決めてしまう女性である。だがそうあっさりと割り切れるものではない。蜜子にとってはJは不気味このうえなく、性交のたびにJの生理的欲求に覆いかぶさるような彼の絶望のようなものを覗きみざるをえない。性愛においては甘えや愛情がともなうのが当然だという前提がだれでもが無意識にもっているものだが、その前提でみるとJは気味悪い。小説はJらの一行七人が映画撮影のためにJの別荘に着いて一晩を過ごすところが前半の主な場面。Jははやくも十八歳の娘ケイコとベッドをともにし、しばらくしてから娘から蜜子に交代の呼びかけがあって蜜子は応じる。一方、蜜子もまた同行した詩人やらカメラマンやらに思慕されてセックスに流れ込みそうになってかろうじて踏みとどまるということもある。オルガスムスの予兆を敏感に感じて蜜子は動揺する。
  裕福なJにとっては妻に映画作りの資金を提供したり、詩人にそれを貸したりすることは容易で、人を寄せ集めて「自分を核とした自分流の性の小世界をつくりあげたいとねがっていた。」Jは自身の性倒錯が最初の妻を自殺に追いやったとしても、その苦しみから逃れるためにはやはり自分の嗜好に合致する「性の小世界」しか、みいだせないのだ。慰みであり、引きこもりだ。本文にはこう書かれている。

一年たってJと娘とは結婚した。それからJの遠大な根気強い陰湿な計画がすすめられはじめた。Jは自分を核とした自分流の性の小世界をつくりあげたいとねがっていた。Jはスキャンダルを懼れていた、それはかれの家族の属している社会の血みたいなものだ。それにまたJは勇敢すぎる妹とは逆にじつに敏感に恐怖に反応する臆病なウサギの心をもっていた。最初の妻の死以後かれは現実世界にたいしてなにひとつ働きかけることのできない男になっていた。しかもなおかれは自分流の性の小世界にたいしてだけはカキが岩にしがみつくみたいに固執していたのだ。それがかれの生涯のただひとつの意味への通路であると感じて。(p44)


  Jが何ゆえに性の世界にそんなにも執着するのかは、わからない。その形成過程を描くことは省略されていて、Jはそういう人だと読者は納得すればいいのだ。ただJがふりまく世界はどうあっても人間の常識的性愛には合致するものではなく、やがて破綻する運命にある。蜜子をはじめとしてだれひとりJの援助に引け目を感じつつも、その性的異常性には違和感をもたざるをえないのだ。蜜子はカメラマンと仲良くなり、それぞれの都合があるにせよ、他の人物もJからとおざかっていく。
  Jの目論見はこのように破綻し、あらためて浮上してくるのが最初の妻への引け目であり、これにJとしては立ち向かわなければならない。父からは会社の重要ポストを提示されるが、Jは「順応主義者」となることを拒否する。書いてしまったが、社会的に糾弾されるべき痴漢になってしまうのだ。これは勿論、異常性愛からの離脱や「更生」を意味するものではない。痴漢もまた異常に決まっている。だから性を断ち切るのではない。性を引きずりつつ最初に遂行すべきことが贖罪なのだ。贖罪の淡い希望をJを中心としたサロン的「性の小世界」につないだものの、それが毀れてしまったとなってはまっ先にとりかからねばならないと思うのが贖罪であり、Jなりの自己処罰だ。それを亡き妻にみてもらうことだ。
 

 ある朝、不意にJは痴漢となることに定めたのだった。そのときかれはきわめて性の世界から遠い、いわば反・性的な自己処罰の欲求にかられていた。そしてまた同時にJは激しい渇望のような、性的な昂奮の予兆にかりたてられてもいた。しかしJはその最初の回心にあたって痴漢としてのかれ自身のなかの性の双頭の怪物をはっきり意識していたのではなかった。かれはただ、不眠の夜をすごしたあげくの、ある冬のはじめの午前九時にベッドの中で、おれは痴漢になろう、と考えたのだ。(p89)


  後半部では、痴漢をみずからの本姓と決めて実行する少年と老人が登場してJに重要な示唆をあたえ、また束の間の友情をはぐくむことになるのだが、割愛する。この中編小説は性に舞台を借りた観念の展開だろうかと読み終えたときには思ったが、そうではないのかもしれない。大江にとって性は自身の奥深くに根ざした渇望であり、宿命であると自覚するようだ。人間的な愛情などよりももっと以前にある原始的な情動で、自身の中で虫が蠢くようなもので、断ち切りがたいものであるようだ。大江は主人公にそれを引き受けさせた。

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大江健三郎「人間の羊」「戦いの今日」

死者の奢り・飼育(新潮文庫)死者の奢り・飼育(新潮文庫)
(2014/03/14)
大江 健三郎

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  「人間の羊」は主人公がたまたま乗り合わせたバスのなかで、アメリカ兵の数人から暴行まがいの恥辱を受けるというのが前半部。一人のアメリカ兵の馴染みであるらしい日本人の売春婦がその兵にからまれてうんざりして、「僕」に助けをもとめて擦り寄ってくる。「僕」は女を拒まないまでも、相手にしたくない。ところがバスが急な動き方をしたために女は仰向けになって倒れる。それをみたアメリカ兵たちがそれを「僕」のせいだとして憤懣の矛先を彼に向けてくる。ズボンとパンツを脱がされて晒し者にされるのだ。さらに他の乗客の何人かも同じ目にあわされる。中央の通路に四つんばいにされて並ばされるようだ。だが主人公をはじめ傍観者でいられた人もふくめて乗客全員がおとなしく無抵抗で、ふざけて囃し立てるアメリカ兵の一団の乱暴狼藉になすすべもない。くだんの女もアメリカ兵の側にたって罵倒する……。
  現在においても在日米兵の日本国内での犯罪が露見することがあるが、昭和20,30年だいにおいてはもっと頻繁に起きていたのかもしれない。それでなくともアメリカ兵の日本民間人に対する横柄で高圧的な姿勢は日常的であったと想像せざるを得ない。目の当たりにしたのではないが。そしてまた日本人の抵抗もおそらくは貧弱であったのだろう。自国が敗戦国であり、アメリカが復興や防衛にも一役買ってくれているという劣等意識もはたらいたのだろうか。
  アメリカ兵の一団はやがてバスから去っていく。主人公は屈辱にまみれるが、忘れようとして帰宅の途につこうとする。だが、バスに同乗していてたまたま傍観者にとどめおかれた教員の男が主人公に執拗につきまとってきて、警察への通報をつよく勧めるのだ。ここからが後半部。教員は政治的関心の持ち主であるにとどまらず、特定組織の一員であることが想像される。彼は眼前に起った出来事を政治闘争の材料にしようとはじめからたくらんだのか。彼もまたアメリカ兵にたいしては無抵抗だったのだが、その後ろめたさは欠片もないのだ。屈辱はあってもむしろそれをバネにして政治的に利用しようとする。屈辱を忘れようとする主人公とは対蹠的で、なにかしら主人公にとっては異性人の類いに映る。それどころかその執拗さと見下す態度はアメリカ兵そのままではないか。教員は主人公を交番に強引に連れて行って訴えさせようとするが、ただズボンを脱がされた以上の「暴行」の事実は無いということで、巡査は相手にしない。教員のもくろみは空振りに終わるが、それでも教員は主人公の素性(名前と住所)を訊き出そうとして必死に食いついてくる。正義漢面するので手に負えないなんとも嫌味な男であるが、政治運動に携わる人にはこういう類いが多いのも現実だろう。相手が無抵抗で従順とみえると、政治運動者は笠にかかって攻撃的になるものだ。引っぱりあげることが「正しい」と思うからだ。一方、主人公はやはり一見おとなしく、大江の小説らしいが、素性を明かさないことを最後までつらぬく。バスでされたことは恥ずかしさ以上ではなく、公言するに値しないものという認識は終始落ち着いて在る。
  バスでの出来事は別にして、屈辱や失態をバネにして次なる行動につなげるか、それともそのままじっとして忘れるに任せるかは、勿論その人の選択にかかる。一人の人間のなかで、それは試される機会が何度も訪れるものだろう。この短編の教員(おそらくは政治運動家)は歪められて書かれているが。

  「戦いの今日」もアメリカ兵があつかわれている。大江にしてはめずらしく主人公の「かれ」(いつもの「僕」ではないところに注目)がアメリカ兵を暴行する場面がクライマックスとなる。
  主人公は弟とともにアメリカ軍基地の周辺を、アメリカ兵に脱走を世話するというパンフレットを内密に手渡すためにうろつく。朝鮮戦争の時代で、在日基地に待機するアメリカ兵が多かった。主人公は大学生で、大学の活動家からそのビラを渡されて頼まれたのだが、あとで判明するが、そのパンフレットは単なる宣伝目的で、組織が脱走の手はずをあらかじめ用意するものではないという。またビラを渡す現場をアメリカ憲兵に発見されようものなら、捕縛されるおそれもある。そんなわりのあわない行動で、思想的な共鳴はともかくも主人公は気乗りしないが、弟が熱心なためにつきあうように従事する。そこへアシュレイという米兵が、パンフレットを見た彼と仲の良い日本人の売春婦菊栄にともなわれてやってくる。どうするのか、脱走の準備を本格的に開始するのか、そこまで視野に入れられないままに二人は、彼らが借りている倉庫にアシュレイと菊栄を案内して住まわせる。弟がパンフレットを渡した「責任」を強く主張するからだ。嘘つき呼ばわりされたくないからだ。
  だが、四人ははじめは仲がよいが長続きしない。アシュレイが弟に暴力をふるったからだ。ジュディ・ガーランド主演の映画を見たいというアシュレイの願いをきいて、四人は周囲を警戒しながら出かけるが、ニュース映画には弱々しい日本人の姿が映し出されていた。どぶ川にはまって助けをもとめる一人の男を欄干から多くの日本人が眺めるが、だれひとり救おうとしない。(「人間の羊」をすぐに思い浮かべる)アシュレイはおそらく、敗戦国の覇気の無いみすぼらしい日本人像を受け取ったのだ。また脱走最中の自分の惨めさと不正義に目覚めたのだ。自分も戦争をおそれて逃亡する軟弱男だが、日本人ときたら自分と同じか以下ではないか、そんな日本人が頼りにできるのか、そこまでは明確には書かれてはいないが、わたしの敷衍である。そんなにわかな心情につきうごかされて、アシュレイはふざけあうさなかに弟に下水道に飛び込むことを命じ、弟はそのとおりに従う。賭けに負けたからだ。アシュレイはこのように二人の日本人が、どんな思いで彼を匿うのか、なにも理解できない不良である。ニュースをみてから彼はふたりを他の日本人と等しく「どぶ鼠」と呼ぶ。たぶん彼は日本人の無抵抗を予想し,嘲弄し、見くびった。だが主人公は帰宅してからアシュレイにこれでもかこれでもかというくらいに暴行をくわえる。
  石原慎太郎なら、このへんで痛快事として筆を終わらせるかもしれない。だが大江は暴力をふるわれることは無論、みずからふるうことにも何ともいえないやりきれなさを描くことを忘れない。心は晴れない。大江本人は元来は非暴力がふさわしく、やさしい人だが、作家としての宿命でどうしても暴力とかかずらうことから逃れられないのだ。
  アシュレイは軍が恋しくなって自首を決意したもののこれまた寸前になって逃亡するという軟弱な男であるが、菊栄は無論アシュレイに同情することにかわりなく、主人公を「人殺し」と呼び、三人が入った酒場の女にも唱和させる。アメリカ軍に経済的に依存する人々も多く居ることがわかる。主人公の暴力はやむにやまれぬ抵抗であり復讐であることは腑に落ちるが、また日本人を代表しての誇りの顕示でもあるが、同時にアメリカという国の巨大さも大江には切迫して意識されている。今よりもはるかにアメリカへの従属意識にさらされた時代だったのだろう。
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