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大江健三郎「飼育」

死者の奢り・飼育(新潮文庫)死者の奢り・飼育(新潮文庫)
(2014/03/14)
大江 健三郎

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  大江健三郎の想像力を拡張させ、延伸させる力は並ではない。初期短編の代表作といわれるこの「飼育」でそれがよくわかる。少なくとも「飼育」は行動の結果で生じた身辺的出来事を潤色して作られたものではなく、こういうことを書きたいという大江の意思的想像力を根幹にして書かれた、たぶん架空の話である。しかもそれが地に足の着いた少年時代の感覚の復活と併走して進行する。この感覚は作品全体を覆いつくしていて、ある種懐かしさを喚起させ、説得力がある。
  戦争の末期、四国の山村にアメリカ軍機が墜落し、黒人兵が捕虜となってその村にしばらくつながれる。主人公の「僕」は監視役として彼に直に接触することになるが、やがて仲良くなり猪の罠による捕縛も解いて自由にしてやる。村の人々も黒人兵との交流を楽しむ。だが非情な決定が村で下されて彼は殺害される。黒人兵に楯にされた少年の「僕」は自身も負傷しながらその一部始終を目撃する、というもの。戦争とへだてられて自由であった少年が、地元の村で否応無しに戦争の真っ只中に投げ込まれ、地獄につきおとされるのだ。少年の年齢は不明だが、裸足で歩くことを厭わないので「子供」とい呼ぶにふさわしいのであろう。
  「飼育」の初出は「文学界」昭和三十三年一月号である。戦後復興が成し遂げられた頃で、戦争の記憶の生々しさもうすれ行く時期だったのだろう。だからこそ、大江は少年がそれにいきなり巻き込まれるという、こういう話を書きたかった、作品上に戦争を復活させたかった。そういう読み方をわたしはした。架空の話であっても近い未来には戦争が口を開いて待機するのかもしれない、そういう警告である。またたんに政治的メッセージにとどまるのではなく、黒人兵との短い時間の楽園から滑り落ちてしまったという奈落感の表現でもある。黒人兵を鉈で殺すのは少年の父であり、少年の肉体を楯にして鉈から身を護ろうとするのは、あれほど仲の良かった黒人兵である。交戦中にある国家のせいで彼等は敵同士になる、そして少年はどちらからも護ってもらうことができない、どちらの味方にももはやなれないのだ。父はたぶん息子であるからこそ、あえて息子を傷つけても黒人兵を殺す役割を買って出たのだろう。戦争被害者は孤独だということだ。
  大江は戦後民主主義擁護の人である。アメリカの軍事的世界戦略とそれにともなう日米安保に反対し、憲法九条を堅持する立場である。大江の政治的発言は新聞記事でしか知らないが、作家デビューの頃から一貫しているのだろう。だがわたしから見れば、その政治的発言によってはふりおとしてしまう鉱石のような美質が彼の小説にはあり「飼育」はその好例だ。少年が日々地元の村で慣れ親しんだ風景やものが感覚を中心にしてたえず喚起される。少年は黒人兵の件を聞いてから好奇心と恐怖を刺激されて動くが、それ以前からことさら動きまわらなくても、彼の眼に映ったものが映像や匂いとして狭さとともに的確にとらえられる。少年とは「遠く」のことや未来を知らない存在であり、その分「近く」に執着するのではないか。光、霧、動物や虫、植物の姿やら匂いがふんだんに出てきて、少年が動くたびにその風景が変化し、少年の喜怒哀楽が限界まで揺すぶられる。またこれら少年にとって身近な物や匂いが喩としても使用される。

  僕も弟も、硬い表皮と厚い果肉にしっかり包みこまれた小さな種子、やわらかく水みずしく、外光にあたるだけでひりひり慄えながら剥かれてしまう甘皮のこびりついた青い種子なのだった。そして硬い表皮の外、屋根に上がると遠く狭く光って見える海のほとり、波立ち重なる山やまの向こうの都市には、長い間もちこたえられ伝
説のように壮大でぎこちなくなった戦争が澱んだ空気を吐きだしていたのだ。しかし戦争は、僕らにとって、村の若者たちの不在、時どき郵便配達夫が届けて来る戦死の通知ということにすぎなかった。戦争は硬い表皮と厚い果肉に浸透しなかった。最近になって村の上空を通過し始めた《敵》の飛行機も僕らには珍しい鳥の一種にすぎないのだった。(p96)


  読者は果物の何らかを思い浮かべる。それが映像となる。少年にとっては慣れ親しんだ物である。だが同時にそれは少年と弟の存在の喩でもあるという構造になっている。戦争と隔てられていることが言われるが、それは堅固ではなく隔離状態の脆さをも言うように読める。果実も種も脆い。アメリカ軍の飛行機を「珍しい鳥の一種」と記すのも戦争の「遠さ」によってのんびり気分を引き出し、文体の進行からしてきわめて自然だ。地元の村の映像や匂いはこのように作者の想像力の重要な要素として、ふんだんにかつ巧妙に駆使される。だがそれは安岡章太郎の「海辺の光景」にあったような出来事と匂いや映像が合体して読者に即物的に反応を迫る性質のものではなく、出来事と分けられながら併走するもののように読める。この短編で終始一貫して使用される表現上の濾過装置であり、即物的ではなくいくぶんかは抽象性を帯びたものといってよいのか。大江の思想的志向を補助し、豊穣さを保証しようとするものであることはいうまでもない。読物の目的としてはやはりそのなかの思想の実現としての出来事だ。そしてこれら喩をもふくめた村の映像や匂いの多用がうまく行くので、黒人兵の描写もすんなりとはまってしまう。大江が黒人と身近に接したことがあるのかどうかは知らないが、そんな風に読めてしまう。

  

黒人兵の形の良い頭部を覆っている縮れた短い髪は小さく固まって渦をつくり、それが狼のそれのように切りたった耳の上で煤色の炎をもえあがらせる。喉から胸へかけての皮膚は内側に黒ずんだ葡萄色の光を押しくるんでいて、彼の脂ぎって太い首が強靭な皺を作りながらねじれるごとに僕の心を捉えてしまうのだった。そして、むっと喉へこみあげてくる嘔気のように執拗に充満し、腐食性の毒のようにあらゆるものにしみとおってくる黒人兵の体臭、それは僕の頬を火照らせ、狂気のような感情をきらめかせる……(p120~121)



  黒人の外見なら映像でだれでもが見たことがあるが、体臭を近くで嗅いだことはそう誰にでもあるものではないだろう。大江も無いのかも知れないが、あたかもその異臭への嫌悪がまるで体験者のように書かれている。そしてそれが戦争を小さな山村に一気に現出させるかもしれない敵兵への子供らしい恐怖心、また未来へのはげしい好奇心への喩としても書かれている。
  黒人兵が村の大人や子供から警戒を解かれ、村を自由に歩き回ったり、子供たちと水浴びをする場面なども印象的だ。人同士の本来の接し方、生き方がたくまずして理想そのもののように、束の間ではあるが実現して光を放つ。少年もそのなかで多幸感を胸いっぱいに獲得する。
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大江健三郎「死者の奢り」その他

死者の奢り・飼育(新潮文庫)死者の奢り・飼育(新潮文庫)
(2014/03/14)
大江 健三郎

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  「文学界」昭和32年8月号に発表されたこの短編は、大江健三郎の文壇デビュー作であり、思想を表現しうる新しい作家の登場として歓迎されたという。(当文庫の江藤淳の解説)たしかに思想がある。たんに話の面白さや衝撃を読者につきつけるものではない。また思想を直接的に記述するのではなく、人間や社会がはしなくも漏出してくる異物的なものにたいする主人公の心の内部の素直な反応によって、それが浮かび上がってくるという構造になっている。その表現は柔軟でみずみずしくあるが、核心には堅固さがある。大江は戦争の記憶の継続に執着したのではないか、というのがわたしの推察である。秀作であるにはちがいなく、この短編にケチをつけるつもりもないが、大江という作家には距離を保ちたいという気持ちがわたしにはある。
  主人公の「僕」は大学文学部の学生で、もう一人の女子学生とともに医学部地下室に設置された死体保存施設で1日のアルバイトをすることになる。アルコール溶液にひたされた死体をあらたに設けられた隣室の浴槽に移動させるというのだ。施設の管理人とともにそれをするのが「僕」で、女子学生は移動を終えた死体に古い番号札に加えてあらたに番号札をくくりつけ、かつ帳簿に記載していくという役目だ。死体は新しいものから、古くは15年以上も前のものも保存されていて、つまりは戦死者のものもあって、あわせて数十体はあるようだ。医学部で火葬される前の死体が学生の実習のために解剖にふされることがあるとは聞いたことがある気がするが、不確かだ。まして死体がアルコール漬けで大学医学部に大量に保存されているという話には疑いをもつ。たぶん架空の話だろう。ところで、わたしは死体と書いたが「僕」は死体とも書くがときには死者と表現する。題名も「死者の奢り」だ。これは「僕」の死体としての死者にたいする親近感と崇敬の念だと思われる。「僕」は死体をことさら怖がったり気持ち悪がったりせずに、アルバイトの告知を発見すると躊躇いなく応募した。経済的理由だと本人は言う。それに浴槽内の「死者」の描写もことさら煽情的ではない。また女子学生は妊娠中の身で、中絶を念頭に置くものの「死者」を目の当たりにすることで決意がぐらつく。この女性の存在が、どちらかというと小説の平静な進行に一役買っている。「僕」は女子学生との対話には深入りはせずに、作業にいそしむ。ゴム手袋をはめマスクをし、異臭に顔をそむけながら。
  異変が起るのは、地下室に教授と二人の医学生がいて解剖台にのせられた新たな12歳くらいの少女の死体に向き合っている事態に出会ったときだ。その死体は浴槽にあったものではなく、たぶん地上から運び込まれたものだ。「僕」は昼食をすまして地下室へ降りて行ったとある。「僕」は少女のみずみずしさを保った性器を見て「愛に似た感情」をもち、勃起する。動作がぎこちなくなったせいか、注射器を死体にあてて操作していた学生の体に肘があたる。「僕」は学生に「鋭い声」で咎められる。「僕」はここでミスを咎められたという以上の違和感を学生に抱く。この出来事自体から生まれたのではなく「僕」が普段から抱く別の部類に属する人間への違和感が思い出されたように一気に吐露される。

  車を再び引きながら、なぜあの男は僕を見つめて狼狽し、僕から眼をそらしたのだろう、と僕は考えた。それは僕の根深い所で陰険な不快感と結びついた。あいつは僕を、賤しい人間のように見た。僕は、わざわざゆっくり死体をおろし、それに新しい木札を取りつけることにも時間をかけ、管理人が苛立って、僕の手元を見つめているのにもかまわないで木札の紐を何度も結びなおした。あの男は僕を、賤しい人間を見る者の不快さを感じながら見ていた。そして僕を咎める気持ちをなくした。その上、できるだけ早くその不快感から逃れるために死体へ屈みこんだ。それも、自分のその感情が正当であることを教授と仲間に承認を強いるような、明らかな、わざとらしさで注射器をかざしながら。あれはなぜだろう。あれは、どういうことだろう。(p36)


  医学生にしてみれば、俺は将来医者になるために実習に取り組んでいる。一人前になろうと真面目にやっている。それに比べておまえときたら単に金欲しさのために、こんな人の嫌がるようなアルバイトに飛びついた心底下賎な人間だ。俺が医学生でなかったらこんなアルバイトは絶対に引き受けないぜ、といいたいのではないか。少なくとも「僕」はそう断定し、その勢いにたじろいだのではないか。会話によって推察にいたったのではなく「僕」の、それまでの経験も引き出された上での断定だろう。同じような調子で教授からも「僕」はアルバイトについて揶揄される。恥ずかしさと誇りの無さを強く指摘される。生きている人間との会話の困難性を抱かされて無力感に陥る「僕」である。
  死者への親近感をせめて維持しようとするのは戦争とそのもとにあった「僕」の少年時代とを忘れまいとする志向である。死体の元兵士との幻の会話の場面。

  君は戦争の頃、まだ子供だったろう?
  成長し続けていたんだ。永い戦争の間、と僕は考えた。戦争の終わることが不幸な日常の唯一の希望であるような時期に成長してきた、そして、その希望の兆候の氾濫の中で窒息し、僕は死にそうだった。戦争が終り、その死体が大人の胃のような心の中で消化され、消化不能な固形物や粘液が排泄されたけれども、僕はその作業には参加しなかった。そして僕らには、とてもうやむやに希望が融けてしまったものだった。(p28)


  戦争とはおびただしい死者を現出させる。戦争は終わって「希望」はかなえられたかに見えたが、死者の記憶は残る。それをどう始末すべきなのか、答えは早急には出せない。希望は唯一のものでまた自然な意識下でなされれば、それが消失したときには他に替わりうるものが容易に見つかるものでもないだろう。そういう希望への郷愁が書かれている。昭和32年とは戦後復興がほぼ成し遂げられた時期にあたる。その担い手ははたして死者のことを忘れたのか、目を背けたのか、たぶんそんなことはないだろうが、大江にはそう映った部分があって復興を真正面から「希望」として据えることをためらったのではないか。「戦争が終り、その死体が大人の胃のような心の中で消化され、消化不能な固形物や粘液が排泄されたけれども、僕はその作業には参加しなかった。」とある。思想に固執する場合、ほかの重要時をあえて軽視することも要請されるのだろう。
  この短編はさらに意外な展開を見せる。事務的ミスによって死体移動がまったくの無駄ごとであったことが知らされる。文部省からの予算配分やら、その大学への管理などが触れられて、まるで地下室から国家の階層構造を仰ぎ見るようだ。

  「他人の足」は脊椎カリエス患者専用の療養所が舞台。「十九歳の僕」を最年長にして少女以下計7人の若い患者ばかりが収容されている。治癒の見込みはたたないままだが「不思議な監禁状態」に誰もが満足していて脱走を試みる気配は無い。だが同じ病をわずらった大学生が入所してきて事態がにわかに変る。彼は政治的関心をもつ左翼系の人で、療養所のメンバーにも熱心にオルグしてまわる。世界情勢について知らなければならないと説き、「僕」だけを残して他のメンバーも彼を支持する。療養所がそれまでにない明るい雰囲気に変っていく。だがやがて彼の差別意識が露呈してしまうのだ……。「僕」も少しずつ学生に共感の手を差し伸べようとしていたときにそれは起る。この短編を読むかぎりでは、大江は政治指導者をけっして嫌いではないと思った。嫌いなのはその不誠実さや差別意識であろう。

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渇き。

  役所広司を安心して見ていられた。後半を超えるあたりまで、エンジン全開のようでありながら実は余力を保ちながらの7,8割くらいの力の入れようだった。テレビCMで見られるコメディアン的要素もかいま見られる気もした。最初から力が入りすぎると、役所は出ずっぱりだから鑑賞者は疲れるし飽きも出てくる。その辺の計算が巧みになされていたのではないか。
  役所は元刑事。離婚して妻と娘に去られ、生活は荒れはてる。髪はぼさぼさで、服もいかにも汚い。精神的にも不安定で通院するがアルコール漬けでもある。運悪く連続殺人の重要参考人にもされる。そんななか娘が失踪したとの知らせを元妻から受けて、独力で探索しつづけるというのがあらすじだ。その「捜査」は結構荒っぽい。また相手も相手で、娘が通っていた高校生の不良グループやそれと関連する暴力組織などにその渦中で鉢合わせ、何度も危険に身をさらす。高校生同士のいじめが執拗に描かれたりもして、全体的に流血と暴力、それに殺人があふれかえる。残酷といえば残酷なのだが、わたしは映画のうえでのそういうものに慣れてしまったので、むしろ中島哲也監督がつくりあげたスムースな進行に爽快さを感じたくらいだ。短いカット割が比較的長くつづくがギクシャクせずに、しかも映像美もある。
  浮かびあがってくるのは役所や中谷美紀のわが子への愛だ。逆に言うと、他の人の生命や存在はどうなってもいい、わが子のためには他人をも殺してかまわないというぎりぎりの執念だ。元妻であった人は離婚すれば他人で独立した存在になってしまい、寂しいことだが諦めもできる。だが「子」には血のつながりがあり、それだけは手放したくはないという思い。それなしには生きられない、だからこそ戦っているんだという思い。これは「正気」そのものにわたしには見えた。普段の思いでもあるが、映画の中でそれを見せられて血なまぐささのなかでホッとした。
  娘の正体も最後に明らかになるが、これはどうか。詳述はひかえるが、また少女女優の演技の稚拙さはおまけしなければならないが、実感に乏しい、リアリティがない、というしかないのではないか。驚きが小さいのはどうしてだろうか。最後の最後になって、それまで映像的工夫をちりばめてきた映画が、少女のセリフのみにたよってしまったからか。料理の順番で言えば、ここはデザートにあたるのだが、それまでメインの肉料理をたらふくおなかに入れてしまって舌が麻痺してしまったからか。映画制作の難しさが潜んでいるように思う。この映画一本についてではなくて、映画という器のありようについて考えさせられる。
  ★★★

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吉行淳之介「砂の上の植物群」

砂の上の植物群(新潮文庫)砂の上の植物群(新潮文庫)
(2014/04/04)
吉行 淳之介

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  戦後は性が解放された時代といわれる。読み物の分野においても純文学から通俗小説までそれは大幅に進んだようで、この小説も例外ではない。ヒロインの京子という女性は、いわゆる被虐嗜好のある女性で、そのありさまがベッドシーンにおいてきわめて具体的に描かれている。変態と呼んでもいいのかもしれないが、ことは密室内でのことで、相手の男性との相性がよければそれでよいだけのことだ。主人公伊木一郎にとっても京子のそうした癖は刺激的で好ましく、性の昂進の材料となる。京子にとっては、性行為の最中にあっては快感を最優先することになんらためらうところはなく、被虐嗜好は自分の肉体から自然に発したものと自認していて、行為のいっそうの変転にも貪欲である。つまりは健全であるといえるだろうが、単行本の刊行が昭和39年(1964)であることを考えると、性の分野の描出にかぎっては先駆的な意味があったのかもしれない。(性を真正面から描いた大島渚監督の映画「愛のコリーダ」の公開は1970年代になってからだ)
  伊木一郎は性に貪欲で一直線なのだろうか。そうであってもかまわないが、作者吉行淳之介は伊木を父の面影(亡霊)をしつこく意識する人物として描く。父は34歳の若さで他界したが、「芸術家」で女性関係も派手な人で、婚外子もいたようだ。伊木は父と距離をとりつつも、はたして自分は父と同じ部類の人間なのだろうかと訝るようだ。考えても結論は出ない。伊木は既婚者で女性をもとめれば「浮気」になるがその点では自身では無頓着で、障害にはならない。ただ欲望の自発的な発露ではなく、父の亡霊に応えるようにあるいは逆に無視するかのように「憤怒に似た感情」でもって女性に近づく。伊木にとっては飛躍である。未開拓の、空白の分野としての女性ということになるが、そこを開拓した後にどういう変化が伊木に訪れるのかが読みどころになる。父と同じ部類の人間になったことにことさら罪悪感を抱いたり落胆するのではないが。この小説の進行時においては、伊木は父の死亡時の年齢をすでに何歳か上回っており、そのことも伊木は意識するようだ。
  伊木は化粧品のセールスマンで、仕事を終えた夕刻港へやってくる。この小説の重要な風景である夕陽を見つめた後、近くの現代的な展望台にのぼる。そこで女子高生ながら口紅を真っ赤に塗りたくった明子に出会い、声をかけて酒を飲みに行く。やがて明子に相談をもちかけられる。明子はのちほどわかるが京子の妹で両親が他界した後姉に育てられるが、純潔を大切にしろと普段から口酸っぱく説教される。ところが彼女は姉京子が男と一緒にホテルに入るところを見てしまった。腹立たしくある明子は、姉をひどい目にあわせてほしいと伊木に依頼するのだ。また自身の「純潔」も負担で伊木との関係で解消しようとする。伊木は明子の依頼を引き受け酒場務めの京子に近づいていく……。作り話であろうが、伊木が以前定時制高校の教師をしていたということもあって、「不道徳」を地で行くようで、読ませる。
  伊木は吉行自身をモデルにしていると思われるが、吉行は伊木と距離をとろうとする。伊木とは別に「作者」が独立的に登場して画家クレーの絵について感想を語ったりするが、ここは難解かつ繊細で、わたしはそそられない。(伊木がクレーの画集を手にする場面もある)性的退廃について、そういう傾向にあると外見的に直感できる人物について語るところは腑に落ちた。肉体がぼろぼろになるまでに性に没入する人は性に「支配」される人だと説く。観念の性によるよりも、ふさわしい健全な肉体によって性は営まれるべきだと言いたいのではないかと思った。伊木も京子もそういう隷属状態にはさせたくないという、作者の登場人物へのいたわりだろうか。
  京子のほうが伊木にたいして積極的でより執着が強いと読め、伊木は充足した肉体関係をえたあとは、解放感よりも「終わった」と感じるようだ。だが二人の関係はにわかには終わりそうにもなく伊木が逃げ出す気配も皆無だ。伊木は京子の情をできるかぎりは長く受け止めようとするのだろう。大学時代の友人で出世頭の男がいて、京子の店の常連で京子を狙っている様子だが、何かの折に伊木が京子との関係を彼に打ち明ける場面があって、少し痛快であった。だが決めてしまった人生はなんと短く見えることか。まだ何も決めない、決められない人生ほど空白に満ちて生があり余っていると感じるのではないか。そういう人生に伊木は訣別した。「憤怒に似た感情」で突き進んだ女性関係であり、冷静な判断ではなかったようだが、そこは引き受けねばならない。もはや変りようがないということで、それはクレーの絵について作者が語った感想を思い出すと、死が直結するように迫ってくるということになる。穴倉でその運命を引き受けることだ。この小説の繊細さを十分に汲み取って再現することは、わたしの手に余るが。

    12:24 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

レバノン(2009/イスラエルその他)

レバノン [DVD]レバノン [DVD]
(2011/01/07)
ヨアフ・ドナ

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  反戦・厭戦的メッセージのこめられた映画だが、これがイスラエル製作になるということが頭からはなれない。この国は建国以来周辺国と常時戦争を行ってきた国であり、そのことごとくに勝利してきたいわば軍事大国であり、現在もその様態は変らない。面積は小さくともその領土保全と国内秩序は周辺国への軍事的優越性抜きにしては語ることができない。だがこの国にも言論や表現の自由があるからこそこういう映画が作られて、諸外国へのメッセージとして成立するのであろう。この国の半面の寛容さか。この映画一本が自国の政策に変更を加えることなど、わたしには絶望的に見えるが、どの国にも戦争を嫌い、なじめない人がいるという当たり前の事柄が、またそれを伝えようとした映画製作者の熱意は感じられた点ではよかったと思う。ただ、イスラエルという国の人々が、とくに国家指導者をふくめて。ここで描かれたような心優しい人ばかりではないだろうということは、記しておきたい。作品そのものからの感想ではないにせよ。
  舞台は大部分が戦車内部で、四人の兵士はそこで二晩を過ごすことになる。暗く、息苦しくもあり狭苦しくもある。外の状況と風景は戦車砲の照準レンズによって戦車内部にまた視聴者に伝えられる。レンズだから円形で外周部は暗部で、これまた狭苦しい。(砲身が動くたびに機械音がともなう)見たところ十人以上の歩兵がゆっくりと進行し、それを戦車一台が一緒に進むという構図だ。総指揮官が歩兵とともに外部に居て戦車に連絡を寄越し、ときどきは乗り込んでくる。戦車兵は新人か経験の浅そうな青年ばかりで、とくに砲撃担当者は発射ボタンを押すことを頑固なほど拒む。思想的にか感情的にかわからないが殺傷を嫌うからで、このことが結果的に歩兵や戦車そのものにも損害をこうむらせることにつながっていく。戦果の有無が戦況に直結するということになるが、外にいる歩兵の立場からすればなんとも頼りない戦車なのだ。ヘリコプターで搬送するまでの間、歩兵の死体を戦車に載せたり、制圧が完了したはずの街で「テロリスト」との交戦があって民間人が殺されたりと、戦争そのものの場面の連続でありながら、戦車内部での兵同士の会話が大事にされるという構図になっている。
 殺したくはないが自分も当然死にたくない。死にたくないなら相手を先に殺せばよい。また砲撃を繰り返しながら全速力で逃げればよい。大きい視点に立ったときの戦争の残酷さでありながら、兵ひとりひとりにとっては恐怖との戦いだ。それはよくわからせてくれる。ようやく戦火から逃れられたとき同乗していたシリア兵捕虜とのあいだで安堵の表情が交わされる。わたしも肩の荷を降ろした気分になった。
  ★★★

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安岡章太郎「蛾」

海辺の光景 (新潮文庫)海辺の光景 (新潮文庫)
(2000/08)
安岡 章太郎

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  作家にかぎらず表現者・芸術家と呼ばれる人には、社会や生活や隣人といった周辺の存在やそこで起きる出来事にたいして自身の不適合性を強く自覚する人がほとんどなのではないか。それらとの交渉が齟齬をきたした場合、たとえその直接原因が周辺にあったとしても彼はいったんはみずからの不適合性をふりかえる。そしてこの不適合性をひそかな梃子にして表現を開始するのではないか。不適合性とは表現者個々の言い方としては劣等感やちぐはぐさや苦悩やその他さまざまな言葉で語られるであろうが、表現者にとっては自分自身たらしめている大きな柱であり、故郷みたいなものだ。だからこそ「苦悩を愛する」というような心理も表現者によってごく自然に生まれ出てくるにちがいない。
  いろいろと考えをひろげてみる。表現者は正確さや公正性を一方ではもとめられつつも,彼はやはり自分を手放そうとはせずに我儘であったりエゴイスティックであったりするのではないか。周辺との交渉を描くことは、同時にみずからの不適合性を描くことであり、それに拍車を掛けることにつながり、危機を増大させる。そこには大げさにいえば生還への欲求もおのずから生まれてくるので、読者は彼の行動と個性にスリルを感じると同時に、彼にまとわりついてくる周辺のさまざまな断面もまたそれまで味わったことのない表情を見せてくれるのではないか。彼の個性をとおして眺められる周辺もまた新鮮ということだ。
  

私は絶えず不安と焦燥になやまされている。……これは云い現しようのない感じで、強いて云うならば、奥歯が痛みはじめる直前に起る痒みと、最もやわらかな羽毛で足のうらを撫でられているようなクスグッタさとの混りあったものを全身に感じているのである。多分これは私の脊骨がわるいせいであろう。


  安岡の「不安と焦燥」の表現であるが、滑稽さを仔細に描きだそうとするのはいかにも安岡らしい。その因をいったんは脊椎カリエスという病にもとめている主人公であるが、のちには彼はもっと奥深い「不適合性」によるとしてその説を退けるようだ。医者は彼の病を正確に診断して安心するが、主人公にすれば病が癒えれば「不安と焦燥」が同時になくなるというのは嘘なのだ。
  またまた前置きが長くなったが、「蛾」は小さな蛾が主人公の耳に侵入して数日間悩まされるという話。ダンスをして蛾を耳からふり出そうとしたり、家族を驚かせたり、煙草を吸うと蛾がそれを合図にか暴れだしたりと、この作者らしく面白がらせる。だが途中からその悩みが快感に変化しかかるところが、前置きで書いたことと関連していて興味深かった。不適合性のちょっとした根拠になりかかるように主人公が錯覚するところが。彼は勿論、蛾をたたきだしたいのだが、反面いつまでも飼いならしておきたいという心理もはたらく。そこで藪医者と評判の近所の医院に駆けつける。どうせうまく処置できないだろうとの意地悪さが主人公にあるのがおもしろい。ところがあっけなくも蛾は耳から出てきて、彼を少し寂しがらせる。滑稽話にしてしまうところが安岡章太郎らしいのか。もう少し引っぱってくれてもよかったとも思うが、好短編の部類に入る。
  近所の医師の母兼助手の女性が主人公に接したときの描写が安岡らしいので掲げておく。

「こりゃまた、お痩せになりまして」
  とか、云って私の顔をじっと、肉屋の前をとおる犬のような淋しい眼付きでみる。何度も同じことを訊かれて私がだまっていると、不意に表情をあらため、「おだいじに」と云いすてて、トコトコと一歩一歩、地面に針を刺すような足どりでかえって行く。……



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