大洋ボート

ローン・サバイバー

  軍隊には軍規というものがある。ゲリラやテロの部隊にとっては無視されることも往々にしてあるのだろうが、アメリカ軍のような国家の正規の軍隊であれば、みだりに軍紀を破ることは許されない。たとえ自軍の安全に悪影響が出かねない場合においても、だ。ここは判断に悩むところである。この映画のみどころはそこにある。「敵」兵を生け捕りにしたときはみだりに殺害してはならない。捕虜にするか、それが不可能ならば解放しなければならないのだ。
  アフガニスタンに展開するアメリカ軍から4人が選抜されて、同国の山岳地帯のタリバンの主要アジトに接近する。そこでタリバンの首領を発見するのだが、まもなく山羊を連れた民間人に自分たちも発見される。タリバンに民間人と軍人の区別があろうはずもない。たとえ民間人であっても同じ区域に生活する以上は、タリバンに親近感を抱いているであろう。アメリカ軍4人の存在も通報されることは目に見えている。だがやはり解放せざるをえないのだ。案の定4人はその後タリバンの数百人の部隊に追われることになり、絶望的な銃撃戦に引きずられて行く。このジレンマは「プライベート・ライン」にもあった。たったひとりのドイツ兵を解放したために、後方のドイツ軍に戦況を知らされ、さらにそのドイツ兵も再度軍に加わって意欲満々で襲い掛かってくるという状況設定だった。
  軍紀にかかわることがもうひとつ提起されていた。発見されたタリバンの首領は狙撃が十分に可能な距離にいたが、上部の命令がないことで、リーダーのマーク・ウォールバーグは部下のその提案を却下するという場面だ。
  さらにはアフガニスタンの民族間対立の問題にもふれられていた。山岳地帯はタリバン一色ではないということらしい。タリバンはパシュトゥーン人中心の勢力といわれるが、言語や宗教を異にする民族が複数存在する。重傷を負ったマーク・ウォールバーグが非タリバンの村人に発見され、同地で何日か療養する場面にはほっとさせられた。まさに砂漠で泉にめぐりあえたような心地だ。壮絶な戦闘場面はふりかえればあまりに異常で、生きて普通の生活をすること、これこそが泉。戦争映画を見終わったときのいつもの感想だが。
★★★

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松下竜一『狼煙を見よ』

狼煙を見よ―東アジア反日武装戦線“狼”部隊狼煙を見よ―東アジア反日武装戦線“狼”部隊
(1987/01)
松下 竜一

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  学生運動の高揚期は1970年中ごろまでで、その後、しだいに衰退していったとされる。とくに連合赤軍事件が明らかになったことは衝撃的で、その衰退に拍車をかけた。だがそこから容易には足を洗えない青年達がいる。大道寺らのグループもそのなかの小さい群れであった。学生運動(≒階級闘争)全体の勢いを俯瞰的に眺望するのではなくて、自分たちの勢いと余力を凝視し、それを大事にし、蕩尽しつくそうと志向した。爆弾闘争などが70年代以降散発し、全体的な衰退とは裏腹に一部の学生・青年運動は先鋭化し、より過激化した。先細りのなかで手段ばかりがテロリズムに傾斜し、社会的にインパクトを与えることで「全体」の継続につながるかのような錯覚を彼等は好んで抱いたのであろう。だがそこには実践にたいする効果の考察がおのずから欠落している。これこれのことをやったことで、どういう効果や影響を社会や運動支持者に即時的に付与することができたのかを大道寺らは考えることを拒否した。爆弾事件による死者や重軽傷者の頻出にたいして社会は非難以外のどんな意見も発しようとはしなかった。そうする以外にはなかったのである。彼等の主張する「日帝の新植民地主義を代表する企業への無慈悲な攻撃」は共感されなかった。勿論、大道寺らは三菱事件における爆弾の威力をみくびっていたことを痛恨の思いでふりかえり、激しい自省の念にさいなまれたのだが、爆弾闘争を逮捕時まで止めることはなかった。規模を小さくしたならば爆弾闘争はむしろ中心的手段として位置づけられると見なしたからだ。三菱事件に置き換えられうる闘争をかさねることに執着したからだ。それに三菱事件でさえ、自分たちの熱気にかさねられた「未来」において好都合の評価がもたらされると願望したのではないか。
   急進的な学生運動はもともと社会の轟々たる非難のなかで遂行されたものであり、その非難を無視し対抗的に実践を重ねることで、担い手は担い手としてありつづけることができた。反対意見を無視することに大道寺やその他の爆弾犯グループもまた狎れてしまっていた。だが「暴力学生」にたいする非難と殺人者にたいするそれとはまったく異なるもので、彼等はそれをあえてわかろうとはしなかった。爆弾犯は彼等だけではなかった。三菱重工事件から3年さかのぼる1971年にかぎっただけでも「十一の都道府県で五十一件の爆弾事件が発生し、三十二件三十六個の爆弾が爆発し、四十二人の死傷者が出ている」(p121)と本著では記されている。強いて言えばだが、やっているのはおれたちだけではない、という群れへの同調と埋没意識が自分たちの行動を甘く許すことにつながったのかもと思ったりもする。グループ内での微温的な結束意識も当然あったであろう。また大道寺グループ全員が、三菱事件の数ヵ月後青酸入りカプセルを身につけ、いざというときのための(例えば逮捕されそうなとき)死の準備をととのえたのだが、三菱事件における死者の発生にたいする言いしれない重い自責感がそうさせたと松下龍一は説く。ここまでくると前のめりの極みだが、死者のことを思うと、このことで彼等を許そうという気持ちにはわたしもまたなれない。(斎藤和だけがカプセルを飲んで自殺。大道寺は逮捕時にカプセルを自宅に置き忘れてきた。そのほか大道寺あや子や他の女性もカプセルを呑もうとしたが寸前に警官に阻止されている)

   大道寺将司は二浪の後、1969年に法政大学文学部史学科へ入学をはたした。67年には大阪外大を受験するも不合格。68年は早稲田大政経学科を目指すも受験はしなかったという経緯がある。浪人中に大道寺は大阪釜ヶ崎に入って日雇い労働者を経験する。また未開放部落を見学したり、図書館で左翼文献にあたったりアジア・朝鮮問題を調べたりした。68年の1月に東京に居を移してからは新左翼系の集会やデモに数限りなく参加した模様だ。大道寺は高校生のときから政治問題に関心が強かったようで、そんななか当時の学生運動のうねりを目の当たりにすれば居てもたっても居られなかった。受験勉強が身につかないのもわたしはうなずける。それでも法政に入学できたのは学業優秀だったからだろう。日雇い労働者の体験は釜ヶ崎にたむろする人たちの「悲惨さ」への認識を大道寺にあらたにもたらすものだったのか、読んでもそこは不明だ。むしろ大道寺に生活力を身に付けさせたと思いたい。日雇い労働者や戦争時の中国・朝鮮人民の「悲惨さ」は左翼内部で当たり前のように字面で認識され流通していたのであって、その見方を補強し追認するという以上ではなかったのではないか。目の前にある無限にも見える政治的行動にたいする主観的な燃料補給としてわたしには見える。
   大道寺のクラスは1年L組で、同級生にのちに東アジア反日武装戦線に参加する片岡利明がいた。また実行犯ではないが同グループにのちにくわわる荒井まり子も当時法政大生だった。大道寺は授業にはほとんど顔を出さず、過激派のデモと集会に頻繁に参加する日々だった。文学部の自治会を社青同解放派(青ヘル)が掌握していたため彼等のもとで忙しく活動した模様だ。また飯場に入って肉体労働で資金稼ぎに精出した。大道寺はある種人望の持ち主であったらしく、クラスの自治委員に立候補して民青系の立候補者をたおして当選している。さらに翌年の70年にはクラスから「20数名」のデモ隊を組織して安保改定阻止行動に参加し、さらには他のクラスとの合同で百人を上回るデモ隊の結成までこぎつけている。このあたりの松下龍一の筆は、大道寺の個としての勢いと当時の学生間にあった政治参加の熱心さが合流して形成された、一時的ではあるがたしかに存在した時代的な空気をうまく描出している。デモなどに滅多に行ったことのない学生が大挙して押しかけた時期だった。だがはじめに書いたようにこのころが学生運動高揚期の最後となった。にもかかわらずというか、大道寺は闘争から身を引くことはなかった。彼のなかで熱気は持続していた。それもセクトのもとでの継続ではなく、自分たちが創造的にたたかえる組織作りを模索しはじめたのである。

  (略)将司のセクト批判は、その組織構造にある。ピラミッド型の組織を形成し、上意下達の家父長的なあり方は既成組織とまったく同じ構造で、革命をめざすはずの党派がなぜこうなのかと不思議でならない。そういう旧態依然たる体質は、たとえばバリケード内での男尊女卑の気風に濃厚にあらわれていて、将司には一番なじめないことだった。幾度か本心を語り合う中で将司と片岡は、クラスでノンセクトの全共闘運動を始めようということで一致する。(p105)


   69年春か初夏の二人の話し合いであるらしい。わたしとしてはここは共感できる部分だ。大道寺がいくら血気盛んで活動熱心であったとしてもセクトにとっては大学に入りたての新参者であり、その位置のメンバーにたいしてはああしろこうしろと、まさに上意下達式に命令して動かそうとする。説得や説明を省いて効率的に人を動かそうとするのがセクトで、共産党のような「既成組織」となんら変わりない。セクトの幹部クラスに上るためには何年もの活動歴を残さねばならない。それよりも自分たちで考え方針を決めて行動化するほうが、よほどやりがいがあるというものだろう。大道寺らはこの志向によって書いたようにノンセクトグループを形成し、70年に100人以上のデモ参加者を獲得できた。そしてまた員数よりも、数は少なくても結束力あるグループの結成を模索し「クラス闘争委員会」の主だったメンバーに呼びかけて後の反日アジア武装戦線の原型ができあがる。何回かのデモ参加経験だけでもういいやと不参加を決め込む学生が大部分のなかで、どうしてもやりつづけたいと執着するひとにぎりの学生がいる。真面目なのか意地なのか偏執なのか、ひとりひとり違う顔があるのだろうが、やはり時代的な興奮状態が一部の学生・青年を強く捉えたのだろう。それに記さねばならないのは敗北しつづけた機動隊との肉弾戦である。どうしても勝ちたい、そうでなくても復讐したい、一泡吹かせたいという思いも旺盛であっただろう。爆弾で「勝てる」ものでもないのに。あの時代としては「敗北」が当然の帰結であったが……。そういうひとにぎりの青年の中心となったのが大道寺である。褒めるつもりはなく、どうしようもないという思いが大部分だが、よくここまでやったなという印象ももたらされる。
   大道寺は逮捕時から5日目に早くも自供をはじめた。検事から三菱事件の死者頻出について責められて、共感せざるをえないところに追いつめられたからである。また自殺計画にも失敗し憔悴していた。同じことだが、当然のことながら逮捕時の方針について何も意志をもたなかったのでセクトの学生ほどの黙秘をつづけられなかった。また荒井まり子が直接の実行犯でないことの説明をしたかったという。だが「大いなる失敗」を自責する念は強かったものの、爆弾闘争そのものの基幹部分には反省と総括は未到達であった。国家権力とたたかうことを放棄したのではなく、その後は他セクトと同様、外部の支援者との連携のもと裁判闘争にグループのメンバーとともに身を没入させた。拘置所で、衣服を脱いで出廷を拒否したり、裁判長の法廷指揮に従わないなどした。「荒れる法廷」である。自分のことはさしおいてメンバーの死刑をふくむ重罪判決の決定を少しでも遅らせたいとの願いだったのか。
   松下竜一は親左翼的な人で、本著は大道寺らが松下の著作を読み書簡をつうじて交流がなされたことがきっかけで生まれたという。その後、大道寺が何を思うのかは彼自身の著作にあたれば触れることができるだろう。
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バッファロー`66(1998/アメリカ)

バッファロー'66 [DVD]バッファロー'66 [DVD]
(2014/03/28)
ヴィンセント・ギャロ、クリスティナ・リッチ 他

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  家族関係が一風変わっていて、印象に残る。ヴィンセント・ギャロ(役名ビリー・ボーン)が何年ぶりかで刑務所から娑婆へもどり、実家をたずねるのだが、父母ともに格別になつかしむという空気がない。やれやれ、またもどってきやがったかというようなうんざり感さえ底に見える。だが、それをあからさまに露呈するのではなく、なにかしら表面をとりつくろうような気配がある。また息子にたいする幼少時以来の異常ともいえる無関心が流れている。特に母はフットボールファンで目がなく、息子の食べ物の好き嫌いさえ覚えていない。父は若い頃クラブ歌手だったことが自慢だ。その一方、息子に癇癪をぶつけることもあり、ビリーを怒らせる。またわがままで、息子が幼い頃、その愛犬をけっして飼うことを許さなかった。つまりは3人がそれぞれ自分固有の関心事や嗜好があってそれにのめりこんでいて、別々の方向を向いてばらばらな状態だ。
  だがこの家族が異常に映るのは、わたしたちが映像などで情愛に満ちて和気藹々とした家族像をあまりにも見慣れているからではないだろうかとふりかえらされた。刷り込まれた家族の「定型」がわたしたちに先入観を与えるのだ。だがふりかえれば、私たちの家族もまた、多かれ少なかれ「定型」からはみだしている。ともすれば自分の関心事にかまけて、家族を文字通り「空気」みたいにあつかってしまっている。同じ屋根の下に一緒にいる、離れたときはまもなくそこへもどる予定がある、それが家族の最低限の約束事であり、それさえ守られれば、とりあえずはいいのではないかとわたしはこの映画を見て、あらためて思った。情愛が芽吹く下地くらいはそこにはあるからだ。
  ビリーは刑務所暮らしをかくして政府の仕事で遠くに行っていたと嘘をつく。おまけに拉致まがいにクリスティーナ・リッチ(役名レイラ)を連れてきて結婚相手だと紹介する。父母は一安心というところか。だがそうでもなくて、父母は息子の実際を知っていて知らないふりをするのではないかと、わたしは勘ぐりたくなった。事を荒立てないのも家族の気遣いだ。息子の虚言癖くらいは、家族はさすがに承知しているだろう。
  ビリーは家族や社会にたいして被害感情を抱いていて、とても生きていけないと思うようだ。八百長をしたとビリーが勝手に思い込んでいる某フットボール選手を殺害することで人生にピリオドを打とうとする。実家を訪れたのも最後の機会だと決め込むからだ。だが幸運なことにレイラが彼や彼の家族に親近感を見せ始めることでビリーはしだいに変わっていく……。しかし「愛される」ことで変化が起きるのは、たしかにその通りだとしても映画の進め方としては少し安易ではないかと思わないでもない。「愛されない」というビリーの思い込みをテコにしてもっと追求してもよかったのではないか。ただビリーが得意のボーリングをして、肉体的な解放感をえてレイラも共感する場面はきわめて自然で、腑に落ちた。
  映像的な工夫が随所にちりばめられている。冒頭の刑務所をでたときの寒々とした雪をかむった都会の風景。駐車場のアスファルトのひび割れた具合。さらには実家では四角いテーブルを4人が囲むが、4人のうちの一人の位置にカメラが据えられて3人を撮るという方式で、一人が入れ替わった3人が交互に映るという構図になる。ラストの派手派手で、目の覚めるような映像も捨てがたい。物語の決着が二通りあるようにも解釈できるのもいい。無論一方は妄想でもう一方が現実であることは順守されるが、映画作りの「自由」をかいま見られて、楽しかった。
   ★★★★
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