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竹内洋『革新幻想の戦後史』

革新幻想の戦後史革新幻想の戦後史
(2011/10/22)
竹内 洋

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  本書で言われる「革新勢力」とは、社会党や共産党、およびその同伴者、また主観的に距離を保ちながらも外側からみると大同小異の思想の持ち主である大学教師や評論家をさす。特に政党組織に属さず、べったりではない後者の一群は「進歩的文化人」と呼ばれたらしいが、保守派は嘲笑・揶揄の代名詞としたとされる。さらに「革新幻想」とは戦後10年から15年ほどの間、革新勢力が思想・言論界において顕著に権威的であり、政治的分野は言うまでもなく大衆的にもその影響力をひろく及ぼしたことをさすようだ。著者竹内は政治的立場をそれほど鮮明にはしないが、どうやら保守か中立の立場にあり、また常識家を自任しているらしく「革新幻想」に批判的である。他者の著作の引用は無論のこと、世論調査、意識調査などもふんだんにピックアップして自説を補強する。というよりも底堅い客観性を重視する。
  戦後に誕生した東大教育学部が進歩派教授の牙城となり、日教組と協力関係を結び、その講師団に息のかかった教授を送りこんだこと、また同学部の保守派学者が人事面で冷遇されたことが記される。その歴史は10以上に及ぶという。「旭丘中学事件」というのもある。1954年同校教諭3人が偏向教育のかどで京都市教育委員会から転任処分の辞令を受けたが、3人と同調者が反対運動を展開し、ついには生徒を巻き込んで分裂授業をするまでに至った。分裂授業とは、教育委員会が提供する別の建物と、3人の教諭を中心とした反対運動派の教諭が居座る同校校舎とにそれぞれを支持する生徒が別れて授業を受けるという構図である。3人の教諭はいずれも共産党系で、当時の共産党は今とはちがい過激派に近い運動方針だった。子供を同伴者にするこういうやり方はあきらかに批判されてしかるべきだろう。しかし、これらの事例は革新勢力を批判するうえでは、たやすいのではないか。浅学の身で、今まで知らなかったので参考にはなったが。
  本書を読むにあたって、わたしの問題意識は革新勢力なるものが戦後の思想界や政治勢力地図のなかで、その核心部分でどういう役割を担ったのかということだ。いいかえれば、彼等の存在無しにはたして今日の非重武装・日米同盟路線は定着しえたのか。今日の自民党の源流である当時の保守派政権は、内心は重武装路線に舵を切りたかったものの国内反対派=革新勢力の勢いをおそれて妥協した結果なのか、それともはじめから軽武装路線を決めていたのか、ということである。私にはその明確な見取り図が描けない。残念ながら本書の視点はちがっていて、政治的動向を正面からとりあげないで、「革新派」の暴走や傲慢ぶり、右往左往など批判しやすい個所をとりあげて「革新幻想」を批判する体になってしまっている気がする。
  戦争中に軍国日本の熱烈な支持者でありながら、戦後は180度転換して「革新勢力」に身を投じた人々も多かったと聞く。勝ち目のない戦争をはじめた国家をもっとも底辺のそれゆえ中心部で支えた人たちが敗戦によって茫然自失して、自己の拠り所をさがし建て直さなくてはならなかった。多くの人命を喪失させた人災にたいして自責の念を持たなければならなかった。この良心の部分を私は信じたい気持ちだ。外側から見て、政治運動としての暴走やまちがいがあったとしても、それが批判するに値するとしてもだ。つまり戦後10~15年ほどの国家にたいする根強い不信感は自然であり、私はこれを肯定する者である。著者はどう思うのだろうか、本書からはうかがえない。例によって調査資料を駆使して、戦争中の日本を全面否定する者のみではなかったとする。戦争を明治以来の民族間競争の歴史としてやむをえなかったとする人々の存在が抽出される。けっして戦争のすべてが「あやまち」ではなかったとする人々であり、「あやまち」であったとする人々、つまりは戦後革新派に合流する人々はいわれるほど多数派ではなかったということだ。だが、多数派でなかったことがはたして「革新幻想」をひきずりおろす根拠となるのか。それとも公平を期すために記すのか。朝鮮戦争が勃発した当時の世論調査でも再軍備賛成と反対とでは、むしろ賛成が多かったとのこと。革新派はここでも多数派ではない。
  1950年12月22日の読売新聞世論調査が引用される。「日本は軍隊を持つべきだという意見がいわれていますが、どう思いますか」の問いにたいする回答が次のとおり。括弧内の数字は同年8月の前回調査のもの。

賛成     四三・九%(三八・九)
反対     三八・七%(三二・七)
わからない  一七・五%(28・4)

  同年6月には朝鮮戦争が勃発しているので、風運急を告げた時期であろう。前年には内戦に勝利した毛沢東の中華人民共和国が誕生したこともある。新憲法に謳われた丸裸の非武装が心細く映る気分もわかろうというものだ。ただし軍隊といってもどれほどの規模なのかは、この質問からは見えない。近隣諸国への侵略にたる軍隊ではなくとも、せめてもの防衛にみあう力は持たせたいとアンケート回答者は考えたのではないか……。賛成が上回ったことをもって革新勢力が思いのほか勢いがなかったと、竹内は示唆したいのだろうか。しかし反対が「三八・七%」もあることに、私はむしろ驚く。新憲法を是とする人々が広範であったことの証左ではないか。人々は戦中に逆戻りすることを恐れたのではないか。今日同じ調査をしても非武装に賛成する人はこれほどの数字には達しないにちがいない。2年後の1952年4月の同じく読売新聞調査は「あなたは憲法を改正して、日本が軍隊を持つことに賛成ですか反対ですか」という質問をした。

賛成     四七・五%
反対     三九・〇%
わからない  一三・五%

  過半数には達しないものの、憲法改正と軍隊創設に賛成する意見が多いことに驚くべきであろうか。再軍備にとって憲法が邪魔になることの宣伝が行き渡った結果か。しかし改正の政治的手続きはおこなわれず、解釈改憲で自衛隊が創設されたことは周知のとおりだ。保守派=与党にとっては、憲法改正が衆参両院の3分の2以上の賛成を必要とするという困難性があったことも事実だ。さらにまた、政治勢力にとっては「数」はたしかに大事だが、構成要員ひとりひとりのエネルギーの集積がときにはその「数」の小ささをおぎなってあまりあることもある。当時の革新派はその意味で強さを保っていたのだろう。そのために彼等との激突を保守派は回避したかったのではないか。また一九五〇年代後半に入ると、憲法改正や再軍備にたいして反対が賛成を上回るにいたる。竹内洋はこれを経済復興が成しとげられつつあった時代に即応した現状追認とする。つまり思想としての保守ではなく「革新」の衣装をまとった保守と指摘する。わざわざ政治的混乱を引き入れることもないという忌避意識だろうか。この指摘は私にも腑に落ちるものだ。戦後復興とさらにのちの経済大国化を邁進することによって、また外的要因も落ち着くこともあって、平和と安定は定着することになる。革新派の「戦争への危惧」の呼びかけはしだいに色褪せていった。
  革新勢力全体を、とくに政党組織の硬直性を私は擁護するつもりはない。しかし戦後の短い期間、そこに身を投じたり同調した無名の人々の内心には信じるに足る良心が存在したと、私は思いたい。勿論、保守派にも良心はあったことを否定しないが、前者への言及が本書ではいささか不足している気がして、くどいが最後に記した。
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リチャード・ニクソン暗殺を企てた男(2004/アメリカ)

リチャード・ニクソン暗殺を企てた男 [DVD]リチャード・ニクソン暗殺を企てた男 [DVD]
(2006/01/27)
ショーン・ペン、ナオミ・ワッツ 他

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  ショーン・ペンが社会的な適応性がなく仕事も家庭もうまく行かず、怨みつらみからしだいに力を鬱積させていく男を見事に演じている。カメラワークが正攻法で奇をてらったところがなく、過剰なセリフもなく見やすい映画だ。
  ペンは小さな家具販売店の従業員だが、青年ぽい正義感の持ち主で店主が「騙しのテクニック」で客に商品を買わせたことに怒りを覚える。詳しくいうと、客に値引きを執拗にたのまれたペンがやむなく承諾する。するとそれをみていた社長がペンを別室につれていく。客のほうは値引きを撤回されるのかと思って、目の前に置いてあった契約書にあわててサインする。これが社長の計算づくのテクニックというわけだ。値引きによって赤字が発生すると客に思いこませるのだ。だが、こういうやりかたにペンはなじめず、持ち前の正義感もあって嫌気がさす。その少し前の社長との食事のおりには「商品にたいする信頼を持つことが大事だ」と説教されたこともあって、ペンは自分もまた小馬鹿にされた感覚を持つ。だがそのとき同時に社長は「ニクソンこそ、最大のセールスマンだ。彼はベトナム戦争終結を公約にして、二度も当選した。そして二度ともそれをまだやらない」と得意顔でペンに語ったものだ。どんな手段をつかっても商品を販売しろと、暗に命じている。
  どんな男であれ、自分は偉大で、能力も愛情も十二分に持ち合わせているという妄想を抱きはしないだろうか。ところが社会は不親切で、自分にふさわしい居場所をあたえてくれないという被害感情も同時にもたざるをえない。それならば社会に妥協したり屈従したり一旦はしなければ生きていけない。収入を得て生活を成り立たせることが最初の必要事だが、この映画のペンにはその志向がない。手堅さがなく、新しい仕事の構想にしても、いきなり大きなことをはじめようとする。別居中の妻ナオミ・ワッツにたいしても修復可能だと信じこんでいる。ワッツのほうはどうもその気がなく、別居は離婚にこぎつけるための冷却期間だとみなすようだ。主観的な愛情とか誠意とかが、女性には通じない場合がある。自分を客観視すべきだとはよく言われることだが、人はなかなかそれができない。私のこの論が説教調にならなければいいと思う。青年期から中年期に足を踏みだす時期、多くの人がこの映画のショーン・ペンの不安定さに支配されるのではないだろうか。私もそうだったから、他人事とはおもえない。
  ★★★



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ゼロ・グラビティ

  宇宙空間の映像がたいへんきれいだ。ちゃちではなく堂々としている。CGを駆使した映像創りもここまで到達したのかと率直に思った。それほど頻繁に映画を見る身ではないが、今回の作品は宇宙を舞台にした映画の歴史において画期的ではないか。これまでは「2001年宇宙の旅」にしも「エイリアン」にしても宇宙船の内部が「主」で船外の空間は「従」だった印象があるが、今回はそれが逆転している。カメラが船外の空間に堂々と固定されている。それもカメラを抱いた人間が船外に飛び出して撮影するのではなく、撮影スタッフのグループが映像に登場する宇宙船とはまったく別の宇宙船に乗り込んで映し出している、そんな印象さえ抱かされた。勿論、正確さとは無縁の言及にすぎず、あくまでも印象としてだ。実際は地上のスタジオにカメラがあって(固定のものも手持ちのものも)その前で俳優が大掛かりなセットとしてつくられた宇宙船の周辺で演技しているのだろう。無重力状態のふわふわ感はロープで俳優を宙吊りにしてつくりだされたのか、それとも一時的な映像に後の段階で創造をくわえたのか、私は無知なのでつまびらかにはできないが、タネが透けて見えることは全くないといってよい。不自然さがない。
  地球の映像がうつくしい。当たり前だが、宇宙船付近から見る青々とした馬鹿でかい地球、太陽が地球の縁を照らして輝く光。地上で言う日の出とも日の入りともいえる現象だ。それに今回私としては始めてみてなるほど思ったのは、夜の暗黒に入りかけた陸地の山頂の部分がわずかに太陽に照らされて、夕日のオレンジ色の光を放っている。また「うつくしい」ばかりでなく、海に比べて夜にかすかに映える陸地の無気味さ。これまた私のなかの既知であった宇宙映像にあらたに加わった映像で、それ他にもがかずかずある。ただしそれが宇宙船から見る実際の映像や肉眼で見た光景と寸分ちがわないかというと、やはり私には判断がつかないのであるが、感動と心地よさがともなうことは確かである。
  物語は事故に遭うサンドラ・ブロックが中心だ。衛星の破片に衝突された宇宙船が操縦不可能になり、国際宇宙ステーションや中国の宇宙ステーションにつぎつぎに移動していく。なんとか他の船に乗り移って船内に酸素を充填した後、宇宙服を脱いで短パンとシャツ姿になるサンドラ・ブロックを見るとほっとした。やはり人には足の下にしっかり固定した地面があって(この場合は宇宙船の床)普段着でいられるのが、いちばんリラックスできるのだ。解放感を素直に感じられる部分だ。ブロックが流す涙が頬をはなれて丸い粒になって船内を漂い。少しずつシャボン玉ほどに大きくなる。実際は丸くはならず歪むのだろうが、心憎い。DVDでは見えないだろう。
  ★★★★
    17:34 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

シェイクスピア『ハムレット』

シェイクスピア全集 (〔23〕) (白水Uブックス (23))シェイクスピア全集 (〔23〕) (白水Uブックス (23))
(1983/01)
ウィリアム・シェイクスピア

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  ハムレットにとっては残された時間があまりにも短い。父の先王が実の弟クローディアスによって謀殺されたという疑いを、彼は払拭することができない。クローディアスが父に替わって王位に就いたばかりか母のガートルードをも奪い、王妃にしてしまったことは消しがたい屈辱だ。そしてまたハムレットは自分もまたクローディアスによって亡き者にされるのではないかという疑念と怖れも抱いている。だが疑念はあくまでも疑念であり、はたしてそれが正真正銘の真実であるかどうか、わからない。感覚として九分九厘真実であっても動かぬ証拠が欲しい。しからばその証拠を得たとしてどうするのか、王に反逆するのか、挙兵するのか、クローディアスがやったかもしれないような謀略をもちいて王クローディアスを殺すのか。しかしハムレットにはそこまでの構想はない。真実究明に忙殺される時間がほとんどである。その先のことも考えに考え、想像力をめぐらせるハムレットであるが、おそらく彼は暴力的な資質の持ち主ではなく出世欲にもとぼしく、平和的で心やさしい人である。疑念が仮に真実であったとしても、正々堂々と理由を述べた後での王クローディアスとの一対一の対決くらいが彼に思い浮かべられるほどのイメージかもしれない。だがそのことについても決断ができるのではない。迷いに迷うのだ。
  人を殺すことは自分もまた死に近づく、それどころか死を決定付けられる。ハムレットを絞めつける観念である。人殺しをして自分はだんまりを決めて生き延びることは決してできないことではないが、ハムレットにはなぜかその想像と欲望が抜けおちている。人を殺すことは自分も罪を背負うことになる。罪は当然死に値する、その覚悟がなければならない……。ハムレットはこのように肉親を殺され略奪されたことから来る怒りに支配されるだけではない。倫理的だ。クローディアスを、王位を簒奪することを目的にして謀略を用いて殺戮するというその行動を人としてはたして看過できるのか、という義憤といえるものだ。個人的な怨みつらみにとどまらず公共性に踏みこもうとする。無論ハムレットにも臆病風もあり、死にたいする恐怖もある。恭順の意を王にひたすら示せば将来は王の地位につけるのかもしれない。だがそうして生きのびようとすることが自分にとってふさわしいことか、自分のみならず人として正しいことか、遡って「正しさ」とは何か、生きるとは何か、という問いかけがハムレットを責める。
  ここまではハムレットの時間であり、せいぜい友人といわれるホレーシオを巻き込むのみだ。だが時間というものは特異な環境にないかぎりは孤独裡にはつむぎだせないものだ。多くの人の交わりのなかで時間は形成される。ハムレットも例外ではなく、ハムレットの時間はこのことによって歪まされ、また加速させられる。
  戯曲は主人公以外の人物の動きも同時並行的に描き出す。ハムレット周辺の人物群が、ハムレットが知らないところで何を考え画策しようとするのかが読者(観客)にとってわかる。クローディアスは口先では次期王位をハムレットに約束していながら、ほんとうは亡き者にしたくてうずうずしている。それをためらわせるのは王妃ガートルードの息子ハムレットにたいする愛情であり、王への懇願である。王はハムレットが何をしでかすか、警戒心と怖れを抱いていて監視をおこたらない。廷臣ポローニアスはそんな王の心配を知悉していて、ハムレットにたいしてスパイもどきの動きをする。忠誠心ともいえるが、ポローニアスの根底にあるのは、なにがなんでも生き延びてやろう、自分や一族の生き残りが最優先であり、そのためにはどんなこともやってしまおうとする身にしみこんだ処世術である。クローディアスの治世がながくつづくとにらんでいて、王クローディアスの意志を率先代行し援助することが、自分の地位の安定をもたらすとの思惑だ。自分のためには他人のことなどどうなってもいいという冷酷漢で、ハムレットは排除すべき重大な危険人物に過ぎない。そんなポローニアスをシェイクスピアはハムレットと対極的な人物像として描き出す。もしハムレットがポローニアスのような生き方をえらべば、生きながらえることができるのかもしれないが、ハムレットにはそれが迷いに迷ったとしても、結局は金輪際できないという意味で。
  ハムレットは自らの死を射程に入れている。父の亡霊に出会い、クローディアスへの復讐を依頼される。恋人でポローニアスの娘でもあるオフィーリアにつらい別れを告げる。オフィーリアはかねてから父にハムレットとの別離をうながされているので二重苦だ。さらにハムレットは役者を雇い、想像した先王の死の真相を描いた劇をクローディアスにみせつけ、その反応で王の腹中を読み取る。さらに母ガートルードを非難する場面がある。重大な場面がつづくなかで、私にとってここが峠だった。真相を知りながら先夫の弟と結婚し王妃でありつづける母へのハムレットの最大限の罵倒と失望が口酸っぱく語られ、並べられる。だがどうもそれだけではないようだと、私は思った。女性の貞操のいい加減さ、無力をなじるハムレットであるが、またそれはオフィーリアへの非難と同質であるが、これだけは自分の口から言っておかなければならないという痛切の思いも共感できるものの、その裏側では正反対といえる思いが流れているのではないか。ハムレットはやはりというべきか、女性の男性や戦乱にたいする圧倒的な無力をも知悉せざるをえないと受け取った。母への同情と愛情にそれはつながり一体となる。またかつて仲睦ましく父母と過ごした時代への懐旧にも重なる。言葉の表側のきびしさとは裏腹の愛惜をしっとりと想像させられた。この場面はハムレットを演じる俳優にとってはやりがいがあるはずだ。
  この場面のもうひとつの重要事。その語りの途中でポローニアスが帯剣したハムレットに斬殺される。壁掛けのうしろにかくれて盗み聞きしていたポローニアスであるが、ガートルードが助けを呼んだためにとびだしたところをハムレットに一撃される。「ネズミ」と呼んで歯牙にもかけないハムレット。ハムレットの語りはまだ途中で、是非とも言い終わってしまわなければならないという切迫した思いにハムレットは心を奪われている最中だからだ。母は唯一の残された家族で、つらい別れを告げることがこの時点では最重要事だとの思いにハムレットは圧倒されている。他人の命よりも家族なのだ。うならざるをえない。また私のこの場合は「読む戯曲」であるから俳優の動作は最小限の説明ですまされるからポローニアス殺害の衝撃は小さくなるのかもしれない。「観る戯曲」だとより生々しいのかもしれない。ともあれ、これによって殺人者の仲間入りをし、ポローニアスの家族にとっては「仇」となってしまったハムレットであるが、そのことに気づき自覚するのは、二人にくわえて先王の亡霊も登場するこの場面の終わり近くである。
  やがてハムレットは王クローディアスに勧められて、ポローニアスの息子レアティーズとの剣による対決を受け入れる。ここが大団円だ。レアティーズの剣には致死性の毒が塗ってある。さらには勝負の合間で喉を潤すための酒にも毒が混入されていて、この謀略はクローディアスの手になるものであり、レアティーズも了解済みだが、一方ハムレットは知らないように見える。読者(観客)は二人の共謀を先に知らされるのだから、ハムレットが絶体絶命の運命にあることも明瞭にわかる。ところが、読者(観客)は、ハムレットが謀略に感づいているのかもしれないとなぜか思わずにはいられないのだ。読者と主人公とのあいだに共鳴性がはたらくのではないか。主人公ハムレットへの同情そのものである。すぐれた戯曲がもつ効果の不可思議さだ。しかし、ハムレットが謀略に無知であったとしても、レアティーズにとっては親の仇になってしまったハムレットであるから、紳士を自負するのであればハムレットは受け入れざるをえない。また表面上は制限のある勝負で、どちらかが死ぬまでつづける決まりではないから負傷で済ませられる可能性も残されている。とはいえ、ハムレットは思ってもみない時間と条件に遭遇させられてしまった。クローディアスとの対決がかなわないままに……。やるせない。
  レアティーズは直情径行の人物で、最初は父殺しの疑惑をクローディアスに向けて、いまにも反乱を組織せんとばかりに民衆を引き連れてクローディアスの居城に押しかける。ハムレットにも同じ行動を選択する余地があったことを作者は示している。つまりレアティーズはハムレットの陰画的な人物像にちがいない。父ポローニアスがハムレットの対極的な人物像であるように。
  ハムレットは暴力的志向を身に付けようとして自己叱咤するが、闇雲ではなく、冷静さもやさしさももっている。おとなしくして生きのびようとする欲望に無縁ではない部分もある。私がはっとしたのは、クローディアスが兄殺しを告白しながら神に祈るちょうどそのときにハムレットが遭遇する場面。ハムレットは深く共感し、対決し殺害しようと決めた方針にためらいを見せる。フィクションとはいえ、こういう心の働きが自然にできる人間はざらにはいないと思わせられた。弱さではない。振幅がおおきくて、しかも中心軸を見失わない人がハムレットである。多くの人がこの作品に共感し、語り、文学芸術の標準のひとつとなったことに頷ける。

このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。
どちらが立派な生き方か、このまま心のうちに
暴虐な矢弾をじっと耐えしのぶことか、
それとも寄せくる怒濤の苦難に敢然と立ちむかい、
闘ってそれに終止符をうつことか。(p110)

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