大洋ボート

ジョゼフ・コンラッド『ロード・ジム』(2)

ロード・ジム (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)ロード・ジム (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)
(2011/03/11)
ジョゼフ・コンラッド

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  船長以下三名は身柄を拘束されていないこともあって、逃亡したり入院したりで、結局はジムだけが裁判に出廷させられることになる。乗船客を置き去りにしての母船からの逃亡という、船員としての義務違反をジムは厳しく問われる。最年少のジムが矢面に立たされるのだ。裁判とは罪状の詳細をつめていくもので、そこにいた個々人の行動と動機を明らかにするためにもっぱら進行する。たとえジムが逃亡に最後まで反対であったとしても、結局は船長以下と同一行動をとったのだからジムの内面世界がどれほど注目されるのか考慮されるのか、ジムにとってはまったくあてにならない。それにジムが一方的に言いたいことを言える場所でもない。「地獄だ!」とジムは後にマーロウに言う。裁判とはそういうものだ。そんななかマーロウはジムに近づいていき、最初は警戒をし誤解もしたジムであるが、まもなく二人は親しくなり、酒を酌み交わしたりしながら長い対話を展開することになる。七章から十二章あたりまでで、この長編小説の最大の読みどころである。
  蒸気船パトナ号はメッカに巡礼に赴くためのイスラム教徒八百人を乗せてシンガポールを出航したが、アラビア半島手前のインド洋西方で難破する。艦首部分に浸水して船が傾いたのだ。このときの船の傾斜と衝撃に瞬時に気づいたのは、書かれているかぎりはジムをふくめて五人。乗客はまったく無知のままだ。艦首と本体部分は隔壁によって塞がれてはいるが、水圧による隔壁の破壊も時間の問題で、げんにジムは隔壁が内側に湾曲して「手のひら大」の錆がそこから落ちるのを目撃する。沈没まであと三十分ほどの余裕しかないとジムは推測する。ジムはいかなる行動をとったか。まっ先に浮かんだのは乗客の安全だが、救命ボートは乗客八百人にたいして2分の1とも3分の1ともいわれる人数分しかないことがわかっている。とりあえずはボートと船体をつなぐロープをすべてナイフで切断しなければならないと考え、結局はそれは脱出の直前にジムによって実行されたようだが、ボートが実際に海に浮かんだかどうかは記述がない。乗客に難破を告げるべきか。だがそうすると甲板に乗客があふれかえり、人数分のボートは無いから乗客はパニックに陥るだろう。その光景が目に浮かんでジムにはできない。
怖くはなかった、逃げる気もなかったとジムは強調する。船に残るという漠然とした意思以外に具体的な行動を決定できないまま時間が急激に過ぎていく。そんななか目に飛び込んでくるのが、船長以下四人の醜態だ。彼等は乗客を見捨てて脱出するためにボートを用意しようとするのだが、これが船体につながれた固定器具が思うように外れずに悪戦苦闘する。ジムは激しい嫌悪感と侮蔑に見舞われ、虫唾が走るどころではない、私にいわせれば頭の中の純粋な意思を爪でひっかかれるような心地だろう。しかしまた最終的に彼らと行動をともにすることになるのだから無意識裡に彼らに力学的に引っぱられるのだろうとも思える。ジムのいいところは「手伝え!」と船長らに命じられたにもかかわらず、それを拒否してはなれた場所に立っていたことで、これがジムの精一杯の抵抗だ。
  あらかじめ心に準備されていた義務意識、「最悪の事態」に対処すべき用意と戦闘心、「最良の自分」、そこには海の男としての憧れさえもがつまっている。さらに不測の事態に遭遇した現場でもそれを貫こうとする意思、これはよくわかる。だが心に積み上げたものや現場においてさらに心に生起したものとジムは最終的には正反対の行動をとってしまう。私にはこれもよくわかる。本能的な死の恐怖にたいして人間はなかなか正面きって立ち向かえない存在だからで、マーロウ以下彼を評する人物も一様にジムにたいして同情的だ。またそれほどの危機ではなくても、心に生起したことと実際の行動が正反対になりうることを私たちは体験的に知っている。孤立や戦いをともすれば忌避したり、そこまで意識しなくても目立つことを嫌がり妥協してしまったりする。私たちはその臨場感を覚えていて羞恥をともなうことが多いが、このことも理解の糧にはなる。
  私個人は死にたいする心の準備といえるものをしたことがない。いつか寿命がつきて死ぬことは知ってはいるが、まさか近日中にそれが襲ってくるとは思いたくない。多くの人が私と同じであろうが海難事故がついてくる船乗りの場合は、とくに船の安全性が今日ほどの水準ではなかったであろう十九世紀末においては死にたいする心の準備は必要であったと思われる。しかしいくら下準備をしたところでいざ死が切迫してくると、あらたにそれをなさねばならない。ネジを巻き戻すのではなく、切迫する死の具体性、固有性に、否応無しに押し寄せてくる想像力上における映像と感覚にたいして向き合わねばならない。普段における「準備」と実際化した下での「準備」とはちがう。それに、純粋に自分の死のみに向き合えることが可能でもないらしい。難破船という逃れられない具体的現実のなかで、乗客の存在や船員の行動が目に飛び込んでくる。それら全体の雑駁性の奥の奥に自分の死はぼんやりとしてしか映らないからだ。

  『僕にできることは何もない――そのことが、いまこうしてあなたが見えるみたいにはっきり、あのときの僕には見えたんです。手足から力がすっかり抜かれる気がしました。(略)』(略)
  『溺れる前に、息が詰まって死んでしまうと思いましたよ』(p96)


  

(略)死ぬことは怖くなかったかもしれないが、しかし、修羅場は怖かったのだ。混乱した想像力が、頭の中に、パニックから生じる恐ろしい要素すべてを呼び起こした。人々は逃げようとあたふた走り、哀れな悲鳴が上がり、ボートに水が浸水する。これまで耳にしてきた、海での惨事を形成するあらゆる出来事が思い浮かんだ。死ぬことは諦念とともに受け容れていても、死ぬなら余計な恐ろしさなしに、静かな、一種平和な忘我の境地で死にたかったのだと思う。死をある種前向きに受け容れられる人間はそれほど珍しくないが、不屈の決意を鎧のように心にまとって、最後の最後まで負け戦を戦う覚悟でいる者はめったに見ない。(p97)


  二番目の引用文はマーロウの語りである。マーロウは若い頃の自分をほとんどひけらかさず、もっぱらジムの話の聴き手であり引き出し手であるが、ここへきて死に関する持論を披露したのか。死に臨むには余計な恐ろしさがないほうがたやすい、という個所は非常に興味をひかれる。あるいは、作者コンラッドもまた三十六歳まで海の男だったらしいから、マーロウを飛び越えてコンラッドの地声がここで吐き出されたのかもしれない。
  船に最後まで残ろうとするジムの決意は、ジムの語りによると意識的に変更されることはなかったと読み取れる。だが次の個所は難解だ。ジムは自分の死をどっぷりと想像してみる。従容として受け容れようとするのか、諦めるのか、それともあらたな行動のイメージが密かに顔を出してくるのか。少なくとも想像することによってはジムに何ら満足をもたらさなかった。というよりもますます恐怖と嫌悪がつのってきてジムを引き裂く。死ぬことも怖ろしいが、死を想像することもまたそれにもまして怖ろしいことがジムからマーロウに引き継がれて語られる。船に残るという決意が薄らいでいったとしても不自然ではないだろう。私には結局はわからない。また私はジムを責めるのではなく、マーロウと同じく同情する者の一人だ。

  (略)星空が納骨堂の丸天井のように彼の頭の上で永久に閉じる――若い命が抗う――そして真っ黒な最期。彼はそれを思い描くことができた。いや、誰だってそれはできる! 忘れてはならない、彼は彼なりの奇妙な形で、芸術家として完成されていたのだ。迅速な、行動を妨げてしまう先見の明を彼は与えられていた。その才によって見えた光景が、彼の足の裏から首筋までを冷たい石に変えたが、頭の中では、さまざまな想念が熱く踊っていた。それは不具の、盲目の、声なき思考たちのダンスだった。どうしようもなく不自由な者たちから成る渦巻きだった。(p107)


  「納骨堂」という言葉があるが、ここでイメージされる死はけっして神仏に庇護されたやすらかなものではなく、剥き出しになった死としての残酷なものだ。「行動を妨げてしまう先見の明」も皮肉が痛烈に効いた言い方だ。死を想像するよりも、逆に船長らのように死をおそれて闇雲に行動したほうがはるかに楽ではないか、活気がみなぎるのではないかという考察がここには鏤められている気がする。そして「想念」としての「不具の、盲目の、声なき思考たちのダンス」「どうしようもなく不自由な者たちから成る渦巻き」が形成されて居座る。この「想念」はけっして「生」につながるように成長するのではなく、あくまでジムを死に引っ張りこもうとしてジムのなかで騒然と暴れる想念である。ジムのなかの意思としての死は生に思想として直結しているが、もたらされた「想念」のなかの死は、向こう側からやってきたもの、現場で生まれ出たもの、死そのものであって生とはまるで反対のものだ。そして生き残ってしまったジムを絶えず脅かすことになる、つまりは「想念」はジムの現在と未来に同伴する存在となる。
  やがて黒雲が発生して嵐を予感させることも手伝ってジムをますます窮地に追いつめる。悪戦苦闘の末、ようやくボートを海上に浮かべて移り乗った三人が「ジョウジ!」ともう一人の仲間を大声で呼ぶ。私は最初に読んだときには耳を疑った。「ジョウジ!」ではなく「ジム!」と呼ぶべきではないか。それともジョウジとジムは同一人なのか。いや、ジョウジは脱出志願の船長のもう一人の仲間だったが、心臓発作を起こして倒れたのだ。(後に死亡が確認される)それを聴いてジムはたまらなくなってボートに飛び降りる。自分を呼んだのではないのに。

  「(略)『もう後戻りはできませんでした。まるで井戸の中に、永遠の深い穴の中に飛び込んだみたいでした……』」(p123)

  生きようとする明確な意志にもとづいての行動か、たとえそうであってもジムはそれを認めたくはない。死のうとする意志に疲れてしまったのか、薄らいでしまったのか、死を選択するというジム本来の「生」からの転落の意識でもあろうか。しかし一旦はボートに同乗してからも、なおジムは船に戻ろうとする明確な意志をあらためてもったとマーロウに断言する。ボートに乗り移ったときからしだいに、船に残ろうという意思は衰えていきそうなもので、少なくとも私ならそうなりそうだ。船に戻ることは実際には行われなかったが、ジムのこの言は私には呑み込めなかった。未練をあらためて自身に強く刻印することに意義を見出すのか。ジムに寄り添うような読み方を私はしたが、小説ではなくとも実際の人同士の交流においても、腑に落ちなかったり理解不能なことはあり、それを思い出すことになった。

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ジョゼフ・コンラッド『ロード・ジム』(1)

ロード・ジム (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)ロード・ジム (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)
(2011/03/11)
ジョゼフ・コンラッド

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  ある登場人物に言わせると、理想主義者でありかつロマンチストである青年ジムが主人公。そうまで言わないとしても、この長編小説は青年像としてひとつの典型を描出し成功したことは確かである。はたしてジムをとりまく人物は、はたまた読者は、彼の生き方、最終的には彼の運命を彼独自の力で決してしまうやりかたに賛同できるだろうか。賛同できないまでも部分的には共感できるだろうか。それとも寄せてきて巻き込もうとする誘惑の波を十分に感じながらも「いやいや」と両手で制止するポーズをとるのだろうか。
ジムがとった行動を誰もがそうやすやすとまねはできないが、私にとっては彼の行動と人生は十分に衝撃的であり魅惑に満ちている。彼の生真面目さや倫理観は狭隘さをともなっているが、それだけにつきつめられたものであり、その追求の姿勢は凡人をたじろがせるものがある。読者はジムの人生と自らのそれとのあいだを何度も往復しなければならない。ジムとは何者か、それは私たちとは何者かという自問自答とかさなりあう。ジムと私たちとのあいだには当事者としての深刻さの度合いにおいて隙間があるが、私たちもまた「当事者」としてふるまわなければならない場面は多々ある。ジムと同じように当事者として刑事責任を問われないまでも、そこにおける失敗や責任意識は私たちの生活や体験にも付きまとってくるもので、その距離は案外とおくもないのではないだろうか。
  柴田元幸氏の翻訳文は読みやすいとはいえない。あとからあとから粘土を貼り付けていくような、それによってはじめに抱かされたイメージに修正を強要されるような、それでいてスピードを減殺されることなくむしろアップさせる効果をもたらす。読者はさまざまな指摘をすべて呑みこめないまま、あやふやに自分のなかで統合しながらせかされるように読み進まなければならない。これは作者コンラッドが語り手であるマーロウに独特な理解の姿勢を付与したことにもよる。コンラッドの文体自体の特徴であることも勿論だが。
  その時々に出会った対象がマーロウに魅力を撒き散らすと、彼は慌てるように情熱的に言葉をつぎ込んでいく。その感覚やイメージ自身「正しい」のかどうか、万人に共有できるものかどうかはまずは問わず、マーロウは刺激されたことの確かさを忘れまいとしてそれらを「魅力」として定着させる。考えを深めるのは後からでいいといわんばかりに。すると後になって同じ対象でありながらも、それまで目にしなかった未知の眺望が開かれ、そこにまた別の魅力ある感覚やイメージや思想的追究課題までが立ちあらわれ、マーロウはそれをまた大急ぎで言葉にする。結果、はじめの言葉は修正を余儀なくされるが消滅するのではなく生き残り、同じ対象でありながらも多面的に切り込まれる。対象とは主にジムをはじめとする人間であるが、作者コンラッドによってはじめから整理整頓されてはいない。知りたい、近づきたいというマーロウの情熱的な欲求と行動をつうじて、彼の後ろからついて行くようにして、私たちは対象を視野に入れることができる。同時に右往左往といえば大げさだが、マーロウに生じる混乱や微修正を彼の語りの力の不足としてではなく、マーロウその人の思想や姿勢の表現としてみなければならない。マーロウはたんに語り手というのみならず、ジムに匹敵する重要人物だ。私は原文を直に読む能力はないが、柴田元幸氏の翻訳はコンラッドという作家の文体のうねりと力強さを見事に移植してくれたと言いたくもなる。
  ジムは一等航海士で、24歳にも満たないと何処かに書いてあった。太平洋とインド洋を股に駆けての遠洋航海の船がもっぱらの職場であるが、客船パトナ号に乗り込んだとき事故に遭遇する。ジムにとっての最初の大きな躓きである。メッカへの巡礼のためにイスラム教徒多数を乗せてシンガポールからアラビヤ半島に向かった同船はインド洋西方で艦首部分が損傷し浸水する。沈没寸前と判断した船長は乗客を見捨てて、気の会う数人の船員をともなってボートで脱出するという「暴挙」にでる。乗客の救助を優先しなければならない船長としてはあるまじき行動であり、これがのちに裁判となる。ジムは船長の方針には反対であり、最後まで舟に残ろうとする意思を強く持ったが結局は船長のボートにあとから乗り込むことになる。勿論ジムも裁判にかけられる。幸いにもパトナ号は他の船に発見されて艦首を傾かせながらも曳航されて無事港に着き乗客全員が救助される。全45章のうち4章あたりから裁判の様子が描かれ、語り手のマーロウも登場する。マーロウも海の男で、遠洋航海における雇われ船長である。パトナ号の裁判に遭遇した彼はジムに異様なほどの興味を持ち、知り合いになり、ついには生涯にわたりジムへの援助を惜しまない身となる。それほど多くはなさそうな聴衆にジムの物語を聞かせるという形式で以後小説は展開する。
  マーロウはジムに言ってみればひとめ惚れする。職業上多くの若者を見てきた彼としては、今まで見たこともない素質と可能性をその外見からのみ判断して疑うことがなく、その判断に自信をもった。ごく自然に惹きこまれて揺さぶられたとでもいうべきだろう。この判断だけでジムを語ることができないのは無論だが、以後のジムとのつきあいのなかでジムの複雑さを知ることになっても、ここで吐露されるジムの好印象は、基底的にはマーロウのなかで変更されることはない。

(略)若者は少しも動かず、頭をぴくりともさせず、ひたすら日なたの方を見やっていた。それが私のはじめて見るジムの姿だった。若者だけに可能な、なにもかもどうでもよさげな、誰も近寄りえないような気配がそこにはあった。均整のとれた体つき、清潔な顔、しっかり両足で立った姿は、これまで陽の光を浴びたどの若者よりも有望という趣だった。そんな彼を見て、彼の知っていることはすべて知っている上にさらにもう少しほかのことも知っている私としては、なぜか無性に腹が立ってきた。あたかも彼が、何かいつわりの口実を使って私から何かをくすね取ろうとしているのが発覚したみたいな気分だった。何だってあいつはあんなに健全に見えるんだ。(p48)


  裁判に身を委ねるのは計4人で、ボートで母船から逃亡した全員である。これから出廷しようと裁判所前に勢ぞろいしたときにマーロウが偶然に目撃した光景だ。それにしてもジムにたいするマーロウの惚れ込みようは異様に映る。だが後の展開でわかるが、ジムに接したほとんどの人がジムに賛辞を惜しまない。勤勉でよく動き知恵もある。そのうえ馴れ馴れしくなく礼儀を守る。誰もが傍においておきたいと思わせる青年である。「朝露がついた男」という表現もあった。経験上多くの若者に接してきたマーロウだからこその「ひとめ惚れ」だと読者に思わせたいのかもしれない。さらに輪をかけるようにマーロウのジムへの考察。

私はそこにいる若者を見た。彼の外見が私には好ましかった。その外見を私は知っていた。これはまっとうな場所から出てきた人物だ。彼は私たちの一人なのだ。自分の同族全員を代表して彼はそこに立っていた。決して利口でも面白おかしくもないけれど、正直な信念と本能的な勇気とを生き方そのものの礎にしている。そういう人間を代表して立っていた。勇気といっても、軍人の勇気でも市民の勇気でも、その他何ら特別な種類の勇気でもない。ここで言っているのは、もって生まれついた、誘惑をまっすぐ見据える力のことだ。知性などとはおよそ関係ない、進んで事を為そうとする、気取りとは無縁のひとつの姿勢のことであり、ある種の抵抗力、無粋ではあれかけがえのない能力のことだ。外なる恐怖内なる恐怖を前にして、自然の脅威を前にして、人間たちの誘惑的な堕落を前にして思わず身をこわばらせるその幸福なる力は、事実の圧迫にも動じず他人の例にも汚染されず理念の誘いにも応じぬ信念に支えられている。理念など何の足しになる? そんなものは心の裏口をノックする浮浪者、放浪者であって、そいつらが人から少しずつ実質を奪っていくのだ。(p50~51)

  
  優秀な「個」を個の内側からささえる素質と良き信念とそれらの完成形についてマーロウは語るように思われる。そしてそれは特別な職種や知性によって保障されるのではなく、私たち誰でもが持つであろうよき部分の素質、つまり「愛」だの「勇気」だの「信念」だの「抵抗力」だのを、若者としての成長の過程でジムが自己鍛錬によって自分の肉体のなかに具現化したものとして語られる。私達のよき部分を結集し、さらに結晶化されたもので「自分の同族全員を代表して」と書かれる。マーロウのジムにたいする異常ともいえる親近感で、読者もマーロウにそそのかされて鵜呑みにし、ジムという人物に共感しようとして読み進む。しかしこの褒めちぎりは読者に故意に誤解をあたえるものではないか。とりわけ気になるのは最後のほうで「理念」について語るくだりである。ここで指摘される理念とは固有の言葉によって彩られたそれで、これをすべきだ、あれをすべきではないという、何らかの行動規範がついてまわる性質を帯びるものではないか。それならば確かにそういう「理念」とはジムは無縁であるとはいえる。だがジムもやはり理念といってよければ、そういうものに生涯を縛られることになる人物だ。正しさへの盲目的なまでの執着である。裏返すと「正しさ」を具現できなかった場合、いかにして再度それに挑戦するか、またいかに自分にふさわしい懲罰を与えるべきか、という問題意識である。その点では、パトナ号事件という具体的体験を契機としてジムのなかにはじめて立ちあらわれてくる「理念」であって、あらかじめ与えられた理念によって生まれ出てくるのではないことは確かだが。また誰の助けも借りずに、彼一人の思いによって打ち立てられた「理念」であり目標設定であるといえる。自分一人の力を信じて、一人でやりとげようとする、この点をマーロウは過剰にもちあげるようにみえる。頼もしさをみたがる。
  ジムは急進的といえるほど倫理的だが、彼の「理念」と最終的な自己裁断はそうおいそれと私たちに共有できるものではない。牧師の息子であることが何回か触れられ、父にとっては自慢の息子ともいわれる。「正しさ」への執着の出自を指し示すのか。かくして「自分の同族全員を代表して」という言葉は怪しいのだ。物語の大半を知ったうえで語り始めるマーロウは、なにゆえこの「誤解」を記すのか、読者にジムにたいする親近感を強く持たせようとするためか。それとも、あくまで初めて会った頃の印象として限定されるのか。マーロウにおける最も好ましい青年というジムにたいする評価は、基底部ではずっと生きつづけるが、小説の展開につれて、層のようにそこに積みあがっていく別の印象や判断がある。

    07:27 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

凶悪

  死刑判決を受けて拘置所に収監中のピエール滝から雑誌社に連絡が入る。自分には余罪があり、さらにその関連で、司直の追及から逃れていまだ娑婆でのうのうと暮らすリリー・フランキーが居る。滝によるとフランキーは保険金連続殺人のリーダーで「先生」と呼ばれている。勿論滝も深く関わっている、という内容だ。雑誌社の記者山田孝之はさっそく調査に乗り出す。 
  山田孝之の真面目でつきつめた表情が好感が持てる。晩秋の頃か、北関東郊外の人家と自然の緑が混在した風景も内容にふさわしく寒々とした表情を見せる。しかし肝心の犯罪のおぞましさ、無気味さが迫ってこないことが、映画としては欠点ではないだろうか。
  保険金の不法取得もふくめてさまざまな手口で同一犯(またはグループ)による「連続殺人」なるものが、この世に存在することを私達はメディアによって知らされる。その詳細がしだいに明らかにされる。犯人の人となりや動機、犯罪の巧妙さと残酷さがあぶりだされてくる。しかし少なくとも私はたいていの場合はそれほど深く興味をもてない。自分と犯人の共通性をとりだしてきてそれを拡大して、想像力の世界に浸りこむようなことはしない。むしろ遠ざけようとする力が私のなかでは働くようだ。だが映画や読み物(ノンフィクションと称されるものもふくめて)では別の力が働く。犯罪が主題ならば、それを自分なりに「理解」しようとせざるをえなくなる。「犯人」が再構成された作り物の世界から「殺人とはこんなにおもしろいものだ、どうだい、おまえも一緒にやらないか」と呼びかけられて私がその声に生々しさを感じられれば、ぞくぞくすれば、その作品は成功したといえる。傑作『冷たい熱帯魚』のなかで俳優でんでんは、それを大真面目にやっていたので、こちらに連続殺人という別世界の「おもしろさ」がひしひしと伝わってきた。死体を切り刻む最中の血の海の中からその一部分をとりだして「これがちんぽだ!」と言って主人公に見せつけるでんでん。その喜色満面の表情が忘れられない。  
  だがこの映画にはそういうものがまるでない。とりわけいただけないのがリリー・フランキーだ。保険金をかけた老人に滝とフランキーが強い酒をこれでもかこれでもかと飲ませる場面がある。勿論老人は嫌がるが、二人は得意満面の笑いを浮かべる。だがフランキーがいかにもぎこちない。俺はほんとうはこんな人間じゃないといわんばかりの逃げ腰が透けて見えてくる。観客に残酷犯罪の「凄み」よりもフランキーのいい人らしさが伝わって、見るほうも照れくさくなる。うまい下手ではなく、俳優としての姿勢とのめりこみ方の問題だろう。
★★★
    12:26 | Trackback : 0 | Comment : 0 | Top

退院

  左胸の周辺が痛い。じっとしていると何ともないが、動かすとずきずきする。とくに身体を捻ったり、寝ていて寝返りを打つと痛みが走る。激痛というほどではなく、あと1日か2日放置してもいいかなとも思ったが、家人の勧めもあって病院探し。症状にかなった病院を探してくれるところに電話してみたが、その日は日曜ということもあって当直医に専門外の医師しかおらず、らちがあかず、結局は、かっこ悪いが救急車を呼んで何処かの病院にねじ込んでもらうことにした。やはりこのほうが早く、なんのことはない、家から一番近い総合病院に運んでもらった。検査の結果、肺炎と判明。風邪による一症状と軽く踏んでいたが、それよりも重症だった。
  最初の4,5日は仕事をしている夢をよく見た。旋盤に固定された鉄材がくるくる回っていた。夢から覚めた後、ここは病院なのに、なんでこんなところまで来て、俺は仕事をしなきゃならんのだと不思議な思いにとりつかれたものだ。しかし1日に3度の点滴で病状はみるみる改善。39度近くあった熱も下がり、左胸の痛みもほとんど消えて、1週間くらいすると自分ではほぼ平常にもどったかなと思えるようになった。入院生活の退屈さも感じるようになった。だが主治医の方はどう判断したのか、なかなか退院させてくれない。もっとも予定は2週間ということで、その期間中は完璧に治療する期間とあらかじめ決められていたようでもある。予定よりもたった1日だけ早く退院させてもらった。
  細菌性肺炎の疑いがあるという。酒か煙草が影響するらしいが、検査のときに必要な痰がそのときにかぎって搾り出すことができずに、細菌の正体を判明させることができなかった。少し残念だ。再発することが多い病ともいう。やはり酒と煙草が悪影響するらしい。医師は全面的に禁酒禁煙を命じるでもなく、その点ではだらしない私はひそかに安心したが、度を越してはならないことは肝に命じておこう。成人してからは入院経験は一度もなく、健康にはなんとなく自信を持っていたし無頓着であった。これからはそうもいかない。
Genre : 日記 日記
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